第十三滴 落ちる
事切れた魅与を見下ろす荒牙の目には、飼い主だった頃の情など欠片もない。
返り血で真っ赤に染まった天璃の姿に、荒牙は少しだけ気まずそうな顔をした。
「……悪い。距離が近すぎたな」
雪のような髪は、ペンキでも浴びたのかと思うほどの有様だ。頬についた血を手で拭った天璃に、荒牙はもう一度「悪い」と口にした。
「西園寺さんのこと、食べるの?」
「獲物なんだし、喰わねえ理由もないからな」
あっけからんと答えた荒牙は、亡骸を見つめる天璃にすうっと目を細める。
「獲物じゃなく、餌って言った方が良かったか?」
天璃を餌係と認める発言に、数秒の沈黙が流れた。
木々の間を吹き抜ける風が、ふわりと髪を靡かせる。
「私は別に、西園寺さんを餌として差し出した訳じゃないよ」
「こうなるように誘導しただろ」
人狼は直感にも優れている。理由は分からずとも、確信があるのだろう。
真相を語るまで逃してくれなさそうな荒牙に、天璃は諦めた様子で息をついた。
「最初の狩りの時、風殿さんは私と薄井さんを見て『二人は無理だ』って言ったよね。それで違和感を抱いたの。もしかしたら、猛獣は風殿さんだけで、西園寺さんには別の事情があるんじゃないかって」
その後、飼い主とペットについて知った天璃は、二人の関係を正確に把握することができた。
しかし、同時に大きな問題もあった。
「次の狩りで、西園寺さんは確実に私を殺しにくる。生き残るためには、西園寺さんだけでなく──風殿さんのことも何とかする必要があると気づいたの」
飼い主は、ペットに身を守らせることができる。荒牙がどんな行動を取るか分からない以上、安易に動くことはできなかった。
万が一、運よく魅与を殺せたとしても、次は天璃が荒牙に殺されるかもしれない。
天璃にとっての障害は、初めから魅与ではなく荒牙だった。
「正直、西園寺さんだけなら方法はいくつもあった。でも、風殿さんがいることで苦労したよ。人間になら使える手段も、相手が猛獣になった途端、何の意味もなさなくなってしまうから」
不意を突こうと、策を巡らせようと、いざ正面からの戦いに持ち込まれれば、天璃は絶対に勝てない。
荒牙は、魅与のようにはいかない相手だ。
それが分かっていたからこそ、天璃はぎりぎりまで方法を考え続けていた。
「そんな時、風殿さんが何度も飼い主を変えてきたって話を耳にしたの。それと、飼い主が変わる際は必ず、風殿さんによって前の飼い主が殺されていたってことも」
──困りごとがあれば、出来る限り助け合う。
霊藻と交わした取引が、こうも早く役に立つとは思っていなかった。
紙片に書かれていたのは、魅与がどうやって餌係として生き延びてきたかの詳細と、荒牙の習性にも近い行動についてだった。
「だから、西園寺さんを獲物に戻して、風殿さんに始末させることにしたの。そうすれば、私が風殿さんから殺される心配もなくなるから」
カーストの最下層の少女に、圧倒されている。
天璃という人間の異常性が、荒牙の心に形容しがたい感情を芽生えさせていく。
「風殿さんの言う通り、こうなるように誘導したのは私だよ。これで……納得してもらえた?」
一際強い風が吹き、天璃の髪が血に塗れた顔を隠す。
白に咲いた赤が、まるで薔薇の花びらのように鮮やかで──。
綺麗な薔薇には棘があるように、儚い見た目の内側には、得体の知れない何かが潜んでいる。
荒牙の中で花開いた感情は、天璃への強い好奇心だった。
「御門さん、俺の飼い主にならねえ?」
突然の申し出に驚いた様子の天璃が、無言で荒牙を見つめる。
荒牙の瞳に本気の色を感じ、天璃がゆっくりと口を開いた。
