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彼方からの風  作者: 杉本敬
第1章
9/18

9.圭子の告白

街灯の灯りが圭子の黒髪を照らし、ふわりと揺れる影が地面に伸

びていた。健太はその髪を見ながら、思わず心の中でつぶやく。

『ホント、きれいになったな……少しスリムになった気もする』


 やがて、公園が視界に入った。街灯が規則的に並び、闇に浮かび

上がるように明るい。圭子は躊躇することなく、その公園へと歩を

進めた。

 静かな夜風が吹き抜ける。二人の足音だけが微かに響く中、圭子

はまっすぐ公園へ向かっていた。その背中には、どこか決意のよう

なものが感じられた。公園の入り口に差し掛かると、圭子は一瞬だ

け立ち止まり、そっと息を吐いた。


「健太……」

 圭子の声はかすかに揺れていた。

 それは、いつもの圭子とは少し違う響きだった。何かを決めてい

るようで、でも迷いもあるような…そんな感情が、夜の空気の中に、

にじんでいた。健太はその様子に気づきながらも、言葉を飲み込む。

 圭子は再び歩き出した。その背中を追いながら、健太の胸には言

いようのない期待と不安が入り混じっていく……


『公園?』

「圭子。公園で何かあるのか?」

 健太の問いに、圭子は答えず、静かにブランコへ向かった。その

歩調はゆっくりで、何かを考え込んでいるようにも見える。健太は

少し迷いながらも、圭子の隣のブランコに腰掛けた。


 夜風が微かに髪を揺らし、街灯の光が彼女の横顔をやわらかく照

らす。

「健太。今でも詞は作ってる?」

 その問いはふいに発せられたが、どこか切実な響きを持っていた。

「詞か……そうだな。今は仕事が忙しくて作ってないな。作りたい

気持ちはあるんだけど……」

 圭子は静かにうなずきながら、ブランコの鎖を軽く握った。


「でも、近いうちに作るつもりなんでしょ?」

 その言葉は、確認というよりも、願いのように聞こえた。

「そのうちにはと思っているけど」

 健太がそう答えると、圭子はふっと笑った。しかし、その笑みは

どこか遠く、言葉にできない感情が滲んでいるようだった。


「その詞が出来上がった時、私に最初に見せてくれる?」

 圭子はブランコの鎖を揺らしながら、そっと言った。

 健太は意外そうに彼女を見た。圭子の瞳の奥には、ほんの少しだ

け迷いや期待のようなものが見える。


 健太の言葉が終わらないうちに、圭子は勢いよく立ち上がった。

 夜風が黒髪を揺らし、街灯の光がその瞳を静かに照らす。健太は

その変化に戸惑いながらも、ただ目の前の圭子を見つめた。


「健太。私は……ずっとあなたのそばにいたい。あなたのパートナ

ーになりたいの!」

 その言葉は突然だった……まっすぐで、強い気持ちが込められて

いるのがわかった。健太は思わず息をのむ。


『パートナーって……これは俺に……?』

 圭子の顔をじっと見つめる。

 彼女の瞳には、迷いと覚悟が混ざっていた。

 健太は喉の奥が少し渇くのを感じながら、視線を落とした。

「圭子……そんなことを考えていたのか」

 声はかすれていた。圭子は何も言わず、ただ健太の答えを待って

いた。健太はゆっくりとブランコの鎖を握る。


 健太は予想だにしていなかったことを、目の当たりにしていた。

 たしかに、健太は圭子のことを女として見なかったといえば嘘に

なる。しかし、ヒロシが圭子に気があることも知っていた。ヒロシ

なら安心だと思ったから、争うなんて考えもしなかった。前からヒ

ロシと圭子は、お似合いだし、心から祝福できると思っていたのだ。

 だが、こうも圭子から面と向かって言われると、健太も迂闊な返

事はできないと思ってしまう。だが、どう返事したらいいのか。


健太は、目の前で起きていることをすぐには受け止めきれなかっ

た。圭子の真剣な眼差しが、胸の奥にじわりと刺さる。

 たしかに、圭子を女として意識したことがなかったと言えば嘘に

なる。でも、ヒロシが彼女に気があることも知っていたし、ふたり

がうまくいけば、それでいいと思っていた。そう信じていた……

はずだった。

 それなのに、今、圭子が自分にそんな想いを向けてくるなんて。

 想定外だった。何かを答えなければと思うのに、言葉が出てこな

い。どんな表情をすればいいのかもわからず、健太は、ただ圭子の

顔を見つめ返すしかなかった。

上がるように明るい。圭子は躊躇することなく、その公園へと歩を

