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彼方からの風  作者: 杉本敬
第1章
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6.会社命令

「そこでだ。ここからが本題に入るわけだが……」

課長は一度、灰皿に煙草の火を消すと、重々しい口調で話し始

めた。健太は、課長が何を切り出すのか、すでに濁りながらも予

感していた。

「これはまだ内定という段階だが、君にベンダーの担当をお願い

したい」

その一言とともに、健太の心臓は高鳴り、過去の失敗への恐れと、

未知なる挑戦への期待が入り混じった複雑な感情が体中を駆け巡っ

た。短い沈黙の中、課長の視線は健太の心の中の躍動する不安と覚

悟を鋭く捉えるようであった。


『やはりな。そうきたか』

健太は特に驚いた様子もなかった。今の時代、コンビニは当たり

前の存在だ。弁当容器業界に身を置いていれば、いつかこんな日が

来るのは避けては通れない運命だと、長年の経験が静かに彼に告げ

ていた。

「わかりました」

「そうか。やってくれるか。君なら百人力だ」

 課長はその言葉に、ほっとした表情を見せた。しかし、すぐに健

太の口が続いた。

「では、今私が担当している個人商店は、誰が担当することになる

のですか?」

 その問いに、課長の返答は一瞬にして途切れ、急に口調も硬くな

った。健太はその変化に、不意に怪訝な表情を隠せなかった。


「実はな、コンビニ事業に乗り出すとなると、今の人員体制では到

底対処しきれない。ところが、増員には踏み切れないのが現状だ。

結果として、個人商店やスーパーの代理店には、商品の提供自体が

難しくなるわけだ」

「まさか……つまり、取引を断つということではないのでしょうね」

「仕方がないのだ。実は、ベンダーからも既存の取引先との関係は

断つよう、強い要請があった。これは新たな体制の中で、どうして

も避けられぬ現実なのだ」


「それをのんだんですか?」

「まあ、そういうことだな。谷川君、君には悔しい思いをさせるか

もしれんが、今は堪えてほしい。その悔しさこそ、次の挑戦へのバ

ネになるはずだ。これまでの経験は必ずや、新しい分野でも役立つ

と信じている。それから、申し訳ないが、今の取引先に関しては、

君のほうからうまく話をしておいてもらえないか。本来ならば私自

身が説明に伺うべきだが、まだベンダーとの折衝が残っており、時

間を割くことができん。どうか頼むぞ」


 課長は言いたいことだけを述べ終えると、そっけなく席を立とう

とした。まるで「これで話は終わりだ」とばかりに、足早に会議室

を後にしていく。

 一方、健太はその場に取り残され、下を向いたまま動きを止めて

いた。胸の鼓動が、次第に激しく高鳴り始めるのを感じる。悔しさ

が込み上げ、手の震えを止めることができなかった。すでに課長は

部屋の外へと消え去り、重い沈黙だけが残された。


「何だったんだ!今まで徹夜で商品企画に取り組み、売上を上げろ

と命じられて必死に考え、無我夢中で働いてきたのに……やっと軌

道に乗ってきたと思った矢先に、取引を断つなんて。別の担当者に

引き継ぐというのならまだわかる。でも、ゼロから築いてきた信用

を、あっさりと手放せというのか?客にうまく言っとけだと!ふざ

けるな!」


 健太は悔しさで胸が締め付けられる思いに襲われ、涙があふれ出

そうなほどだった。にもかかわらず、その悔しさを課長に直接ぶつ

ける勇気はなく、ただ胸の中で静かに苦しむしかなかった。それは、

まるで宮仕えする者だけが知る、深い哀しみのようだった。

『担当を増やしてもらえるどころか、客に謝りに行かねばならない

なんて……結局、俺は凡庸な、使い捨ての消耗品なのか!』

 そうつぶやくその声には、これまで積み上げてきた努力や築いて

きた信用が、一瞬にして無に帰すかのような絶望と、己の存在意義

に対する疑念が込められていた。


 健太は立ち上がると、会議室を静かに後にした。事務所に戻るべ

