第三滴 狩りの始まり
ピシッ……と、魅与が石像のように固まった。
静まり返った教室で、誰かが吹き出したのを皮切りに、次々と笑い声が上がっていく。
「ちょっと! なに笑ってるのよ!?」
「魅与、さすがにいちご柄は……っ」
「荒牙まで信じらんない!」
下着を馬鹿にされた怒りで、魅与が顔を赤らめる。
「あんた……次の狩りが来たら覚えてなさい。真っ先に殺してやるんだから!」
天璃を指差した魅与が、苛立ちを抑えきれない様子で顔を背けた。バッグを拾い上げた天璃は、平然とした態度で珠羅の隣に座っている。
「では、教科書の三八ページを開いてください」
結解が授業を始めたことで、生徒たちも落ち着きを取り戻していく。
二人用の長椅子と机。天璃の方に教科書を押し出した珠羅は、肩肘をつくと、天璃のことをじっと見つめている。
「……お返しは、まだ決まってなくて」
「ふーん」
小声で話す天璃に、珠羅は相槌とも取れる返事をした。
その間も視線が逸らされることはなく、珠羅はアーモンド型の目をぱちりと開き、真顔で視線を注ぎ続けている。
「珠羅ちゃんは……どんなのが欲しいの?」
目にかかった前髪を、天璃の指がそっとよけていく。正面から交わった視線に、珠羅が目を瞬いた。
闇のような瞳に光が灯るだけで、妖しげな美人が可愛く見えてくるのだから不思議だ。
幾分か幼さの増した容貌に、天璃の脳裏をギャップ萌えという言葉がよぎっていった。
珠羅の唇が薄く開かれる。
口にしかけた言葉を遮るように、突如──教室のスピーカーから放送を知らせるメロディーが鳴った。
『ただ今より、狩りを始めます。獲物の皆さんは逃げてください』
機械的な音声が聞こえた途端、生徒の半数以上が即座に席を立った。
絶望と高揚が複雑に混じり合う。
壁に設置されたスピーカーを見上げ、クラスメイトたちは真逆の表情を浮かべていた。
「随分と早いな。前回の狩りから、まだ三日も経ってねえってのに」
「あんた、覚悟することね。すぐに息の根を止めてやるわ!」
天璃を視界に収め、魅与が嬉々とした声で宣言する。やれやれと言わんばかりに頭を掻いた荒牙が、天璃に「逃げなくていいのか?」と問いかけた。
「……生贄枠ってのは哀れだよな。何の説明もなく送られてきて、訳も分からず喰われちまうんだからよ」
「能力のない人間が減ったところで、大した損失にはならないってことよ」
教室内には、二割ほどの生徒が残っていた。席に座ったままの彼らは、何かを待っているようにも見える。
隣から、天璃ちゃんと呼ぶ声が聞こえた。
「早く逃げた方がいいよ〜。鬼に捕まったら、終わりだからね」
ゾクリと、背筋を悪寒が走った。
天璃を見る珠羅の目は、闇のように真っ暗だ。
ふと理解した。
これは──命をかけた鬼ごっこなのだと。
狩りの開始が宣言されてから、既に数分ほど経っている。
席を立った天璃は廊下へ出ると、そのまま校舎の外に向かって駆けだした。
◆ ◆ ◆ ◇
ファンタジア女学園は、島の最も高い位置に建っている。
周りには森が広がっており、その先にあるのは海だ。
海辺から学園までは、車でも結構な時間がかかる。狩りがどのように行われるかは不明だが、島全体が対象になるのだとすれば、あまりにも広大な面積だ。
学生寮に隠れることも考えたが、構造を理解していない状態では、袋の鼠になりかねない。今の天璃が取れる最善策は、とにかく学園から離れることだった。
ざわりと木々が揺れる。
一瞬で空気の変わった森に、天璃は背後を振り返った。
「……っ」
急速に飛んできた何かが、天璃の腕を掠める。
背後の木に突き刺さったそれは、鋭く尖った矢だった。
辺りを見渡すも、人の姿はない。何処から狙われたのかさえ分からないまま、天璃は血の滲む腕を押さえた。
「そこにいたら駄目……!」
「……薄井さん?」
何処からともなく現れた薄井を見て、天璃は確かめるように名前を呼んだ。
「……ついてきて」
腕を掴もうとした薄井だが、天璃が怪我をしているのに気づくと、黙って手を引いていた。
薄井が案内したのは、木々が密集し、盛り上がった地面が段差になっている場所だった。
土の壁を背に、天璃と薄井は並んで腰を下ろしている。
「あそこは罠も多いし……銃とかも狙いやすいから、近づかないで……」
ましてや棒立ちなど、的になりますと言っているようなものだ。
そう続けた薄井は、両足を抱えると、膝に額を当てている。
「どうして助けてくれるの?」
「……わたし……もう限界なの。毎日毎日、いつ始まるかも分からない狩りに怯えて……頭がおかしくなりそうで……」
悲痛な声だ。
不安定な精神は、薄井の外見にも表れている。
「ルームメイトができても、みんなすぐに消えていく……。御門さんのことも……どうせ居なくなるって思ってた。でも、初めて御門さんを見た時、猛獣だと勘違いして……。今はそうじゃないって分かってるけど……その時は、それなら能力者だって思ったの……」
「能力者……?」
目の下のくまが、痛々しいほどに濃い。
顔を上げた薄井は、疲れの滲む表情で天璃を見つめた。
「……特殊な力を受け継いだ人間のこと。わたしは偶然、学校の血液検査で分かったんだけど……」
足元に視線を移した薄井が、自らを嘲るように笑う。
「わたしの能力は……自分と、半径一メートル以内の生物の存在感を……極限まで薄めること」
まるで、答えのない理不尽に抗っているようだ。
揺れる瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。
「……わたしの能力なんて、他の能力者とは比べものにもならない。これまで生き残って来れたのだって……ただ、運が良かっただけ……」
震える薄井の手を、天璃はそっと握った。
伝わる体温に、薄井の目から一筋の涙が流れていく。
「……それでも、生贄よりはいいと思ってた……。能力を持たない人間は、その場限りの撒き餌に過ぎないから……」
事情を知らず。自衛の手段も持たず。
狩りの未熟な猛獣に与えるための、無抵抗な餌。
「……能力を持たない人間は、“獲物”ではなく“生贄”と呼ばれるの。そしてこれまで……生贄が狩りを生き抜いたことは、一度もない」




