52.仲間たち
十月に入ったが、波照間島の暑さは衰える気配を見せていなかっ
た。最低気温は二十五度前後、日中は三十度を超えることもあり、
空は真夏のような青さを保っていた。潮風はやや湿り気を帯び、港
の空気はどこか懐かしく、そして活気に満ちていた。
健太は、波照間港の待合所に立っていた。白いシャツの袖をまく
り、額に浮かぶ汗を手の甲でぬぐう。
今日は特別な日だった。
宿泊客を迎えるのはいつもの仕事だが、今日来島するのは知り合
い――バンドの仲間だった。かつて一緒に音楽を奏でたメンバーが、
遠く離れたこの島にやってくる。そのことが、健太の胸を少しだけ
高鳴らせていた。
沙也夏とやり直すことを決めてから、三週間が過ぎていた。
あの日、壱岐の海辺で交わした言葉は、今も健太の心に深く残っ
ている。仕事については、沙也夏の提案を受け入れることにした。
彼女の会社で働くにあたって、社長や幹部社員との“面接”があり、
健太はメインの弾き語りを披露した。
かつてバンドで演奏していた曲を、アコースティックにアレンジ
して歌った。ギターの音色は柔らかく、歌声は静かに響いた。
評判は上々だった。その場で採用が決まり、健太は正式に“ショー
ウインドウでの弾き語り担当”として働くことになった。
当面は、バンド時代のナンバーをアレンジして演奏すれば何とか
なりそうだった。けれど、それと並行して、新しい曲を作らなけれ
ばならない。
バンドの曲を使う以上、メンバーの了承は欠かせない。リーダー
のヒロシに連絡を取り、アレンジの件を話した。沙也夏のことは伏
せ、適当な理由をつけて説明した。ヒロシは、快く了承してくれた。
健太は、港のベンチに腰を下ろしながら、遠くの海を見つめてい
た。陽射しは強く、潮風は肌にまとわりつくように湿っていた。
十月とは思えないほどの暑さが、波照間島の空気を満たしていた。
今日、バンドの仲間たちが島にやってくる。
ヒロシとの電話で「遊びに来れば?」と軽く言ったつもりが、彼
はすぐに乗り気になった。
「じゃあ、みんなで行こうか」と言い出し、メンバーに連絡を取っ
てくれた。それが今日という日につながっている。
だが、メンバーを呼んだのは、沙也夏とのことをメンバーにきち
んと話すためだった。彼らには、別れたときも、迷っていたときも、
何も言えずにいた。心配をかけたまま、距離を置いてしまった。
だからこそ、電話ではなく、この島で話したかった。
波照間島は、沙也夏とやり直すきっかけをくれた場所。この島で、
すべてを話すことに意味があると思った。
心配をかけたという意味では、勝や海里、そして宿の里桜と女将
さんも同じだった。沙也夏とのことを話すと、みんな喜んでくれた。
特に海里は、まるで自分のことのように喜んでくれた。その無邪
気な笑顔に、健太は少しだけ胸が痛んだ。
勝も喜んでくれたが、意外なことを耳打ちしてきた。
「海里を島から出すつもりだ」と。
健太は驚いたが、すぐに賛成した。海里はまだ若い。島の外の世
界を見て、いろんな経験をするべきだ。そして、いつかこの島の良
さを、改めて感じて戻ってくるかもしれない。
里桜と女将さんも、健太の決断を喜んでくれた。けれど、その笑
顔の奥には、少しだけ寂しさが滲んでいた。健太が近いうちに島を
離れることは、もう決まっている。
特に里桜は、健太と一緒に【みーふぁいゆー】を切り盛りしてい
く未来を、どこかで思い描いていたようだった。
だが、別れがあれば出会いもある。
健太が波照間島を離れることは、里桜をはじめ、島の人々も薄々
感じていた。だからこそ、里桜は早めに後任の準備を進めていた。
以前から話していた姉夫婦が、予定を前倒しして島に来てくれる
ことになっていた。
健太は、この二週間、自分が担当していた業務を里桜の義理の兄
に丁寧に引き継いだ。前半の一週間は、義理兄も不安そうで、港で
の対応や宿の手配に戸惑う様子もあった。
けれど後半になると、少しずつ島のリズムに馴染み、笑顔も増え
てきた。健太は、その様子を見て、安心と同時に少しだけ寂しさを
覚えていた。
そして、何よりも喜んでくれたのは、とみさんだった。
健太が沙也夏のことで悩んでいたことを、彼女はずっと気づいて
いたようだった。けれど、あえて何も言わず、ただ見守ってくれて
いた。
ある日、健太が「波照間島で本格的に仕事をしようかと考えたこ
ともあった」と話すと、
