7.クレーム
会社の方針転換が発表された朝、健太は複雑な思いを抱えていた。
仕事が本格化していく実感はあるが、営業のような対外的な役割
はなく、ただ黙々と容器を配送する日々が続く。変化の波に乗って
いるようでいて、どこか置いてけぼりにされたような感覚があった。
周囲は新しい方針に前向きな声をあげるが、健太の心には小さな
違和感がくすぶる。
『これでいいのか?』」
『この先、何が変わるのか?』
そんな問いがふと頭をよぎる。けれど、考えすぎることもなく、
今日も淡々と業務に向かう。
健太は、クレームを防ぐために、工場にはしつこいほど注意を促
していた。しかし、どれほど気を配ったとしても、不測の事態は避
けられないものだ。
それは夏のことだった。弁当業界にとって、最も神経を尖らせる
季節……夏場。高温多湿の環境は、食中毒菌の繁殖を促し、わずか
な油断が重大な問題へと発展する。コンビニ弁当を製造するベンダ
ーも、その緊張の渦の中にあった。
ベンダーからクレーム発生の連絡が入った。だが、担当者の岡は
不機嫌そうな声で「こちらには来なくていい。直接、店へ行ってく
れ」とだけ言い放った。
通常なら、まずベンダーへ赴き、状況を確認してから店へ向かう
のが筋だ。それに、原因がベンダーにあるのか、健太の会社にある
のかもわからない。このまま店へ行けば、健太の会社が責任を負う
ことになりかねない。
だが、岡に詳しい説明を求めようとしても、一向に電話口には出
ようとしない。まるで「うちには関係ない」と言わんばかりだった。
後に聞いた話では、ベンダー側も別のクレーム対応に追われ、現
場は混乱していたらしい。
健太はこのままじっとしていては時間ばかり過ぎ、店側との関係
がこじれることを恐れた。クレーム対応では、初期行動が何より重
要だ。
店に到着すると、まずオーナーに会い、クレームの内容を確認し
た。やはり、問題は髪の毛の混入だった。ここで原因を追究しても
事態は解決しない。まずは誠意を示すことが先決だと考え、健太は
丁重に謝罪した。
その後、オーナーとともに弁当を購入した客先へ赴き、持参した
手土産を渡しながら、しっかりと話を聞き、改めて謝罪した。幸い、
客先は理解のある人物で、大事には至らなかった。対応を終えた後、
オーナーとも笑顔で別れることができた。
帰社すると、健太はすぐにベンダーの担当者・岡に連絡を取った。
今度は、ようやく電話に出てくれた。健太はクレーム対応の顛末
を報告し、原因の追及をしたい旨を伝えた。だが、返ってきたのは
冷ややかな言葉だった。
「そちらが処理したということは、原因はそちらにあると認めたこ
とになりますよね?今さらこちらに話を振られても困ります。すで
に店にもそう報告していますし、店から本部へも伝わっているはず
です」
それだけ言うと、健太の言葉を待たず、岡は電話を切ってしまっ
た。突然の幕切れに、健太は呆然と受話器を持ったまま立ち尽くし
た。
それ以来、ベンダーは髪の毛混入のクレームをほぼすべて健太の
会社の責任として扱うようになった。髪の毛混入は最も多いクレー
ムであり、最低でも月に一度は店へ駆けつけるのが当たり前になっ
ていた。
しかし、ベンダーは相変わらずこの問題に関して一切応じようと
はせず、責任を負おうとしない。健太は課長に相談したものの、課
長は話を聞くだけで、ベンダーと交渉しようとはしなかった。ベン
ダーとの取引は会社にとって死活問題であり、下手な衝突で関係を
悪化させるわけにはいかない。それは理解できる。
だが、現場で奔走する健太にとって、その理屈だけでは納得でき
なかった。何度も不合理な責任を負わされ、対応に追われるうちに、
ストレスは日増しに募っていくばかりだった。
そんなある日、思いがけない電話が鳴った。
その日もクレーム処理に追われ、店で延々と説教を受けた後、よ
うやく帰社したところだった。心身ともに消耗しきっていた。最近
では、「営業課」という肩書がただの名目に過ぎないことを痛感し
ている。実態は、もはやクレーム対応係と言っても差し支えなかっ
た。
健太は、疲労のあまり携帯電話に手を伸ばすのも億劫だった。
だが、画面に映った名前を見た瞬間、思わず手が止まった。
「健太?」
懐かしい声が耳に届く。
「ああ、圭子。久しぶりだな。元気か?」
「うん。まあね…」
電話の主は、バンド仲間でもある圭子だった。