第三十一滴 砂の城
天璃に目を留めた百目鬼が、柔らかな口調で話しかけた。
「一組の御門さんですね。何があったか教えていただけるかしら」
「通路を足で塞がれたので、下をくぐろうと思い持ち上げました」
「あらまあ。それはそれは、二組の生徒が失礼いたしました」
困った顔で生徒を見た百目鬼は、申し訳なさそうに天璃へ謝罪している。
「先生!?」
「クラス対抗戦のルールにより、御門さんは獲物側として参加されています。だからといって、飼い主という立場がなくなるわけではありません。この意味が分かるかしら?」
抗議の声を上げた生徒を、百目鬼が静かに叱った。
学園において、カーストは絶対だ。自らの立場を突きつけられ、生徒は悔しそうに唇を噛み締めている。
「さあさ、席に着いてください。今年が初めての方もいますから、おさらいも兼ねて一通り説明いたします」
穏やかだが、有無を言わせない強さがあった。
静まり返った教室に、百目鬼の声だけが響く。
授業を終える鐘が鳴るまで、生徒たちは大人しく口を噤んでいた。
◆ ◆ ◇ ◇
「ひ弱な子だって聞いてたのに……」
半泣きの女生徒から、恨み節が漏れている。
どうやら、カフェでの出来事は他のクラスまで届いていたようだ。
即席の演技でも、それなりに効果はあったらしい。
宥めるクラスメイト越しに女生徒を見た天璃は、彼女の素直な性格を少しだけ羨ましく思った。
噂とは、都合よく操るためのものだ。
信じる者が増えるたび、流した者が得をするようになっている。
誰にとって都合のいい噂かは、元を辿ってみなければ分からない。
この場合は、流させた者が得をしただけの話だ。
間に受ける安直さと、信じられる純粋さは、いつだって紙一重である。そして天璃には、そのどちらもが備わっていなかった。
説明の最中、百目鬼は「対抗戦が終わるまで狩りは行われない」と話していた。
つまり、彼女たちとは今後もこうして顔を合わせる必要があるということだ。
ボロを出した生徒たちの姿を、しっかりと記憶しておく。
心配そうに様子を窺う兎々に気づき、天璃の表情にふと温かみが差した。
「ごめんね、兎々ちゃん。私がいることで、余計に面倒ごとが増えちゃってるかも」
「そっ、そんなことない……! わたしも去年、同じようなことされたから……」
大きく首を横に振った兎々は、過去の記憶に目を潤ませている。
死と隣り合わせの獲物にとって、飼い主という立場は一種の憧れであり、命綱だ。
飼い主に対する強い執着は、徐々に選ばれた者への嫉妬に変わっていく。
ペットの猛獣がいなければ、自分と何ら変わりない存在。
そんな考えを持つ獲物にとって、今の天璃たちは格好の的に映っているのだろう。
「去年、か」
「霊藻ちゃんとは、一年生の時に契約して……そこからずっと、一緒なんだ。あ、教室には阿留多伎さんもいたよ」
「前も同じクラスだったんだね」
「えっと、クラス自体はそのままで……一組は一組のまま、学年を上がっていくの」
どうやら、卒業までの三年間、クラス替えなどは行われないようだ。
天璃の知らない過去の記憶に、段々と興味が惹かれていく。
「一年生の珠羅ちゃんか……。ちょっと気になるかも。兎々ちゃんさえ良ければ、次の集まりの時にでも聞かせてくれないかな?」
「う、うん! いいよ……!」
辛いだけの集まりが、僅かでも楽しみに変わればいい。
頬に赤みが戻った兎々を見て、天璃が優しく微笑む。
結局のところ、今回は天璃という目立つ存在がいたことで、獲物たちのヘイトが集中していたに過ぎない。
たとえ天璃がいなくても、別の飼い主がターゲットにされていただけだ。
「天璃ちゃん、迎えに来たよ〜」
「帰んで、兎々」
教室内に騒めきが広がっていく。
そこにいるだけで華やぐ猛獣たちは、獲物にとって喉から手が出るほど魅力的な存在だ。
そして同時に、恐怖の対象でもある。
「なんか、天璃ちゃん欠乏症かも〜。今日はくっついて寝よーね」
近寄った天璃を、珠羅が腕の中に囲う。
ぐりぐりと頬を擦り付けられ、天璃は堪えきれず笑い声を上げた。
「珠羅ちゃん、くすぐったいよ」
四方から突き刺さる視線は、制御できていない感情の現れだ。
頑丈な檻の隙間から、天璃は外を覗き見た。
「気になるの?」
「気になるというか……素直で、羨ましいなって」
「ふーん」
チラリと視線を向けた珠羅だが、すぐに興味を失ったらしい。
珠羅にとって他の獲物は、気にかける価値すらないのだろう。冷めた眼差しも、ほんの一瞬のものだった。
圧倒的な強者は、弱者を悪意なく踏み潰すことがある。
猛獣が獲物を狩るのも、人間が蟻を殺すのも同じことだ。
蟻が人間に文句を言えないように、獲物も猛獣に文句など言わない。
そんな猛獣と獲物が、ファンタジアでは檻一つを挟んで暮らしている。
猛獣はルールという檻を越えず、ペットは飼い主という檻から離れない。
けれどもし、飼い主があえて檻の扉を開いたとしたら──?
果たして、檻に入っているのはどちらなのか。
そんな簡単なことさえ、感情の悪魔に取り憑かれた彼女たちには分からないのだ。
これからも、そうあってくれたらいい。
同じになれない天璃にとって、真っ直ぐな彼女たちの姿はどこか眩しく。
まるで、砂で作られた城のように──脆く崩れゆくものに見えていた。