「圭子……俺は……」

 健太が口を開きかけたとき、圭子が制するように一歩、前に出た。

「健太、ごめん。ちょっとだけ、私の話を聞いてほしいの。初めて

あなたの歌を聴いたとき……息が止まりそうになったの。耳じゃな

くて、心に直接届いた。まるで、何か忘れていた大切な記憶を、突

然呼び起こされたみたいに。うまい人はたくさんいる。けど、私の

心に届いたのはあなただけだった。あの瞬間から、私はあなたを目

で追うようになった。演奏しながら、あなたの背中を見ているとね、

ふと泣きたくなることがあったの。理由なんてわからなかった。た

だ、あなたの詞や音が、どこか私の弱いところを包んでくれる気が

して……だから、私はもう、曖昧にしたくない。誰かの想いに応え

るのを怖がって、何も言わずに終わらせるなんて、そんなの嫌。健

太、私は……あなたが好き。あなたの全部を、正面から受け止めた

いって思ってる。嘘のない気持ちでいたいの。私は、もう自分の想

いから目を逸らしたくないのよ」


 圭子の最後の言葉が、健太の胸に深く残った。けれど、その瞬間、

真っ先に浮かんだのはヒロシの顔だった。あいつがどれだけ圭子を

大切に想ってきたか、健太は知っていた。

 バンドの帰り道に交わした何気ない会話、打ち上げの席でちらり

と見せた視線。ヒロシは決して言葉にしなかったけれど、誰よりも

真剣だった。


 そんなヒロシの背中を、健太は何度も見てきた。音楽のこと、夢

のこと……そして、圭子のこと。

 裏切りたくない。傷つけたくない。けれど今、自分の中にも確か

に芽生えてしまった想いがある。圭子の言葉があまりにも真っ直ぐ

で、もう曖昧にはできないほどだった。ふたつの大切なもののあい

だで、健太は立ち尽くしていた。


 圭子の目が、健太を射抜くようにまっすぐだった。その目を前に

して、嘘はつけなかった。

「圭子……嬉しいが……」

 そう言いかけて、健太は喉の奥に何かが詰まるのを感じた。声が

出ない。言葉がまとまらない。本当は、嬉しかった。心の奥が揺れ

た。でも……それだけじゃ済まなかった。


 ヒロシの笑顔が浮かぶ。肩を並べて歩いてきた時間、何も言わず

とも通じていた信頼。あいつを裏切ることなんて、できない……

 圭子は、じっと見つめたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。

「もし……ヒロシのことを気にしてるんだったら、それは考えない

でほしいの。もし無理じゃなければ、私のことだけを考えてほしい。

……これは酔った勢いじゃないよ」


 その声は震えていて、覚悟がにじんでいた。言い終えたあとも、

彼女はまばたきもせずに健太を見つめていた。

 健太は、一度だけ深く息を吸った。肺の奥が、苦しかった。

 それは「決められない苦しみ」ではない。「決まっているのに、

選べない苦しみ」だった。

 圭子と目が合ったまま、視線をそらすことができなかった。

『このまま答えるのは、きっと彼女にとっても、自分にとってもず

るい……しかし……』


「ありがたいよ。俺みたいな奴に、そんなふうに言ってもらえるな

んて……」

 健太はそう言って、圭子から目をそらした。唇をかすかに噛む。

「今、返事くれなくてもいい……考えてほしいの」

 圭子の声は震えていなかった。けれど、その静けさがかえって重

かった。

 健太は、返事を先延ばしにすべきか、それとも今ここで……と迷

った。迷いながらも、心の底で答えは出ていた。


 そして、意を決して言った。

「今の俺には……圭子の気持ちに応えることはできない」

 空気が凍ったように感じた。

 圭子の顔から、すっと笑みが消える。

「何故? 私は“返事がほしい”って言ったんじゃないの。考えて

みてって言ったのよ。……考えることもできないの?」

 その声には怒りはなかった。けれど、胸の奥で音を立てて崩れそ

うな何かを、必死に支えるような響きがあった。

 健太は言葉を失ったまま、ただ自分の両手を見つめていた。

 沈黙には、逃げでも拒絶でもない、「答えられない痛み」がにじ

んでいた。


「……考える以前の問題なんだ」

 健太は、絞り出すように言った。

「今、俺は仕事のことで頭がいっぱいで……正直、他のことを考え

る余裕がない。すまない」

 それは言い訳なのかもしれない――そんな思いが、胸の奥をじく

じくと刺していた。本当は圭子の気持ちがうれしくないわけじゃな

