表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼方からの風  作者: 杉本敬
第1章
8/18

8-圭子からの誘い

 画面に映る「圭子」という名前を見て、ふっと昔の記憶が蘇る。

「今日はどうした?」

「うん。どうしてるかなと思って……」

 圭子の声は穏やかだったが、どこか遠慮がちにも聞こえた。

「相変わらず仕事ばっかだよ。それにしても、ずいぶん会ってない

な」

「バンドをやっていた頃は、毎日会ってたのにね。あの頃が懐かし

い」


 圭子は少し寂しそうに言った。その言葉に、健太の胸にも淡い郷

愁が広がる。

「あの頃はよかったよな。何も考えずに、音楽のことだけに夢中に

なれた」

「そうね。でも、今も変わらず音楽は好きよ」

 圭子の声の向こうに、過去の自分たちがいる気がした。音楽に没

頭していた日々、何もかもが自由だった。


 健太は携帯電話を耳に押し当てたまま、しばらく沈黙した。

「あの頃に戻れるなら、戻りたいが。だが、無理だなぁ。淳之介と

純子のことを考えれば……」

 圭子の声が少し柔らかくなった。

「そうね。でも、純子たちに会ったのよ。花純かすみちゃん、すごく可愛

かった」


 花純……健太の旧友、淳之介と順子の子供だ。その名前を聞いた

瞬間、健太の胸に懐かしさとほんの少しの切なさが入り混じった。

「そうだろうな。今が一番可愛い盛りだからな」

「ほんとね。健太も会いに行ったらどう?淳之介、健太に会いたが

ってたよ」

 圭子の言葉は何気ないものだったが、健太の心には妙に重く響い

た。


 健太はため息をつきながら、携帯電話を握りしめた。

「会いに行きたいけど、今は仕事がいっぱい、いっぱいだな」

 圭子の声が少し柔らかくなる。

「仕事、大変なの?ヒロシから少し聞いてたけど……」

 

 健太は少し迷ったが、思い切って会社のことを話すことにした。

 クレーム処理の日々、ベンダーとの理不尽なやり取り、会社の対

応……言葉にすればするほど、ずっと心の奥に溜まっていたものが

溶けていくような気がした。

 圭子は、健太の話を遮ることなく、親身になって聞いてくれた。

 その静かな相槌と、時折挟まれる共感の言葉が、健太の心を少し

ずつ軽くしていく。気づけば、沈んでいた気持ちが、わずかに晴れ

ていた。


 健太は携帯電話を耳に当てた。圭子の声が穏やかに響く。

「ねえ、会わない?久しぶりに飲みに行こうよ」

 健太は一瞬考え込んだ。

「そうだな、たまにはいいかもな」

「そうよ。健太、仕事で疲れているみたいだし、たまには息抜きも

必要でしょ?」

 その言葉に、健太はふっと力を抜くように息を吐いた。

「じゃあ、いつがいい?」

 圭子の問いに、健太は一瞬迷ったが、疲れ切った心の奥で、『ち

ょっとくらい休んでもいいか』と思い始めていた。


「う~ん。圭子は週末がいいんだろ?」

「できればね」

「そしたら、来週の土曜日なんかどうだ?」

「いいわよ。もし、都合が悪くなったら連絡してね」

「わかった」

「じゃ、久しぶりに会えるのを楽しみにしてるわ」

 健太は携帯電話を静かに置き、ふと息をついた。

 昔の仲間というのは、やはりいいものだ。仕事に追われる日々の

中で、懐かしい時間がふと戻ってくる瞬間。それは、思いのほか心

を軽くするものだった。

  

