声
佐伯は、仕事の都合で地方都市に引っ越してきたばかりだった。電話はまだ固定回線しか通じておらず、携帯の電波も弱い地域だったので、夜になると会社や友人へ連絡を入れるのが習慣になっていた。
最初に異変が起きたのは、母に電話をしたときだった。
「ご飯はちゃんと食べてる?」と母が言った直後、受話器の向こうから聞こえたのは、母ではない低い男の声だった。
――ご飯は、たべてる?
まったく同じ言葉なのに、声だけが変わっていた。男の声はひどく濁っていて、途切れ途切れで、母がその声を発したとは到底思えなかった。佐伯は驚いて「今の、何?」と訊いたが、母は「何のこと?」と首をかしげるだけだった。母には普通に自分が喋っていた感覚しかなかったらしい。
その日以降、奇妙な現象は続いた。
会社の上司に仕事の進捗を報告している最中、ふとした拍子に上司の声が少年のような甲高い声に変わる。
友人に旅行の話をしていたとき、途中から老婆のようなかすれ声に置き換わる。
言葉の内容は一貫して正しいのに、声だけが勝手に変わるのだ。
相手は一様に「自分は普通に喋っている」と言い張り、変化には気づいていなかった。
やがて佐伯は、その道に詳しい人物の存在を聞きつけた。
山奥の寺に暮らす老人。数十年前から奇怪な電話現象や通信障害を調べ、新聞社や研究機関からも相談を受けてきたという。霊媒師でもあり、学者でもあり、町では「最後に頼るべき人」と呼ばれていた。
佐伯はその老人を訪ね、事情を話した。
老人は長い時間をかけて聞き終えると、眉を寄せ、しわの刻まれた手で受話器を一度だけ撫でた。
そして、かすかなため息とともに、低く告げた。
「……悪いが、これは人の領分を越えておる。私には止められん。触れれば、声のほうがこちらを喰う」
佐伯は言葉を失った。老人はそれ以上、何も語らなかった。
その夜、佐伯は自室で眠れずにいた。耳の奥で、誰のものともつかない声が反響していた。
――ご飯は、たべてる?
――ご飯は、たべてる?
突然、胸のあたりに激しい痛みが走った。
見ると、シャツ越しに皮膚が小刻みに波打っている。まるで胸そのものがスピーカーになり、誰かの声を外へ吐き出そうとしているかのようだった。
慌ててシャツをめくったが、そのときにはもう何もなかった。皮膚は静まり返り、ただ波打った感触だけが生々しく残っていた。
それでも佐伯はいつも通り生活した。
スーパーでは、老婆の声をした青年がレジを打ち、誰も気にしない。
恋人同士が並んで歩き、女の声と男の声が入れ替わりながら笑っている。
会社では、少年の声になった上司が叱咤し、社員たちは真剣にメモを取っている。
なにかに上書きされ、佐伯が“そうであるのが当たり前”だと錯覚させられているように。