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彼方からの風  作者: 杉本敬
終章
53/53

Last.風が吹いた日

「さてと、今度はあいつらに沙也夏のことを紹介しないとな。こっ

ちも、驚くだろうな」

 健太がそう言って、麗子との腕をそっとほどいた。

 沙也夏は、少し緊張した面持ちで立っていた。

「そう緊張しなくてもいいって。初対面じゃないんだから」

 健太がやさしく声をかけると、沙也夏は小さく笑った。

「でも、久しぶりだから。それに……別れ方が別れ方だったから」

「それはそうだが……まあ、緊張するなというのが無理か……」


 健太は、ビーチの方へ目を向けた。

 ヒロシたちは、海を前にして立ちすくんだり、じゃれ合ったりし

ていた。まるで子供のように、無邪気に波と戯れている。

「しょうがねえなぁ。子供かよ。じゃ、行くか」

 健太の言葉に、沙也夏と麗子は頷いた。

 三人は並んで、ゆっくりとビーチへと下りていった。

 潮風が頬を撫で、太陽が三人の影を長く伸ばしていた。

 ビーチに着いても、メンバーたちは健太たちに気づく様子がなか

った。それぞれが、海の美しさに心を奪われていた。


「おーい!」

 大声で呼んでも、誰も振り向かない。健太は苦笑しながら、少し

歩を進めた。

 ようやく、淳之介が振り向いた。

「健さん。ここは最高すっね。え……まさか、沙也ちゃん……」

 健太の後ろにいた女性ふたりに気づいたようだった。

 その隣にいた純子も、驚いたように目を見開いた。

「沙也夏さん?健太、どういうこと?」

 その声に、メンバーたちが次々と集まってきた。

 波の音と歓声が混ざり合い、ビーチの空気が一気に熱を帯びた。

 沙也夏は、少しだけ後ろに身を引いたが、健太がそっと手を添え

ると、前に出た。麗子も、静かに見守っていた。


「おい、なんで沙也夏さんが……」

 さすがにいつもは冷静なヒロシも、わけが分からないといった表

情だった。圭子もジョンも、目を丸くして驚いている。

 沙也夏は、ゆっくりと歩を進め、メンバーたちの前に立った。

「みなさん、お久しぶりです」

 そう言って、丁寧に頭を下げた。その姿に、一瞬空気が張り詰め

た。


「ちょっと、健太。説明してよ」

 圭子が、健太を促すように言った。

 メンバー全員が、健太を見つめている。まるで無言の圧力がかか

っているようだった。

 健太は、少しだけ息を整えてから言った。

「わかった。わかった。今から話すよ」


 そして、健太は語り始めた。

 波照間島で沙也夏と偶然再会したこと。その再会が、ふたりの心

を揺らしたこと。そして、過去の痛みを乗り越え、もう一度やり直

すことを決めたこと――

 健太の言葉は、静かに、けれど力強く響いた。

 真剣な顔つきで聞いていたメンバーたちも、やがてその内容に頬

を緩め、ニヤニヤと笑い始めた。


「なるほどねぇ」

「そういうことだったのか」

「まさか、こんな展開になるとは」

 健太の話が一段落すると、圭子が言った。

「結局、仕事のことがネックになっていたけど、ふたりでなんとか

しようって結論になったのね。じゃ、仕事はこれから探すの?」

