自己肯定感論争!俺達は自己肯定感が低い!
午前10時30分。ヨクアル工場、ライン作業真っ只中。ベルトコンベアは製品を流し続け、俺は黙々と部品を組み付けていた。朝の筋トレで鍛え上げた鋼の肉体も、単調な作業と、それ以上に消耗する精神力の前には、ちっぽけな存在に思える。ああ、早く昼休みにならないだろうか。昼飯は俺にとっての唯一の光だ。そして、たった今流れてきたこの不良品をどう処理すべきか、早く結論を出したい。
そんな俺がライン作業をしていると、突然横から影が差した。嫌な予感がする。いや、予感ではない。経験則だ。空気が物理的に重くなるのを感じる。具体的には、海野の体臭が近づいてくる気配だ。
「カトゥー、ちょっといい?」
振り返ると、そこには案の定、笑顔の海野が立っていた。工場のメンテナンス部、43歳。デブで眼鏡。口癖は「いや」。嘘つきでサボり癖あり。そして、人の仕事中に平気で話しかけてくる、生粋の「作業妨害おじさん」だ。顔を見るだけで、今日の午後の作業効率が10%下がるのがわかる。もはや工場のシステムエラーだ…。
俺は心の中で大きくため息をついた。この時間帯に来るということは、おそらく業務とは全く関係のない、個人的な「お話」だろう。奴の暇つぶしに付き合わされるこちらの身にもなってほしい。俺には俺の作業があるのだ。そして、俺の後の工程には、恐ろしい近藤おばさんが控えている。遅れたら最後、罵詈雑言の嵐だ。怒りのボルテージがMAXになると泣き出すという面倒なスキルまで持ち合わせているから厄介極まりない。
「カトゥ〜面白い話してあげる!」再度、海野が俺に声をかける。
俺は無言で【微笑む】。海野対策、その一。奴は俺の笑顔を肯定的な相槌と捉える。俺は悟りの境地に達した聖人のフリをするのだ。
「いや〜、実は昨日さ、あの新人、高森君いるじゃん?」
海野は、まるで今からとんでもない秘密を打ち明けるかのように、小声で、しかしやたらと間をとりながら話を進める。高森君。つい先日入ってきたばかりの、キラキラした目をしているいかにも真面目そうな好青年だ。
海野の言葉に、俺は【3回小刻みに頷く】。海野対策、その二。とりあえず相槌で乗り切る。頷けば奴は勝手に満足する。俺の頷きは、もはやオートマチックだ。
「あいつさ、相談があるって言うから、わざわざ時間作って聞いてやったんだけどさ」
海野は、さも自分が善行を施したかのように、胸を張る。わざわざ時間を作った? お前が勝手に作業中の高森君捕まえて、自慢話でも垂れ流しただけだろうが、と俺は心の中で毒づく。(お前の「時間作ってやった」は、俺たちの「仕事中に割り込む」とイコールだ。ノーアポイントの迷惑訪問だ。アポなし訪問営業かお前は。つか早く帰ってくれ〜)
「でね、あいつ何て言ったと思う?」
海野は、やたらと勿体ぶる。俺は内心、「Vチューバーの話か?」「今週の芸能ゴシップか?」「またお前の車の自慢か?」と、いつものパターンを予測して身構えていた。奴の「お話」は、いつも自分がいかに素晴らしいか、いかに賢いかを遠回しに自慢する内容ばかりなのだ。話半分で聞いていれば、俺の脳の負担も半分だ。
俺は【七色のえーっ(考えたフリ)他にも(驚いたフリ)(感心したフリ)etc】で応じる。海野対策、その三。
この三つの行動だけで、1日最低15分少なく見積もっても1週間1時間15分のこの地獄の時間を、俺はこれまで何百回と乗り切ってきた。今日もこの三種の神器で乗り切ってやる。
「自己肯定感を上げたい、って悩んでたんだよ!」
その言葉に、俺は思わず動きを止めてしまった。普段の話とは一線を画していたからだ。Vチューバーでも車でも芸能ニュースでもない。まさかの精神論。
「自己肯定感?」
俺は素のリアクションが出てしまった。
海野は、俺の食いつきに気を良くしたのか、ニヤリと左の口角をあげた後、さらに声を張り上げた。
「そう!自己肯定感!まぁ高森君に限らず最近の若い子は自己肯定感が低いらしいよ!俺も低いしね!」
(お前の自己肯定感の指標ぶっ壊れてるだろ…)
俺は心の中で軽くツッコミを入れた。海野の「俺も低いしね!」という言葉が引っ掛かったが、俺はなんとか心の引っかかりを我慢して、努めて冷静に返した。
「へぇ、自己肯定感かぁ。最近よく聞くけど、そもそも自己肯定感が高い低いって、俺は正直よくわかんないんですよね」
海野は、俺の返しに、またしても勿体ぶるように顎に手をやり、深く考え込むポーズをとった。「ふぅ〜」と一呼吸置いて海野が続ける。
「ん〜……そりゃカトゥは分からんかもね!まぁ、バカにしてる訳じゃないけどさ、カトゥはナチュラルに自己肯定感高そうだもん!」
海野の言い方に少し腑に落ちない部分はあったが、俺は笑顔を保ち次の質問を絞り出した。
「それで海野さんは、高森君になんて言ってあげたんですか?」
海野は、得意げに胸を張った。彼の胸板、そこには分厚い自己肯定感の鎧があるに違いない。
「えっ〜とさ!だからさ、自己肯定感低くても良くない?俺も自己肯定感低いけどさ」
(まだ言うとるし…どこが低いねん…自己肯定してきとる体型やろがい…)
「逆に『自己肯定感が高い奴って、自分の考えが全て正しいと思ってる奴だからね!高いのも考えものだよ!』ってさ、言ってやったのよ!」
……
………
(はぁぁぁぁっ?!ちょっと待て!お前さっき俺に自己肯定感高い言うとったやないかい!しかも「バカにするわけじゃないけど」とか言ってたくせに、やっぱりバカにしとるやんけ!こんなに早く伏線回収するやつおるの!?なに!?脳みそがショートしてヒューズ飛んでるだろ!つかこいつ俺んとこに何しにきたん!?わざわざ嫌味言いにきたんかな!?)