い。でも、それを認めた瞬間、何かが崩れてしまいそうだった。


「誰だって、仕事は大変よ。だけど、それを理由にして大切なこと

から目を背けていいの?」

 圭子の声は、静かだった。でも、明らかに怒りを抑えていた。

 責めてはいない。それが余計に苦しかった。

「……俺は、相変わらず不器用なんだよ」

 健太は乾いた笑いを混ぜながら言った。

「ひとつのことしか考えられない。器用に生きられないんだ。それ

に……恋愛は、もうこりごりだ。したくないんだよ」


 それは、本心だった。けれど、同時に逃げでもあった。自分がま

た誰かを傷つけるのが怖かった。自分が誰かに傷つけられるのも、

もう嫌だった。

 圭子は、まっすぐ彼を見つめたまま、静かに言った。

「たしかに……健太は沙也夏さんのことで、ひどくつらい思いをし

た。あなたの傷がどれほど深かったか、私はそばで見てた。でもね、

健太……」

 一瞬、彼女は言葉を切った。そして、決意を込めた声で続けた。


「人は、何度も恋をして、何度も傷ついて、そして『もう二度と』

って思って、でも……また、誰かに心を動かされてしまうものなの

よ。私だってそうだった。傷ついた過去がなかったわけじゃない。

むしろ、それを抱えたまま、あなたの詞に触れて……気づけば、あ

なたを好きになってた」

 その言葉は、ひたすら優しくて、なのに鋭かった。

 健太の心に、迷いと痛みと、そしてどうしようもない温かさが広

がった。

「私は、結果がほしいわけじゃない。ただ、あなたに真剣に向き合

ってほしいの。それだけよ。……ねえ、健太。もしかして……誰か

他に好きな人がいるの?」


「……いるわけないだろ。仕事で大変なのに。とにかく、今は考え

ることはできない」

 健太は、言葉を鋭く切り出した。感情を押し殺すように、断ち切

るように。

 圭子は、何も言わずに彼を見つめていた。その沈黙が、むしろ責

める声よりも重く感じられた。

 普通なら──そう、普通なら「少し考えてみる」と答えたかもし

れない。だが健太には、それができなかった。


 圭子のことを真正面から考え始めたら、必ずヒロシの顔が浮かぶ。

 笑顔、遠慮がちに支えてくれた言葉、そして気づかれないように

向けていた圭子への想い。そうなれば、自分は悩み、苦しみ、そし

てきっと、譲る。だったら、最初からその道しか選ばない方が楽だ

った。

 仕事を理由にすれば、誰も傷つけずに済む……そう信じたかった。

 だが心のどこかで、自分はもう圭子を突き放してしまったことを、

理解していた。それでも“断る”という行動に、自分の中の弱さを塗

りつけるしかできなかった。


「……そう。わかったわ」

 圭子は、静かに言葉を落とした。その声には、冷たさも怒りもな

かった。ただ、淡く滲む諦めがあった。健太は、ほっとしたような

気がした。でも、胸の奥が妙に冷えていた。

 圭子は小さく息を吐き、背を向けた。けれど、すぐに振り返って、

まっすぐに彼を見つめ返した。

「健太の言いたいこと、なんとなく分かった。……“考えられない”

んじゃなくて、考えるのを避けてるだけなんだよね?私のことを考

えたら、ヒロシのことも浮かんでしまう。そういうのが面倒だから、

最初からフタをしてるんでしょう?」


 一歩近づくような圭子の言葉に、健太は息をのんだ。

「私は、ヒロシのことは気にしないでって言ったのに……それでも

なお、避ける理由にされるなんて……。それって、結局、ヒロシの

ためにもなってないよ。健太なら、もっとちゃんと自分の気持ちに

向き合ってくれる人だと思ってた。……ちょっと、残念」

 圭子の言葉は、どこまでも静かで穏やかだった。けれど、その分、

芯に刺さる。


「でも、それが健太の出した答えなら……仕方ないわね。もう行く

ね」

 圭子はもう一度、健太を見つめた。それは、名残惜しいとも、怒

っているともつかない、ただ静かなまなざしだった。そして踵を返

すと、ゆっくりと歩き出した。

 その背中を、健太は追えなかった。足が鉛のように重く、声すら

出せなかった。

「考えたくない」……圭子に見透かされた言葉が、頭の中を何度も繰

り返された。本当にそうだった。ヒロシのことを考えるのが怖かった。

 圭子の気持ちに向き合って、自分が何を願っているのかを知るのが

怖かった。逃げた、と思った。それでも逃げるしかなかった。


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