 圭子は、少し身を乗り出して健太を見つめた。仕事のことが気に

なっているようだった。


「いや、それも……もう……」

 健太は言いよどんだ。

「もう探したの?すごいじゃない」

「探したというか……」

 健太が言葉を探していると、沙也夏が一歩前に出て、口を挟んだ。


「ここからは私が話します」

 沙也夏は一歩前に出て、落ち着いた声で語り始めた。

「私は今、壱岐にあるショールームで絵画展示販売の仕事をしてい

ます。そこでは絵を展示しながら、喫茶コーナーも併設していて、

訪れるお客様にゆっくりと過ごしてもらえる空間を提供しています。

でも、何かが足りないと感じていたんです。それで、生の音楽を流

したらどうかと思い、上司に相談しました。会社からもゴーサイン

が出たので、その企画を健ちゃんに話しました。最初は渋っていた

けど、最終的に了解してくれて……ですから、健ちゃんの新しい仕

事は、ショールームで弾き語りをしてもらうことです」


 沙也夏の言葉は、整然としていて、どこか誇らしげだった。

 メンバーたちは、一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。

「ということは健太、おまえ音楽を仕事にするってことか?」

 ヒロシが、驚きを隠せない様子で言った。

 健太は、少し照れくさそうに笑った。

「いや、あくまで会社に雇われるってことだから。音楽を仕事って

いうのは……まあ、傍から見ればそうかなぁ」

 その言葉に、メンバーたちは一斉に笑顔になり、拍手が沸き起こ

った。


「良かったっす。本当に良かったっす」

 惇之介が、目を輝かせながら言った。

「健さんが音楽をもう一度やる気持ちになってくれて。じゃ、バン

ドも再始動っすか?」

「みんな、ありがとう。でもバンドはどうかな。それに、壱岐で仕

事するなら、住む所も探さなければいけないしな」

 健太がそう言うと、沙也夏が「ハイッ」と元気よく手を挙げた。

「提案があります」

「え、なんだよ。また突拍子もないことを言うんじゃないだろうな」


 健太は、沙也夏を見て不安そうな表情を浮かべた。

 沙也夏は、いたずらっぽく笑いながら言った。

「私が今住んでいる一軒家があるんだけど、そこは広くて。余って

いる部屋があるから、そこに住んではどうかな。もちろん、今は会

社から家賃を負担してもらっているけど、ふたりで住むとなれば、

自分たちで払うことになるけどね」


 健太は、呆れたようにため息をついた。

「はぁ…よくまあ、そんな人が驚くようなことばかり思いつくなぁ」

 けれど、その顔には、どこか嬉しさがにじんでいた。

 沙也夏のまっすぐな提案が、健太の心を少しずつほぐしていく。

 仲間たちは、ふたりのやりとりを微笑ましく見守っていた。


「そりゃいい。健太、沙也夏さんとは、いずれ結婚も視野に入れて

るんだろ。そうしろ。そうなれば問題は一気にかたづくじゃないか。

仕事も決まり、住み家も探さなくていい。それに仕事が落ち着いた

ら、バンド活動もできるんじゃないか。そうだな、壱岐と福岡だっ

たら、船で一時間だろ。それだったら、行き来できるじゃないか!