きだと自分に言い聞かせながらも、なぜかそのまま外へと足を運ん

だ。何もしたくない、ただ心が空っぽになってしまった感覚にとら

われていた。

 そして、翌日から、健太は強引に3日間の有給休暇を取得し、会

社を休む決断を下した。休んだ理由は、体の調子が悪かったわけで

もなく、個人商店への取引停止のお詫びを済ませるためだ。

 その後の健太は、まるで抜け殻のように、自身の存在意義さえも

見失ったような、虚無感に支配されていた。


 出社すれば、ベンダー関係の仕事が優先され、また自分の存在が

埋もれてしまうと感じた健太は、あえて会社に顔を出すことなく、

3日間の有給休暇で、個人商店への取引停止のお詫びを完結させた。

 これまで、取引先の中には健太の人間性に期待を寄せ、信頼して

取引してくれているオーナー達だったが、彼の変化に激怒し、烈火

のように憤りをぶつけられた。


 健太を信用していたからこそ、店側は激しく怒ったのだ。信頼を

裏切られる恐れから、ほとんどの店舗オーナーは「これ以上、弁当

は置かない」と強硬な姿勢を見せた。

 あるオーナーから、次のような言葉が投げかけられた。

「私はな、あんたを信用して弁当を置くことを決めたんだ。あんた

は容器屋さんなのに、食に関する知識も深く、勉強熱心なところに

感心したよ。こんな熱心な人なら信用できると思ったんだよ。それ

なのに、いきなり納品できないだと?なんだか、裏切られた気持ち

だよ!」

 その言葉が健太の耳に届いた瞬間、彼の胸は締め付けられるよう

な絶望感に襲われ、制御できずに涙が溢れ落ちた。自分がここまで

築いてきた信用が、一瞬にして崩れ去ってしまったような、深い悲

しみと悔しさが彼を打ちのめした。


『ここまで信用されていたのに……

俺は裏切ってしまった。

恩をアダで返してしまったんだ。

たとえ会社の方針が変わったとしても、

客にとってはこれ以上ない裏切り行為だ。

もし俺が社長で、経営者であったなら……』

 そう呟くと、健太はすべての取引先を訪ね歩いた。彼の胸中に渦

巻く罪悪感と、信頼を失った自分への怒りが、一歩一歩重く足を引

きずらせた。


 そして、健太は正式にベンダー担当へと任命された。最初の業務

は、すべてが事務的な作業で占められていた。伝票処理、受注、納

品……そしてその他の一連の業務は、システムに沿って管理される

ようになった。慣れない業務に戸惑いつつも、彼は日々の残業に追

われる毎日を送った。

 一週間後、健太は課長に同行され、ベンダーの藤倉商事へ挨拶に

出向いた。新築されたばかりの社屋は非常に清潔感があり、廊下に

敷かれた真っ赤なカーペットに、健太は少なからぬ驚きを覚えた。

 二人は応接室に案内され、担当者の到着を待つこととなったが、

その時間はなんと1時間近くも続いた。静まり返った部屋の中で、

健太は次第に業務の厳しさと、自らが置かれた環境の一端を実感し

ていた。


『連絡をしていたにも関わらず、こんなに待たされるとは……初め

から軽く見られているんだな』

 健太は嫌な予感を感じた。やがて、担当者が現れ、決められた型

の挨拶が交わされた。担当者の名は岡。やや小太りでありながら、

肌は異様に白く、その印象は一際強かった。

 岡は開口一番、厳しい口調で告げた。

「極力、クレームは出さないようにしてください。万が一、クレー

ムが発生した場合は、おたくが責任をもって処理してください。

『責任をもって』という意味、わかりますよね?」


 つまり、健太の会社が原因でクレームが発生した場合、ベンダー

側は一切の責任を負わず、こちらに全ての負担を押し付けるという

話だ。さらに、言葉の裏には、ベンダーが自社に迷惑がかからない

よう、くれぐれも慎重に対応してほしいという厳しい要求が含まれ

ている。 健太は、林の言葉を静かに、しかし固く受け止め、その

含みを黙って受け入れていた。


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