静かな森に、さわさわと揺れる木々の音が響いていた。
◆ ◆ ◆ ◇
餌係になった獲物は、狩りを離脱することができるらしい。
どう判断しているのかは不明だが、普通に歩いていても、天璃が猛獣に襲われることはなかった。
このまま寮に戻って、いったんお風呂にでも入ろう。
なんてことを考えていた天璃の視界に、長い漆黒の髪がちらついた。
「珠羅ちゃん……」
色白の肌に、黒がよく映える。
長いまつ毛の下から、闇そのもののような瞳が覗いた。
「天璃ちゃん、血だらけだね〜。それに、獣の臭いもする」
向き合うと、身長差から自然と見上げる形になる。
張り付けた笑顔の下に、天璃はどろりとした怒りが広がっているような気がした。
「珠羅ちゃん。私、言わないといけないことがあって……」
「んー? それって、もうペットはいらないって話? 良かったね〜。都合のいい犬ができて」
ぴたりと、天璃が口を閉じた。
困惑した表情の天璃は、黙って珠羅のことを窺っている。
「でも、天璃ちゃんにはがっかりだな〜。相手から誘われただけで、簡単に心変わりしちゃうなんて。案外、尻軽なんだね」
もしかして、荒牙との会話を聞かれていたのだろうか。
珠羅の言葉を聞きながら、天璃はふと思い至った可能性に目を瞬いた。
どうやって。いや、そもそもどこから聞いていたのか。
色々と気になる点はあるものの、今の天璃には、そんなことよりも優先すべきことがあった。
「断ったよ」
「……え?」
今度は、珠羅が黙る番だった。
まじまじと見つめてくる珠羅に、天璃が柔らかく微笑む。
「風殿さんのことなら、ちゃんと断ったよ。それに、珠羅ちゃんがいるのに、他の人に目移りなんてしないよ」
不可解な感情を覚え、珠羅は口元を覆うように手の甲を当てた。
「あと、珠羅ちゃんに言いたかったのは、前に話したお願いのことについてで……。殺し方なんだけどね、直接的か間接的かの指定はなかったから、間接的にしたよってことを伝えようと思ってたんだけど……」
それでも大丈夫だよね?と不安そうに見上げる天璃に、珠羅がこくりと頷く。
表情を明るくした天璃が、「じゃあこれ……」とポケットから何かを取り出した。
「一応、証拠みたいな物もあった方がいいかなと思って、風殿さんから一部だけ分けてもらったの」
手のひらに収まるサイズの何かは、ハンカチで包まれている。
受け取った珠羅がハンカチを開くと、中から細長い物が転がり出てきた。
「これ……」
「西園寺さんの指だよ」
指という言葉を、珠羅が繰り返すように呟いた。
「……なんで薬指にしたの?」
「小指と悩んだんだけど、それだと指詰めみたいになっちゃうかなと思ったの。それに、薬指の方が特別感もある気がして……」
「……えー、ちょっとなに。天璃ちゃん、これさぁ……」
もしかして気に入らなかったのかと、天璃が眉を下げかけた時だった。
顔を上げた珠羅が、勢いよく天璃の手を握る。
「すっごく嬉しい〜!」
子供のようにあどけなく笑った珠羅は、きらきらと目を輝かせている。
真っ暗な瞳に生気が宿るだけで、こんなにも印象が変わるのか。思わず凝視した天璃に、珠羅が淡く頬を染めた。
「こんなことしてくれたの、天璃ちゃんが初めてだよ〜。薬指なのも、センス良くて最高」
語尾にハートでも浮かびそうなほど、珠羅の声は甘さに満ちている。
いつもの張り付けた笑みではなく、どこかうっとりした雰囲気で珠羅が微笑んだ。
「いいよ。天璃ちゃんのペットになってあげる」
身を屈めた珠羅が、天璃の耳元に唇を寄せる。
「その代わり、私のこと飽きさせないでね」
それが条件だと囁くと、珠羅は天璃の血で汚れた頬に、ちゅっと唇を当てた。




