第十二滴 示される価値
「どうして……あんたは生贄のはずでしょ!?」
「これは能力じゃなくて、体質だから。私、催眠系は何故かことごとく効かないんだよね」
魅与の喉元に切先を押し付けたまま、天璃が淡々と答える。
「何なの……。いったい何なのよ、あんた……!」
“魅了”の能力は、格上相手だと強制的に解除されてしまう。けれど、その相手はあくまで先祖返りや、一部の能力者に限られていた。
ただの人間に、能力が効かない体質など備わっているわけがない。魅与の中に湧き上がった感情は、得体の知れないものに対する恐怖だった。
「……っ獲物を自分で手にかけても、餌係にはなれないわ! どの道、荒牙に殺されるだけよ!」
そう叫んでから、魅与はハッとした。
飼い主がこんな状況になっているというのに、なぜ荒牙は助けようとしないのか。
じわりと、嫌な汗が浮かぶ。
「どうせ殺されるなら、道連れにした方がいいと思わない? それとも、このまま風殿さんに差し出せば、餌係になれるのかな?」
「荒牙! 何してるの!? 早く助けてよ……!」
本気だ。
天璃は本気で、魅与を殺すつもりでいる。
感情を宿さない桃色の瞳が、焦る魅与の顔を映した。
半ばパニックになった魅与が、荒牙に向けて助けを求める。
「俺との条件を忘れたのか? 獲物から買った喧嘩は、魅与自身で勝たないとだろ」
荒牙の言葉に、魅与の脳内がぐらりと揺れた。
飼い主になるためには、猛獣側の条件を呑む必要がある。
あの日、魅与は荒牙からどんな条件を出されたのか、ぼんやりとしか覚えていなかったのだ。
荒牙は、強者に仕えることを好んでいた。
命令には忠実で、他の猛獣からも守ってくれる荒牙だが、それは魅与に強者としての価値を感じていたからだ。
言い換えれば、魅与と同等以下から対決を望まれた場合は、魅与自身が戦い勝利を手にする必要がある。
ましてや、天璃は獲物の中でも最下層の生贄だ。
強者としての価値を示すためには、絶対に負けるわけにはいかなかった。
「もし、西園寺さんが負けを認めるなら──殺すのは止めてあげてもいいよ」
「……なに、言って……」
この状況で見逃すなど考えられない。
そんなのは嘘だと呟く魅与に、天璃はぽつりと口を開いた。
「このまま二人とも死ぬか、それとも一人だけ死ぬかの違いなら……最後くらい慈悲をかけてもいいのかなって」
魅与を手にかけて、天璃は獲物として荒牙に殺されるか。
魅与を許して、天璃だけ餌として喰われるか。
どちらにせよ、天璃に待っているのは死だけだ。
それなら、せめて最期の時は、優しくあってもいいのかもしれない。
落とされた呟きに、魅与の心がぐらりと揺れる。
「いっ、嫌よ! あんたなんかに負けを認めるなんて、絶対に嫌……!」
「そっか。なら仕方ないね」
ぷつりと、刃先が喉元に埋まっていく。
首を伝う生温かい液体に、魅与が唇をわななかせた。
負けを認めるということは、荒牙の出した条件に違反するということだ。
飼い主はペットとの約束を叶えられなくなった時点で、契約が即座に破棄され、獲物へと逆戻りすることになる。
「……や、やめて……」
「だったら認めて。西園寺さんは、私に負けたんだって」
天璃が柄を強く握った。
今にも喉を突き破りそうな刀に、魅与の心が悲鳴をあげる。
負けを認めれば、この場に残るのは獲物だけだ。
荒牙にとっては、どちらも同じ獲物。それでも、これまで魅与は──荒牙と共に沢山の時間を過ごしてきた。
喰われるのは片方だけでいい。
生きてさえいれば、またやり直すことはできる。
それなら──。
魅与の中で、カチリと秒針が重なる音がした。
「……みとめる……」
「なに? 聞こえない」
「認めるから! あんたに……っ、御門さんに負けたって認める! だから、殺さないで……!」
小刀が引かれていく。
魅与の上から退くため、天璃が足に力を込めた。