言葉が脳内に洪水のように湧き上がるが、俺は必死で抑え込んだ。まぁまぁまぁ落ち着け俺…落ち着け俺…
結局、俺はいつもの海野だと悟り、全てを諦めた表情でこう返した。
「なるほど〜」
海野は、俺の「なるほど」が自分の説を理解した、とでも思ったのか、満足げに頷き、巨漢をぶるんっぶるんっ揺らしながらラインを離れていった。今日もまた、誰かの作業を妨害しに行くのだろう。誰か、あいつの口にガムテープでも貼ってくれ。そして、彼が近づいてくる際にサイレンでも鳴らす仕様にならんかな…
奴への会社としての対策を考え悶々としながら午前の仕事は終わった。
やっと昼休憩だ。心が少しでも癒される。と思ったが、結局俺は午前中の海野との会話を思い出していた。自己肯定感。あの海野ですら「低い」と言い張る、その奇妙な概念。本当に奴は低いと思っているのか?それとも、そういう「悩み」を持っている自分アピールなのか?いや、もはや彼の発言に整合性を求めること自体が間違っているのかもしれない。久世原もそうだが、彼らの辞書には「矛盾」という言葉がないのだろうか。
「加藤くん、久世原くん!ちょっと聞いてもいいかな?」
ふと、俺の目の前で、禄がニコニコと胡散臭い笑顔で立っていた。海野の次に面倒な男が来た。
「さっきさ、ウミノッチから『自己肯定感』の話聞いたんだけどどんな話か知りたい?」禄は、キラキラした目で俺が海野から聞いた話を話し始めた。
(海野の野郎、めちゃくちゃ広めてるやん!高森君の話、「親切心」のスタンスで広めてるなアイツ。んでバレたら「悪気はなかった」と開き直る気だろうな…もしくは海野の得意な、自分アピールの話題として広めてるだけだろう…人の悩みまで自分の話のネタにするか…流石海野…)俺の心の中の呟きが終わると同時に、近くにいた久世原が得意気に眼鏡を光らせ声を上げた。
久世原は、唐揚げを口いっぱいに頬張りながら、「ああ、自己肯定感ね!自己肯定感高い奴って凄いよなぁ…」
どこか遠くを見て答える久世原。(なに黄昏てんねん…黄昏る要素ないだろこの話に…)と加藤が思ったのも束の間、久世原は続ける。
「まぁ、俺もさ、正直言って自己肯定感低いからさ、低い奴らの気持ちは分かるんだよね!逆に高い人の気持ちは分からないわ!」
……は?
俺は耳を疑った。(ハラスメントのオンパレードを繰り広げてるのに「自己肯定感低い」だと?お前の自己肯定感は、青天井やろに…つかこの間パナマハット被って出勤してたやん…んで休憩になる度にわざわざ被ってたやろ…どこが自己肯定感低いねん…自己肯定感低い奴がパナマハットなんか被るかい!
というか、そもそも、「高い人の気持ちは分からない」ってお前、全方位の気持ち分かってないから!自分以外の人間は全員AIだと思ってるムーブしかしてないから!お前の中に「謙虚」の二文字は存在しないだろ!)
加藤が心のなかで捲し立てていると、その横で黙々と弁当を食べていた禄さんも、久世原の言葉に深く頷きながら口を開いた。
「うんうん。久世原くんの言う通りだね!僕もね、昔から自己肯定感が低いのが悩みでさ。もっと自分に自信を持ちたいんだけど、なかなか難しいよね」
…………はあああああああん!?
(禄さん!あなたの友人の女を寝取るほどの強靭なメンタル、そしてバレてないからってその友人を「親友」とか抜かす面の皮の厚さは、自己肯定感の高さ以外に説明がつかないだろ!自分を肯定してない人間が、あんな鬼みたいな行動できるわけないだろ!)
昼休憩の喧騒の中で、俺の頭の中は完全にパニックに陥っていた。海野、久世原、禄は俺から見れば自己肯定感の塊なのに、なぜか全員が「自分は自己肯定感が低い」と主張する。これは一体、どういうことなのだろうか?
俺の知る「自己肯定感」という言葉の定義が、このヨクアル工場では全く通用しない。一般的な常識や心理学の概念は、この異空間では無意味と化す。「自己肯定感論争」は、俺の工場生活に新たな地獄の扉を開いたのかもしれないいや、新たな喜劇の幕開けなのだろう…
とりあえずもう誰も自己肯定感の話を俺に振らないでぇぇ………
自己肯定感って私はイマイチ分かっていません。そもそも皆自己肯定感なんて持ってると思っております。
勿論本当に自己肯定感が低い人もいらっしゃるのでしょうが、会社で自己肯定感が低いと言う人は大抵「自己肯定感が高い」というイメージを持っている人でした。
皆さんの周りの自称自己肯定感低いマンはどんな人でしょうか?ご意見いただきたいです。