とみさんは、少し首を振って言った。
「あまり賛成しないねぇ。ここは観光で成り立っているような島だ
から、将来はどうなるか分からないよ。現にニシハマ近くにあるホ
テルは、建設前はけっこう揉めたんだよねぇ。自然を守りたいって
いう島民がいるから。まあ、里桜ちゃんのように覚悟を決めている
なら、話は別だけど。あの子はここと心中するような勢いだからね
ぇ」
とみさんは、そう言って笑ったが、その笑顔の奥には寂しさが滲
んでいた。
「まあ、あたしもいずれ波照間島を離れて、息子夫婦が住む石垣島
に行くことになるだろうから」
その言葉に、健太は言葉を返せなかった。
とみさんの表情は、どこか遠くを見つめるように静かだった。
健太がこの三週間の出来事を思い返していると、港にフェリーの
汽笛が響いた。視線を上げると、白い船体がゆっくりと接岸してい
くのが見えた。
船着場へと足を運び、日差しの中で目を細めながら待っていると、
フェリーのタラップから次々と人が降りてくる。
その中に、見慣れた顔があった。ヒロシだった。
健太と目が合うと、ヒロシは大きく手を挙げた。健太も自然と笑
みがこぼれ、同じように手を挙げて応えた。
「健太、久しぶりだな。いやぁ、フェリー揺れたな」
ヒロシは、潮風に髪をなびかせながら、健太の前に立った。その
顔には、再会の喜びがにじんでいた。続いて、圭子と純子が満面の
笑みで近づいてくる。
「健太さん、久しぶりっす!」
惇之介が勢いよく駆け寄ってきて、今にも抱きつかんばかりの勢
いだった。
「おお、元気そうだな」
「もちろんっす。娘のために毎日頑張ってますからね」
「一児の父だからな。でも父親には見えねえな」
「そんなこと言わないでくださいよ」
ふたりは笑い合い、肩を軽く叩き合った。
そのやりとりは、まるで時間が巻き戻ったかのように自然だった。
「ケンタ!アイタカッタヨ!」
たどたどしい日本語が耳に飛び込んできた。ジョンだった。
大柄な体を揺らしながら、アメリカ人らしくいきなり健太にハグ
してきた。
「おお、ジョン。元気そうだな」
「モチロン!ココ、アツイネ!」
ジョンの後ろから、ひとりの女性が現れた。
その姿を見た瞬間、健太は「あっ」と小さく声を漏らした。麗子
だった。あのとき、波照間島に行くことを強く勧めてくれた女性。
「谷川さーん。私のこと、憶えてる?」
「……あ、その節はどうも」
健太は、少し照れくさそうに頭を下げた。
「みんなで波照間に行くってジョンから聞いて、ちゃっかり着いて
来ちゃいました。というより、久しぶりの里帰りかな」
麗子は、どこか懐かしそうに港の風景を見渡した。
健太は、彼女の姿を見つめながら、胸の奥に熱いものが込み上げ
てくるのを感じていた。
『あの時、麗子さんに会っていなかったら……波照間島に行くこと
をスルーしていたら、沙也夏に会うことはなかった』
あの偶然の出会いが、今の自分をここに導いてくれた。感謝して
もしきれない。
「よし。感動の再会はそれぐらいにしといて、次の行動だ」
ヒロシがリーダーらしく声を上げると、場の空気が少し引き締ま
った。笑顔の余韻を残しながら、みんなが健太の方を向いた。
「健太。ここからどうしたらいい?」
健太は、港の向こうに停めてある車を指さしながら言った。
「駐車場に車を停めているから、みんな車に乗ってくれ」
それぞれがスーツケースを引きながら、ゆっくりと移動を始めた。
潮風が吹き抜ける中、笑い声とキャスターの音が港に響く。
駐車場に着くと、健太の車に順番に乗り込んだ。七名の乗車はぎ
りぎりで、車内は満員だった。それでも、誰も文句を言わず、むし
ろ旅の高揚感に包まれていた。
助手席に座ったヒロシが、窓の外を見ながら尋ねた。
「まず、宿に行くのか?」
健太は、ハンドルを握りながら答えた。
「いや、まずニシハマに行く」
「ニシハマ……ああ、海が綺麗な所か」
「そう。ニシハマを見ないと、始まらないからな」
健太がニシハマを最初に案内するのには、理由があった。
もちろん、あのハテルマブルーを見せたいという思いもある。
けれど、それ以上に――沙也夏のことを、仲間たちに話すつもり
だった。実は、沙也夏はすでに波照間島に来ていた。健太は、彼女
をサプライズで紹介しようと考えていた。
この島で、再会し、やり直すことを決めた。そのことを、仲間た
ちにきちんと伝えたい。そして、あの美しい海を前にして、すべて