上半身を起こした魅与は、安堵から深く息を吐いている。
不意に、天璃と魅与の間を──銀の閃光が走った。
「……え?」
吹き出した血は、天璃のものではない。
喉から胸にかけてスッパリと切られた傷口から、止めどなく血が溢れている。
「……うそ。……なん、で……」
ぐらりと傾いた身体が、地面に転がった。
焼けるような痛みと霞んでいく視界の中、魅与はあの日の記憶を思い出していた。
◆ ◆ ◆ ◆
何度目かの狩りを生き延び、魅与は獲物の中でも一目置かれる存在になっていた。
毎回適当な人間を魅了して、狩りに慣れていない猛獣たちにチラつかせる。それだけで、魅与は狩りを楽々と乗り越えることができた。
弱肉強食が支配する学園で、魅与を責める者など誰もいない。結局のところ、勝者こそが正義なのだ。
しかし、そんな魅与には心底癪に障る存在がいた。
猛獣を手懐け、カーストの上位として優遇を受ける飼い主。ただ気に入られたというだけで、大した実力もなく駆け登っていった弱者たち。
彼らへの不満は日に日に増していき、やがて魅与は、自分の方が飼い主に相応しいと考えるようになった。
そしてそんな時、魅与は──荒牙に声をかけられたのだ。
「良い目だな。野心があって、現状に不満を持ってる」
「……あんた確か……」
ボーイッシュな少女は、どこか気怠げな雰囲気をしている。教室に近い廊下で、魅与と荒牙は正面から顔を合わせていた。
よほどのことがない限り、猛獣が飼い主を持つことはない。そのため、常に飼い主のいる荒牙は、珍しい猛獣として噂を耳にすることがあった。
「……飼い主を放っておいていいの?」
「今の飼い主は、一人でいる時間も必要みたいだからな」
今のという言葉に、魅与が不可解そうに眉を顰める。
「飼い主が気に入らないなら、ペットをやめればいいじゃない。そこまでして、なんで飼い主に仕えようとするわけ?」
「群れのリーダーは、強者だからこそ頭を垂れる価値がある。だから俺も、仕えるなら強いやつって決めてたんだ」
戸惑いを露わにする魅与に、荒牙がふっと身体の力を抜いた。ズボンのポケットに手を入れると、荒牙は教室の方に視線を向けている。
「このところ、気概のないやつらばかりなんだ。挑みもせずに戦意を喪失して、ただ怯えながら死んでいく。どうせ死ぬなら、いっそ戦ってみればいいのにな」
──獲物同士の喧嘩に、手は出さねえのによ。
そう続けた荒牙の言葉に、魅与の心が大きく騒ついた。
「そもそも、飼い主が変わるのは条件に違反したからだ。例えば、今の飼い主よりも強いやつが現れた時……とかな」
廊下の反対側から、荒牙を呼ぶ声がする。
飼い主の生徒を目にした魅与が、うっすらと笑みを浮かべた。
何をするべきかは、もう分かりきっていた。
人狼の先祖返りは、嗅覚に優れている。
次の狩りで荒牙たちと遭遇した魅与は、魅了の能力で意思を封じた飼い主を、その場に這いつくばらせた。
予想通り、荒牙が飼い主を守ることはなかった。
自害を命じても良かったが、一応は荒牙の飼い主だった生徒だ。どうするか問おうとした魅与の前で、いきなり生徒の身体が切断された。
転がった腕と、肩から腹部まで裂けた身体。吹き出した血の一部が、魅与の頬に飛んだ。
「負けたやつに、価値なんてねえ」
酷く冷たい声だった。
飼い主といるときの荒牙は、気怠げな顔をしながらも、優しい眼差しで飼い主を見ていた。
けれど、飼い主が獲物になった途端、一瞬で冷めてしまったかのように、興味の失せた目で亡骸を見下ろしている。
弱者が飼い主になるから、こうなったのだ。
漠然とした思いが、徐々に魅与の心を支配していく。
自分は絶対に、こんな風になったりしない。
魅了の能力があれば、同じ獲物に負けることもない。
だから、魅与が同じ轍を踏むことは──決してないのだと思っていた。