なんか面白くなってきたな」

 ヒロシは、まるで自分のことのように楽しげに語った。


 その言葉に、健太は少しだけ目を見開いた。思いもよらない展開

だった。

「ヤッホー!またバンドやれるんっすね。やったー!」

 惇之介は、子供のようにはしゃぎながら、砂浜を跳ねるように走

った。

 健太は、苦笑しながら言った。

「そう話を進めるなよ。まあ、でもその考えは一理あるな」

 その言葉は、否定ではなかった。むしろ、少しずつ心が動き始め

ている証だった。


 物事というのは、うまくいかない時は、何をしても空回りする。

 けれど、進む時は――まるで潮の流れが変わったように、一気に

進んでいく。今が、まさにその時なのかもしれない。

 仲間たちの笑顔。沙也夏のまっすぐな眼差し。そして、自分の中

に残っていた音楽への情熱。すべてが、ひとつの方向へと向かって

いた。

 波照間島の空は、今日も青く澄んでいた。


               *


 その日の夜、宿に併設された居酒屋は、特別に貸し切りとなった。

 健太の送別会を兼ねて、沙也夏を含めたバンドメンバー全員が集

まり、食事会が開かれることになっていた。さらに、勝、海里、里

桜も加わり、宴は次第に大規模なものへと膨らんでいった。

 すべては、女将さんの粋な計らいによるものだった。

「谷川くんの門出を、みんなで祝ってあげなきゃね」と、笑顔で準

備を整えてくれた。


 最初は、バンドメンバーと島の人々――勝、海里、里桜、そして

女将さん――は初対面ということもあり、少し緊張した空気が漂っ

ていた。けれど、酒が進むにつれて、アルコールの力も手伝い、場

は一気ににぎやかになっていった。

 ヒロシは勝と気が合ったようで、釣りの話や島の暮らしについて、

楽しそうに語り合っている。


 淳之介・純子夫妻は、里桜と海里と笑いながら話していて、まる

で旧知の仲のようだった。圭子は沙也夏との再会が本当に嬉しかっ

たようで、笑い声を絶やさず、ジョンと麗子もその輪に加わってい

た。

 健太はというと、あちこちの席を移動しながら、それぞれの話に

顔を出していた。というのも、波照間島に来てからの健太の仕事ぶ

りや生活ぶりが、話題の中心になっていたからだ。


 健太は、つい半年前まで、見知らぬ人同士が酒を酌み交わしなが

ら笑い合う光景を、どこか不思議なものとして眺めていた。

 人はなぜ、こんなにも自然に打ち解けられるのだろう――そんな

疑問と同時に、人生って面白いな、と感じていた。

 あの時、波照間島に行くことを決断しなかったら、勝とも海里と

も里桜とも出会うことはなかった。そして、沙也夏との再会もなか

った。


 宴会が始まって、すでに二時間が過ぎようとしていた。

 店内は笑い声とグラスの音で満ちていて、終わりの気配はまった

くない。女性陣はさすがにもう酒を控えていたが、ヒロシと勝は泡

盛を片手に、まだまだ元気だった。

 健太はふたりの酒の強さに感心しながら、そっと席を立った。


 居酒屋を出て、売店の前にある木製のベンチに腰を下ろす。

 潮風が頬を撫で、宴の喧騒が少し遠くに感じられた。

「今夜は、ちょっと飲みすぎたな……」

 健太はそう呟きながら、夜空を見上げた。相変わらず、月は明る

かった。


 初めて波照間島に来た夜、この月を見て驚いたことを思い出す。

「月って、こんなに明るいのか……」

 その時、とみさんが言っていた。

「ここには遮るものがないからさ。月も星も、全部そのまま見える

のよ」

 そういえば――と健太は思った。

『沙也夏を、とみさんにまだ紹介していなかった。あれほどお世話

になったのに、ちゃんと伝えていない。明日は沙也夏をとみさんに

紹介しよう』と思った。

 月を見上げながら、胸に一抹の寂しさがよぎった。

 波照間島と、もうすぐお別れだ。この島で過ごした日々。出会っ

た人々。


「飲み過ぎたの?」

 ふと横を見ると、沙也夏がいた。

 月明かりに照らされたその横顔は、どこか懐かしく、そして今は

確かに隣にある。

「久しぶりにヒロシたちと飲んだからな」

 健太がそう言うと、沙也夏はベンチに腰を下ろし、ゆっくりと背

伸びをした。


「みんな楽しそうだったね」

 健太は、宴の余韻が残る居酒屋の灯りを遠くに見ながら、静かに

言った。

「不思議だなと思ったよ」

「何が?」

「ここに来ることを決めていなければ、今日という日はなかった。

そして沙也夏に再会することもなかった」

 沙也夏は、少しだけ目を伏せてから、健太の言葉を噛みしめるよ

うに言った。

「そうね。私の仕事と健ちゃんの決断が交わったのかもしれない。

そういう意味では、波照間島は奇跡の島ね」


 健太は、夜風に髪を揺らしながら、ぽつりと呟いた。

「俺は風が吹いたように感じた」

「風?」

「沙也夏と別れた日、沙也夏が遠くに行ってしまったと感じた。ま

るで風が彼方に行ってしまったように。そしてその彼方から、ここ

波照間島に風は戻ってきたのかもしれない」

「彼方からの風…」

 沙也夏は、健太の顔を見つめた。

 健太も、その視線をまっすぐに受け止めた。

「健ちゃん。私たちはずいぶん回り道をした。その分、これからはい

っぱい幸せになろうね」

「そうだ。今までの分を取り戻そう。これからの人生、一緒に歩い

て行こう」


 ふたりは、そっと唇を重ねた。

 その瞬間、波照間島の夜空は、静かに、そして確かにふたりを包

み込んだ。月明かりは、ふたりの肩をやさしく照らしていた。


 ――まるで、彼方から吹いてきた風が、ふたりの未来をそっと押

してくれるように。(了)


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