第六話 金ヶ崎
「電車賃たかーい」
ボクは切符売り場の掲示板を見てつい叫んでしまった。
大須の繁華街の南東には名古屋市営地下鉄の上前津駅がある。
名城線と鶴舞線が交差する駅で、名城線から金山駅で名港線に入った終点、名古屋港駅までの運賃は二七〇円もする。
「三人で往復すると一六二〇円もかかっちゃうけど」
出してもらうのはちょっとなあ。
「おお、さすが家康殿は暗算も早いのう。安ずることはないぞ。わしが出すのじゃ」
「えー。ホントにいいの?」
「くるしゅうない。わしは天下の信長だぞ」
「ホントにいいの?」
さすがに悪いよなあ。その言葉遣いはやめてほしいけど。
「あー、オレやっぱやめとく。金もったいないし、これ以上借り作りたくないし」
横からぶっきらぼうにヒデヨシがつぶやいた。
「なんだサル、もったいないとはお前らしくもない」
「サルじゃないって言ってるだろ。だいたいさ、もう五時半だぞ。暗くなっちゃうだろ」
「この季節は暮れ六つ時を過ぎても明るいぞ。遠慮せずともよい」
うわ、いくさ感覚だよそれ。まずいかなあ……。
「はあ……いや、やっぱ帰るわ」
ヒデヨシはあきれ顔でそう言って、出口の階段の方へ歩き出した。
「うーむ。機嫌を損ねたかのう」
二人になっちゃうの、ちょっと不安だけど………。
「仕方ない。二人で行くか」
あーもう、しょうがない。ボクがマウント取ればいいんだ!
「ふふふ、デートみたいになっちゃうけどいいの?」
ボクは不敵な笑みを浮かべてみた。
「ああ、そう言えばなあ、武田の軍勢に負けて三方ヶ原から逃げ帰るとき、クソをもらしたというのはまことか?」
ノブナガが突然、逆襲に出た。
一五七三年、三方ケ原、今の浜松市で武田信玄の軍勢と戦った家康は、織田信長の援軍があったものの敗退、あまりの恐怖に逃げながら脱糞したという伝説がある。
「な! な、な、何を言い出すの……」
マウントを取ったつもりだったのに……。変な話するなよ……。
「ん? なぜ恥ずかしい顔をするのじゃ? イエヤスは家康殿ではないのじゃろ?」
「ばっ……お前がハズいこと突然言い出すからだろ」
くそー、なんとかマウント取り返さないと。
「ふーむ。ま、そういうことにしておいてやろう。はっはっは」
「なんだよ、むかつくなあ」
そうだった。400年以上前も、こうやってからかわれたっけ。でもなんか憎めないんだよなあ。
「長篠の戦いでわしがフォローしてリベンジできたのだからよかろう。そうそう、あの後、家康殿と共に天下を取りたかったんだがな」
ノブナガが遠い目になった。
一五七五年、長篠、今の愛知県新城市辺りで信玄の息子、武田勝頼と戦った織田・徳川連合軍は、鉄砲を駆使して騎馬軍団を誇る武田軍を撃退した。武田家はこの時滅びたわけではなくて、その後の武田征伐まではまだまだ時間がかかったのだけど。
「あ、そういえばさ、金ケ崎の戦いでは浅井長政に裏切られて織田信長は真っ先に逃げたんだよね」
思い出した。逆襲のネタがあったぞ!
一五七〇年、越前の朝倉義景を攻めていた信長は、金ケ崎、今の福井県敦賀市の辺りで浅井長政の裏切りに遭い、木下藤吉郎や明智光秀ら家臣にしんがりを務めさせて京都へと逃げ帰った。
「そんなこともあったのう」
ん? 動じない? それなら!
「徳川家康にも伝えないでアワ食って逃げたんでしょ。天下布武が聞いてあきれるよね」
「大将が生き延びるのは当然じゃ」
あれ? あの時のこと、恥ずかしく思ってたんじゃないの? 織田信長は。それなら!
「しんがりの藤吉郎は死ぬ気で戦ったんじゃないの?」
「そういうこともあったのう。藤吉郎はよくやってくれた」
まあ、その通りだけどさ。
「ボクも藤吉郎たちを置いて最後は逃げちゃったっけ」
「ボクも?」
あ! まずい……。
「あ、いや……徳川家康のことだからボクって言ってノブナガに合わせただけだよ!」
「ふむふむ。そうかそうか。はっはっは」
「なんだよそれ。とにかくボクはボクだからね」
「わかったわかった。それでは行くか」
そう言ってノブナガはそれ以上突っ込まず、自動販売機できっぷを2枚買って1枚をボクに手渡した。
「ほれ」
「あ、ありがと」
改札を入り、二人はホームに移動した。
「とにかく、ノブナガの中二病に付き合ってるだけだからね」
「だからわかったわかった」
「わかったならさ、ノブナガに戻ってよ」
「是非もない。わしは信長じゃぞ?」
「ちがーうって。元の高校生のノブナガに戻ってよ」
「うーん、困ったのう、わしはもともと信長じゃ」
「あーもう、さっきは少し面白かったのに」
「何がじゃ?」
「魔術スキル」
「ああ、そうじゃのう、第六天魔王だからな」
「それならやっぱりヴィランじゃん」
「そんなことはないぞ。魔王が悪い人間どもをやっつけて世界を平定する話もたくさんあるだろう」
「あ、確かにそうだね」
「織田信長もそう思っておった。自身が魔王になってでも天下を平和にするつもりだったのじゃ」
「ふーん。それにしては人殺し過ぎだよね」
「ううむ、それは言わんでくれ。現世では重すぎる……」
地下鉄が入線してきた。
地下鉄の車内は金山駅を過ぎて名港線に入るとぐっとすいてきた。
ノブナガが意を決したように口を開いた。
「あの、さ」
「え、何?」
「うーん。実はイエヤスに相談したかったことがホントはもう一つあって……」
「あれ? なんか信長様じゃなくてノブナガに戻ったね。それなら聞いてあげる」
急にどうしたんだろう。
「実はさ、告白……」
「え?」
「告白したいんだけど……」
「え?」
まさか……あのことなんじゃあ……。
「イエヤスの姉さんのことだよ」
「え?」
やっぱり来たか!