 約束の土曜日。懸念していたクレームもなく、ようやく心置きな

くプライベートな時間を持つことができた。最近の健太は、些細な

問題でも神経を尖らせるほど、クレーム対応に敏感になっていた。

 店の暖簾をくぐりながらほっと息をついた。焼き鳥屋のこじんま

りとした佇まいに、圭子らしさを感じる。気取った店よりも、気軽

に話せる場所を選ぶあたり、彼女の気遣いが伝わってくるようだっ

た。


 引き戸を開けると、元気のいい声が店内に響いた。炭火の香ばし

い匂いが漂い、ざわめく会話が耳に心地よい。健太は、少しだけ肩

の力を抜いた気がした。


「健太!こっち、こっち!」

 圭子がカウンター席から手を振っている。健太は軽く手をあげ、

席へ向かった。隣に座ると、すでにおしぼりが置かれていた。健太

はそれを手に取りながら、圭子の顔を見る。

「案外、早かったのね」

「ああ。クレームさえ発生しなければ、だいたい定時に帰れるんだ」

「そう。健太、ビールでいいわよね?」

「うん」

 圭子はすぐに店主へ声をかける。

「大将!生ふたつ!」

 明るい声が店内に響く。店主も笑顔で応じ、グラスを用意し始め

た。


「ここには、よく来るのか?」

「よくってほどじゃないけど、月に二度ぐらいかな。でも健太は好

きでしょ、こういう店?」

「そうだな。雰囲気がいいし、活気もあっていい感じだな」

 ちょうど冷えたビールが運ばれてきた。グラスの表面には細かい

泡が立ち、喉が鳴る。

「じゃ、久しぶりの再会にカンパーイ!」

 グラスを軽く合わせる音が響く。健太は喉を鳴らしながら、一気

に半分ほど飲み干した。

「うまいな!」

「でしょ?」

 圭子は嬉しそうに微笑みながら、自分のグラスもゆっくり傾けた。


「うまいなぁ~」

「ほんと、飲むペースだけは相変わらずね」

「なんだよ、その ‘だけ’ っていうのは」

「はいはい、そんなムキにならないの。まだそんなに飲んでないで

しょ?」

 圭子はくすっと笑いながら、カウンターに並んだ焼鳥を指さす。

「それに、ここの焼鳥はね、ひと串のボリュームがすごいのよ。ほ

ら、見て!」

「それは楽しみだな。じゃ圭子、適当にたのんでくれ。ただし、四

ツ身は二本多めにな」


「四ツ身、好きだったっけ?」

「この頃、好きになったんだよ。クセがなくて食べやすいしな」

 健太はジョッキを持ち上げ、大将に声をかける。

「大将!生、おかわり!」

 店内のざわめきに紛れて、ビールを注ぐ音が響く。

「おっ、調子出てきたな。じゃ、私も追加で!」


 圭子は勢いよくグラスを傾け、残っていたビールを一気に飲み干

した。その豪快な飲みっぷりに、健太は思わず目を止める。

『圭子、綺麗になったな。前はもう少しふっくらしてた気がするけ

ど……それに、服の趣味も変わったみたいだ…ヒロシと付き合ってる

せいかな。恋は女をきれいにすると言うしな。まあ、圭子とヒロシ

ならお似合いだ』

 健太はジョッキを軽く揺らしながら、ふとそんなことを考えた。


 圭子はビールのおかわりと一緒に、さっと焼鳥を注文した。その

手際の良さに、健太はふと目を奪われる。気づけばじっと見つめて

いたようで、圭子に突っ込まれた。


「何よ。人の顔をジロジロ見て」

「いや、あまりの飲みっぷりの良さに色気を感じていたところだよ。

ハハハ……」

 圭子は軽くため息をつきながら、笑みを浮かべる。

「あのね。私も一応、女なのよ。もう少し優しい言葉で言ってくれ

ないかなぁ」

「う~ん。それは無理だ。あまりにも付き合いが長すぎる」

「健太からは私は女に見られてないのなかぁ」

 圭子は肩をすくめながら笑う。気心知れたやりとりに、健太もつ

られて笑った。


 二杯目のビールが運ばれ、ふたりはグラスを持ち上げると、勢い

よく喉を鳴らした。やがて、香ばしい煙とともに焼鳥がずらりと並

べられる。カウンターの上には、見事なネタが揃い、ふたりは思わ

ず顔を見合わせて笑った。

「これはすごいな……こんなに大きいのか」

 健太は串を手に取り、じっと眺める。炭火の香りが食欲をそそり、

思わず口元がほころんだ。

 

 酔いが回るにつれ、話題は自然とバンドのことへと移っていった。

「覚えてるか?最初のライブの時、アンプの調子が悪くてさ…」

「もちろん覚えてるわよ!リハでは問題なかったのに、本番でいき

なり音が飛んで、健太が必死で調整してたよね」

 圭子は笑いながら、グラスを傾けた。


「いやぁ、あの時は焦ったな。まあ大事には至らず、ライブを続け

ることができたけどな」

「でもさ、あの時のスリルがなんだか楽しかったよね?今思えば、

あのライブが一番印象に残ってるかも」

 健太は焼鳥を口に運びながら、懐かしさに浸る。

「曲作りも面白かったよな。深夜に集まって、どうするこうするっ

て言いながら、結局脱線してさ」

「そうそう。で、ヒロシが突然『このコード進行、神だ!』とか言

い出して。あれでどれだけ無駄に時間を使ったことか」

 ふたりは声を上げて笑った。店の賑わいの中、バンド時代の思い

出が次々と蘇る。あの頃の熱気が、今も健太の中には残っていた。

 

 二時間程して店を出ると、夜の街はすっかり闇に包まれていた。

 ひんやりとした秋風が頬を撫で、心地よい冷たさが酔いの余韻と

混ざり合う。

「涼しくなったわね」

 圭子がそう言いながら、肩をすくめる。

「ほんとにな。さっきまでの熱気が嘘みたいだ」


 健太は軽く息を吐き、空を見上げた。バンドの話に夢中になり、

時間が過ぎるのがあっという間だった。

「今日は楽しかったな。こういう時間、やっぱり大事だよな」

「でしょ?健太、もうちょっと自分の時間も作ったほうがいいんじ

ゃない?」

 圭子は笑いながら、健太の腕を軽く叩いた。その仕草に、昔から

変わらない気安さを感じる。久しぶりに、肩の力を抜いて楽しく過

ごした夜だった。

 

「圭子。今日はありがとう。久しぶりにうまい酒を飲めたよ」

 健太は軽く息をつきながら、そう言った。

「そう、良かったわ。誘って正解だったわね」

 圭子は微笑みながら、夜の空気を深く吸い込む。

「たまにはロコにでも行くか?」


 ロコ……バンド時代の思い出が詰まった店。ライブをし、飲み、

語り合った場所。

 圭子はふっと笑いながら首を振った。

「うーん、今日はやめとく。でも、また今度ね」

 秋風がそっと吹き抜け、二人の間に静かな余韻を残す。

「そうか。まあ前のようにはいかないな。じゃ帰るか」

 健太はそう言いながら、少し寂しさを覚えた。

 その言葉に、圭子は一瞬躊躇するように足を止めた。

 夜風が吹き抜け、ふたりの間に微妙な沈黙が流れる。


「健太。ちょっと時間ある?」

 健太は意外そうに眉を上げる。

「ん?いいけど……」

「じゃ、ちょっとつき合って」


 圭子は視線を合わせずに言い、歩き始めた。

 健太は戸惑いながら、その背中を見つめる。

『ロコには行かない……どこへ行くつもりだ?』

 圭子の歩調は、どこか決意めいていた。でも、それ以上の感情は

読み取れない。健太はゆっくりと、彼女の後を追い始めた。
















評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