第二十七滴 唯一無二
宙に浮かんだ血の斧が、周囲を薙ぎ払うように舞う。
難なく後方へ避けた珠羅は、そのまま天璃の元に向かうと、脱いだコートを手渡した。
「これ、預かっといて〜」
「分かった」
大切そうにコートを抱え込む天璃に、珠羅が目を細める。
「もしもの時は、そいつを盾にしていいからね〜」
天璃の側に生えていたみっちゃんが、珠羅の言葉に親指を立てた。
切断された黒い手が、陰の中へと沈んでいく。
血を刃に変え拘束を解いたくくりが、ふらふらと立ち上がった。
足掻くと決めたくくりの選択を、珠羅は内心歓迎していた。
どうせ狩るのなら、活きの良い獲物の方が楽しめる。
壊れやすい玩具より、壊れにくい玩具を好むのと同じだ。
「血を武器に変える能力か〜。どっかで見た覚えあるんだよねー」
じりじりと後退するくくりだが、珠羅が距離を詰める方が早い。
「……珠羅様。本当に、あの日のことを覚えておられないのですか……?」
堪えきれなかった涙が、くくりの頬を伝う。
僅かな希望を捨てきれず、くくりは縋るように珠羅を見つめた。
東妻家に生まれた三人目の能力者。
お披露目も兼ねて母親に連れられた会場で、くくりは珠羅と出会った。
大規模なパーティーに萎縮するくくりをよそに、母親は他の家へ取り入ろうと媚ばかり売っていた。
壁際で一人俯いていたくくりは、突如騒ついた場内にびくりと身体を震わせる。
恐々と顔を上げたくくりの目に映ったのは、驚くほど美しい少女だった。
闇そのもののような髪と瞳。
すらりと伸びた背と、黒いドレス。
白い肌を除けば、全てが漆黒に染まった少女だった。
まるで冥界の主のような出で立ちに、くくりは一瞬で心を奪われていた。
阿留多伎家。珠羅様。先祖返り。
大人たちから聞こえてくる単語を、何度も繰り返し呟く。
会場内の最も尊い席に案内された珠羅は、酷くつまらなさそうな顔をしていた。
挨拶に向かうため手を引く母親の後を、くくりは小走りで追った。
緊張で逸る心臓を落ち着けようと、深呼吸をする。
順番が来たことで、くくりは震える手を握りしめながら前へ進んだ。
先ほどまでとは違い、珠羅はくくりを見るなりにこりと笑みを浮かべている。
母親はいずれ学園に入れるつもりの子だと紹介しており、それに対し珠羅は笑顔のまま相槌を打っていた。
「この子の身の安全のためには、飼い主になるのが一番なのですが、残念ながら東妻はそれほど名の知れた家ではありませんので……」
「へえ〜、そうなんだ」
「そもそも珠羅って、飼い主とか作らなさそうだよね〜」
「作ること自体が珍しいようだからな。無理に選ぶ必要もないだろう」
にこにこと聞き続ける珠羅の隣では、兄らしき二人が会話を交わしている。
飼い主という言葉に、くくりは思わず珠羅を見つめた。
視線に気づいたのか、珠羅が闇のような瞳でくくりを見返す。
「あの……! わたし、珠羅さまの飼い主になりたいです!」
会場内が静寂に包まれた。
顔色を悪くした母親が、勢いよく頭を下げる。
謝罪の言葉を口にする母親に、珠羅の父親らしき男が「まだ子供だ」と返していた。
母親に手を引かれ、無理やり珠羅から離される。
振り返ったくくりと目が合った珠羅が、笑顔のまま手を振った。
「頑張ってね〜」
去り際にかけられた言葉と優しい笑みに、くくりはこれ以上ない高揚感を覚えていた。
学園に行き、珠羅の飼い主になる。
そのためならくくりは、どんなに辛い実験でも耐えられた。
それなのに──。
ようやく会えた珠羅の隣には、すでに正反対の少女が寄り添っていた。
「私、興味がないこととか、いちいち覚えてられないんだよね〜」
あの日と同じ笑顔で、珠羅はくくりの微かな希望さえ粉々に打ち砕いていった。
切断したはずの黒い手が、再び地面から伸びてくる。
「すぐに殺したりしないから、安心していいよ〜。君が自分から秘密を口にするまで、ちゃんと生かしといてあげる」