「付き合っている人いるのかな?」
「ええ!?」
ボクの姉は二つ年上で、同じ高校に通っている。ボクは姉に顔も背格好もそっくりなので、ボクは中学生の頃から姉の制服を着て時々、ノブナガをからかってたってわけ。
ノブナガがいつも赤面するのは姉にそっくりだからなんだよね。
ノブナガの気持ちは気付いてたけどさ、あの人だけはやめてもらうしかないんだよなあ。
「うーん、まあ、やめた方がいいと思う」
「なんで? 俺、実は小学生の時から好きだったんだ」
「ええ!? そうだったんだ……でも」
ひと月ほど前、ボクは姉から衝撃の告白を受けていた。
「千代松、笑わないで聞いてほしいんだけど、私、お市の方の生まれ変わりだったみたい」
姉の名は竹平萌。萌はきざし、一番最初のことだから、考えてみれば市に通じる名前だ。自分が家康だと気付き、ヒデヨシが秀吉だと知った直後だったのでちょっと驚いたけどホントのことなんだろうなって思ったけど、悪い予感がして自分のことは言わずに受け流した。
「あー、そういうのって青春時代にはよくあるよね。ボクは否定しないよ」
「もう、そうじゃなくて、ホントに記憶が戻ったみたいに思い出したの」
「あ、まあそういうこともあるよね」
「ちゃんと聞いてくれないのかなあ? とにかく、私が転生しているのなら、藤吉郎や家康も転生してる可能性があるって思ったの」
「え? どういうこと?」
「どういうことって、一つしかないでしょ。捜し出してなんであんなひどいことをしたのか問いただすの」
ボクは背筋が凍った。
お市は信長の妹で、北近江の武将、浅井長政に嫁ぎ、茶々、初、江の3姉妹が生まれた。金ケ崎での裏切りから三年後の一五七三年、長政は信長に討たれ、お市と三姉妹は信長の家臣、柴田勝家の元に身を寄せた。ところが信長死後の一五八三年、勝家は秀吉に攻められ、三姉妹を逃がした後、お市とともに北の庄城、今の福井市で自害する。
「藤吉郎は勝家様と私を自害に追い込んで、茶々を奪った。家康がその茶々を死なせて、妹のお初とお江を利用した。ひどいよね」
うわ、それ言われるときついんだけど……。
「あ、えと、復讐するってこと?」
「そんなことはしない。現代ではできないでしょ」
はあ……よかった。
「ああ、まあそうだね」
「でも、二人が転生してればたぶん、お兄様も転生してると思うから」
「ええ!?」
確かに! しかもそれ、ノブナガかもしれないんじゃん。
「お兄様に成敗してもらう」
「いや、今、復讐はできないって……」
姉さん、けっこう性格きついからなあ……。
「藤吉郎も家康もお兄様には逆らえないでしょ。お兄様も自分の死後の出来事を知ったら怒髪天を突くと思う。二人とも奴隷扱いされて反省してくれればいいのよ」
「あ、そういうことか……まあ、その、いずれにしてもそのことは他の人にはあんまり言わない方がいいよ」
どっちにしてもノブナガが信長だったらやばいけどね。
「うん。確かに変だと思われるよね。こっそり三人を捜すことにする。意外に近くにいそうな気がするし」
うわあ、鋭すぎでしょ、姉さん。
「あー、分かった。ボクも聞かなかったことにしておくよ」
姉の言葉通り、そのお兄様は今、目の前にいるが、怒髪天を衝くどころか呑気なものだ。
まあ、前世ではお市の方は最愛の妹だったのだから、これも運命の必然かもしれない。
でも、ノブナガが信長だと姉に知れたら、ボクらの立場はさらに危うくなる。それにしてもなあ、生まれ変わっても好きってどれだけシスコンなんだよノブナガ。
今は妹じゃなくて年上になっちゃってるけどね。
「どうした? イエヤス」
「あ、はは。なんでもない。でもそんな大事なこと、ボクに言っちゃって良かったの?」
「お前には言っておかないとまずいだろ。ヒデヨシはともかく」
「うーん……」
姉がお市の方だということはもちろんヒデヨシにも言っていない。
「いずれにしても、今はやめてほしいかな」
とにかく阻止しないと。
「なんで?」
「だって、姉さん今年、受験生じゃない? ちょっと待った方が……」
「えー、もう待てないよ。俺、信長だし」
「はは、何それ。とにかく、ちょっと待って」
殺すわけじゃないよな。待てないとか言って。
「分かった。でもちょっとだけだぞ、待つのは」
「あー、ちょっとだけね、うーん……」
信長は待つの大嫌いだからなあ、ボクと違って。
「間もなく名古屋港、終点です。お忘れ物のないように願います。ガーデンふ頭、水族館方面は前の階段を、市バスターミナル方面は後ろの階段を、ご利用ください」
車内アナウンスが助け舟を出してくれた。