を話したいと思っていた。
車はゆっくりと港を離れ、ニシハマへと向かって走り出した。
ニシハマが見えるカーブを曲がった瞬間、後部座席から歓声が沸
き上がった。特に圭子と純子の声は、まるで修学旅行中の女子高生
のように弾んでいた。
「なあに、この色!こんな青、見たことない!」
「これって自然なの?まるで絵の具をぶちまけたようだわ!」
その声に、健太は思わず苦笑した。
無理もない。福岡の海とは比べものにならないほど、ニシハマの
海は鮮烈だった。健太自身も、初めてこの海を見たときの衝撃を思
い出していた。あの時、言葉を失い、ただ波の音に耳を澄ませてい
た。その感動が、今こうして仲間たちにも伝わっていることが、ど
こか嬉しかった。
車を駐車場に停めると、メンバーたちは我先にドアを開けて飛び
出していった。スーツケースを放り出すようにして、ビーチへと駆
け下りていく。
「おいおい!」
健太が声をかけるも、誰も振り返らない。淳之介を先頭に、まる
で子供のように砂浜へと走っていく姿が、眩しく見えた。
そんな中でも、ヒロシだけは冷静だった。
車から降りると、ゆっくりと海を見渡しながら言った。
「たしかに綺麗だ。ポストカードの世界が目の前に広がっている」
健太はその言葉に、思わず頷いた。
「これがハテルマブルーさ。波照間島でしか見ることができない」
ヒロシは、しばらくその青さを見つめていた。
「ハテルマブルー……これを見るだけでも来る価値はあるな」
そう言うと、ヒロシもゆっくりとビーチへと歩き出した。
足元の砂が、さらさらと音を立てる。
「みんな楽しそうね。久しぶりにここへ来たけど、やっぱり綺麗だ
わ」
後ろから、麗子の声が柔らかく響いた。
健太は振り返り、麗子の穏やかな表情を見て、心からの言葉を口
にした。
「麗子さん。波照間島に来てよかったです。ここで素晴らしい景色
と人に出会えました。これからの人生に、きっとプラスになります」
麗子は、潮風に髪を揺らしながら微笑んだ。
「それはよかった。紹介した甲斐があったわ。私の故郷が、ひとり
の人を前向きにしたのなら、嬉しい」
その会話を遮るように、突然、驚きの声が響いた。
「麗子じゃないの!なんでここにいるの!」
振り返ると、そこには沙也夏が立っていた。
目を見開き、まるで夢でも見ているかのような表情だった。
「さ、沙也夏!それはこっちのセリフよ!」
麗子も驚いた顔で沙也夏を見つめていた。ふたりの視線が交差し、
しばらく言葉が出ない。
健太は、その様子に目を丸くした。
「えっ、ふたりは知り合いだったの?」
ふたりは同時に言った。
「学生時代からの親友よ!」
健太は、思わず笑みをこぼした。
まさか、こんな偶然があるとは思っていなかった。
ふたりはお互いを見つめたまま、言葉を探しているようだった。
健太は、ここは自分が話すべきだと感じ、静かに口を開いた。
麗子と出会ったときのこと。彼女が波照間島を勧めてくれたこと。
そして、沙也夏との再会から、やり直すことになった経緯――
健太は、かいつまんで丁寧に話した。
ふたりは黙って聞いていたが、話が終わる頃には、ようやく落ち
着いた様子だった。
「そういうことだったのね!」
麗子が目を輝かせながら言った。
「沙也夏、もしかして以前つきあっている人がいるって言ったのは、
谷川さんのこと?」
沙也夏は、少し照れくさそうに頷いた。
「そう。あの時、麗子がアドバイスしてくれたことが、今本当にな
ってる。離婚して、また再び出会って、やり直すことになった。そ
れにしても、麗子が健ちゃんに波照間島行きを勧めていたなんて……
こうなったのも、麗子のおかげでもあるのね」
麗子は、目を細めて言った。
「波照間島を紹介して正解だったのね。谷川さんが立ち直るきっか
けになったのも嬉しいけれど、ふたりが再会できてるなんて……こ
こ波照間島は、奇跡の島ね」
ふたりは、感極まったように抱き合った。その姿は、まるで長い
旅路の果てに再び巡り合った姉妹のようだった。
健太は、その様子を見ながら、静かに思った。
――人との出会いは、奇跡の連続だ。
偶然が重なり、言葉がつながり、心が動いていく。そして、人生
は少しずつ、確かな方向へと進んでいく。
波照間の海は、今日も青く、静かに輝いていた。
その青さが、ふたりの再会と、健太の新しい一歩を、やさしく包
み込んでいた。