「……わたしは絶対に、秘密を漏らしたりしません……」
掠れた声で答えるくくりに、珠羅がゆるりと口角を上げた。
「生きたまま送ったやつらは、みんなそう言ってたよ〜。こんなことしても無駄だってね。でも、一日も経たないうちに正気を失っちゃった」
背筋を這うように走った悪寒は、本能的な恐怖からくるものだ。
足元に広がる夜の闇が、いつもとは違うものに見えてくる。
「私が何の先祖返りかくらいは、調べれば分かったはずなのにねー」
ガタガタと身体を震わせるくくりの耳元で、珠羅が何かを囁いた。
「……いや……嫌です、そんなの……っいやあああ!」
半狂乱になったくくりが、逃げようと暴れ出す。
血の斧で黒い手を薙ぎ払おうとするも、見覚えのある黒い手が、刃の部分をガッチリと掴んだ。
「……なんで……、さっきは……」
「切れたのにって? そいつらは特別製だから、その程度の攻撃じゃ傷一つ負わせられないよ〜」
足元の陰が、入口に変わる。
闇の中に引きずり込まれていくくくりを、天璃は静かに見つめていた。
「……ばけ……も、の……」
「そんなに心配しなくても、地獄よりはマシだよ」
笑顔で手を振った珠羅に、あの日の光景が重なる。
化け物に恋をした人間の末路は、碌なものにならない。
くくりの視線が、不意に天璃の方へと向けられた。
──お前もいつか、同じ道を辿ることになる。
まるで、そう言っているかのような眼差しだった。
血の斧が崩れ、液体に戻っていく。
珠羅のコートを抱え直した天璃が、静寂の訪れた空間に足を踏み出そうとした時だった。
ぴくりと反応したみっちゃんが、素早く陰の中に引っ込む。
背後から現れた手に肩を掴まれた天璃は、液体に戻っていたはずの血液が、槍のような形になって天璃へと飛んでくるのを目にした。
眼前に移動したみっちゃんが、手のひらで矛先を受け止める。
みっちゃんの手の中で、槍は血に変わることなく、煙のように蒸発して消えていった。
「みっちゃん、大丈夫!?」
慌てて駆け寄る天璃に向けて、みっちゃんが平気だと言うように手を広げた。
お腹を掻くように、手のひらを指で掻いてみせたみっちゃんは、そのままグッと親指を立てている。
ほっと息をつく天璃の背後では、安堵した様子のよっちゃんがささっと陰に引っ込んでいった。
「やっぱ、他に関係者がいたみたいだね〜」
遠隔操作のようなものだと話す珠羅に、天璃は考えを整理しようと目を伏せた。
違和感を突き止めて終わるはずが、何か重大なことに巻き込まれたような気さえしてくる。
「ねぇ、天璃ちゃん」
「……どうしたの?」
飄々とした雰囲気の中に、いつもと違う感情の気配がした。
天璃の中で、優先すべきことが瞬時に切り替わっていく。
「天璃ちゃんも、私のこと恐い?」
予想外の問いかけに、天璃がぱちりと目を瞬いた。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「んー? どうしてだろうね〜」
笑顔で流す珠羅に、天璃が少し沈黙する。
闇のような瞳を覗き込んだ天璃が、おもむろに口を開いた。
「珠羅ちゃんが本当は凄く恐い存在だったとして、私にも恐いことしてやろうって思う?」
「別に、思わないけど」
きょとんとした表情の珠羅に、天璃がふわりと微笑む。
「あのね、珠羅ちゃん。たとえ珠羅ちゃんが世界中の人から恐れられたとしても、私だけは珠羅ちゃんの傍にいて、恐くないよって何度でも抱きしめてあげる」
暗闇に差し込む一筋の光のように、珠羅の瞳に映る天璃は、いつだって焦がれるほど綺麗に輝いていた。
「だから──これからも私のこと、大切にしてね」
悪戯っぽく笑った天璃が、珠羅へと両腕を広げる。
すっぽりと覆うように抱きしめた温もりを、珠羅はもう手放せないと思った。




