第十滴 期待
初めて狩りを生き延びた生贄とあって、周囲の天璃に対する関心は日に日に強まっていた。
次も生き残るのか、それとも──。
いつ狩りが始まるか分からない緊張感の中、別のクラスから覗きにくる生徒を見かけるくらいには、天璃に注目している者も多いようだった。
「おっ、おはよう、天璃ちゃん」
「おはよう兎々ちゃん。霊藻ちゃんも、おはよう」
「おー、おはようさん」
挨拶をすると、兎々はそのまま天璃の前の席に荷物を下ろしている。
窓側に座った霊藻が、天璃に向かってひらりと手を振った。
「ねえ、何で九重がここにいるの?」
「結解先生から許可もろてん。そないな訳で、今日からここがうちらの席っちゅうわけや。以後、よろしゅう」
張り付けた笑みのまま、珠羅が霊藻に圧を飛ばす。
背後を振り返った霊藻は、挑発するように口の端を上げた。
バチリと散った火花に、兎々があわあわしている。兎々の肩に軽く触れた天璃は、「食べる?」と手のひらに乗せた飴を差し出した。
「あ、ありがとう天璃ちゃん……」
頬を赤らめた兎々が、嬉しそうに受け取る。身体の向きをずらした霊藻が、手に残った飴をチラリと見た。
「天璃のそれ、何味なん?」
「これはリンゴかな。他にもあるけど、霊藻ちゃんもいる?」
「ほな遠慮なく」
呼び方が変わったのは、二人の間で取引が成立したことの証だ。レモン味を持っていった霊藻は、窓から覗く空に「ええ天気やな」と呟いている。
ふと隣から不機嫌そうな気配を感じ、天璃は肩肘をつく珠羅の前に、そっと飴を置いた。
「最後の一個だったから、珠羅ちゃんのだけ避けておいたの」
小声で囁いた天璃に、珠羅が虚をつかれた表情になる。
袋の模様が異なるそれは、前に珠羅が食べたいちごミルク味の飴だった。
「たった一回生き延びたくらいで、いい気になってるみたいじゃない」
しんと静まり返った教室に、不機嫌そうな足音が響く。
荒牙と共に現れた魅与は、天璃を睨むと、苛々した口調で悪態をついた。
「運良く餌係になれただけの生贄枠に、二度目があるなんて思わないことね」
次は必ず殺してやる。
魅与の目には、そんな感情がありありと浮かんでいた。
平然とした態度の天璃に顔を歪めると、魅与はガタンと音を立て、荒々しい動作で椅子に座っている。
魅与の傍では、荒牙がやれやれと言わんばかりに頭を掻いていた。
「キーキー喧しいやっちゃな。自分かて、餌係として生き延びてきたっちゅうに」
面倒なやつだと呟いた霊藻の言葉に、天璃が反応を示した。
「霊藻ちゃん。その話、詳しく聞かせてくれる?」
「おー、ええで。ほな後で──」
スピーカーから流れたメロディーに、霊藻が口を噤んだ。
『ただ今より、狩りを始めます。獲物の皆さんは逃げてください』
機械的な音声が聞こえた途端、教室内に恐怖と戸惑いを含んだ騒めきが広がっていく。
「……さすがに早くない?」
「まだ欠けた人数の補充もされてないのに……!」
青白い顔の生徒たちは、けれどどうすることもできず、絶望を滲ませながら教室を後にしていく。
静かに席を立った天璃を、兎々が心配そうに見つめた。
「猛獣が動き出すんは、だいたい十分後くらいからや。……きばりや」
付け足された言葉には、生き延びろという意思が込められている。
魅与の高笑いを耳にしながら、天璃は霊藻たちに背を向けた。
「天璃ちゃん。私の言ったこと、覚えてる?」
背後からかけられた声に、天璃が一瞬足を止めた。
「覚えてるよ」
今回の狩りで、誰か一人を殺すこと。
ペットになってほしいと口にした天璃に、珠羅が伝えた条件であり、お願いごとだ。
ただの人間が叶えるには、荒唐無稽な話にも思える。
猛獣はおろか、獲物も大抵は能力者なのだ。
それでも、珠羅という猛獣を手に入れるためには、代償を払う必要がある。
強く鋭くしなやかで、どんな攻撃にも折れない最強の武器。
今の天璃が欲しいのは、心を守る手段ではなく──身を守る術だった。
暇つぶしでもいい。
面白そうな玩具で遊んでいるだけでも、壊れたら捨てられるその場しのぎの駒でも、何だっていいのだ。
きっかけなど些細なものでしかないことを、天璃はよく知っていた。
たとえば恋愛は、好きになった方が負けるのではない。
──主導権を握られた方が、負けるのだ。
覚えてる。
口の中で転がした言葉を、天璃は飴玉のように呑み込んだ。




