50.壱岐へ
台風が去って三日後の朝、健太は波照間港の岸壁に立っていた。
空はようやく晴れ渡り、雲ひとつない青が広がっている。
けれど、海はまだ少し荒れていて、白波が岸に打ち寄せていた。
隣には、里桜がいた。風に揺れる髪を押さえながら、じっとフェ
リーの到着を待っている。その横顔は、どこか寂しげで、けれど穏
やかだった。
三日前、健太はようやく決心をして、沙也夏にメールを送った。
「返事は直にしたい」とだけ、短く。
返事はその日の夜に届いた。驚いた様子が文面からも伝わってき
た。
今は壱岐で仕事をしているという。
「もしよければ、壱岐まで来てもらってもいい?」と書かれていた。
健太は、すぐに「かまわない」と返信した。
彼女が自ら波照間島まで来てくれたのだ。ならば今度は、自分が
足を運ぶ番だ。それが礼儀だと思った。
波照間から壱岐へ行くには、時間がかかる。まず石垣島へ渡り、
そこから飛行機で福岡へ。翌朝に博多港からジェットフォイルで壱
岐へ向かう予定だった。
「決めたの?」
里桜が、ふと問いかけてきた。その声は、どこか優しく、そして
少しだけ心配そうだった。
「まだ。最後の部分で決めかねている」
健太は正直に答えた。心の中では、まだ答えが出ていなかった。
「そう。でも、どういう方向にいくにしろ、一度はこっちに来てよ
ね。仕事のこともあるし」
「わかってる」
沙也夏とのことは、すでに女将さんと里桜にはすべて話していた。
女将さんは、何も言わずに三日間の休みをくれた。
「行っておいで」とだけ、背中を押してくれた。
やがて、港の向こうからフェリーの汽笛が聞こえてきた。白い船
体が、ゆっくりと接岸してくる。健太はバッグを肩にかけ、里桜の
方を向いた。
「じゃ、行くよ。仕事、迷惑かけるけど、お願いします」
「それは気にしないで。後悔のないようにね」
その言葉に、健太は小さく頷いた。けれど、「後悔」という言葉
が、胸にずしりと響いた。
フェリーへと向かう足取りは、どこか重かった。
沙也夏と、もう一度やり直すかどうか――健太の中では、断るつ
もりでいた。けれど、里桜の「後悔のないようにね」という言葉が、
まるで波のように、何度も心に押し寄せてきた。
本当に、このまま断っていいのか。本当に、もう一度向き合う価
値はないのか。
答えはまだ出ていない。けれど、少なくとも今、健太はその答え
を探しに行こうとしていた。
予定通り石垣港に到着した健太は、港からタクシーで石垣空港へ
向かった。空港のロビーは観光客で賑わっていたが、健太の心は静
かだった。福岡行きの便に乗り込むと、窓の外に広がる海と空が、
少しずつ遠ざかっていった。
福岡に着いたのは、夕方近くだった。
久しぶりの自宅は、変わらず静かで、どこか空虚だった。荷物を
置いても、何かをする気にはなれず、ただ明日のことばかりを考え
ていた。
沙也夏に、明日の到着時間だけをメールで伝えた。返事はすぐに
届いた。
「気をつけて来て。待ってる」
その文面は、簡潔で、けれどどこか緊張が滲んでいるような気が
した。健太は、メールを確認すると、早々に寝床に入った。眠れる
かどうかはわからなかったが、考えすぎる前に目を閉じたかった。
翌朝、健太は博多港へ向かった。
朝一番、八時発のジェットフォイルに乗り込む。船内はまだ空い
ていて、窓際の席に座ると、海を眺めながら静かに時間を過ごした。
壱岐に到着するジェットフォイルは、郷ノ浦と芦部の二つの港に
着くが、沙也夏の職場がある郷ノ浦を選んだ。
約一時間の航海ののち、船は郷ノ浦港に滑り込むように到着した。
港のベンチに腰を下ろし、バッグを足元に置いた。
目の前には、壱岐の海が広がっていた。けれど、波照間島で見た
あの透き通るような青とは違い、どこかくすんで見えた。
『沙也夏とやり直すことを、何度も考えてみた。でも、最後に立ち
はだかるのは、やっぱり仕事のことだった。彼女は、しっかりと自
分の道を歩いている。一方で、俺はアルバイトの身。もしやり直す
ことになって、仕事を探すとしても、焦って適当な職に就いてしま
う気がする。その仕事がうまくいけばいい。でも、もしまた辞める
ことになったら――そのとき、沙也夏との関係も、きっと揺らいで
しまう』
健太は、堂々巡りの思考に陥っていた。何度も同じ場所に戻って
きてしまう。
「結局は仕事なんだよな……」
思わず口にした言葉に、自分でも苦笑した。
港の風が、健太の頬を撫でていく。
時計を見ると、午前十時を回っていた。朝食を摂っていなかった
ことに気づき、腹が鳴った。
波照間島で働くようになってから、とみさんが作ってくれる朝食
が、すっかり習慣になっていた。その温かさが、今は少し恋しかっ
た。約束の時間は午後1時。まだ時間はある。
健太は港のベンチから立ち上がり、予約していたレンタカー店へ
向かった。港の通りは静かで、観光客の姿もまばらだった。台風の
影響がまだ残っているのか、空は薄曇りで、風が少し冷たかった。
レンタカー店で手続きを済ませると、渡された鍵はヴィッツのも
のだった。小回りの利く車で、島内を走るにはちょうどいい。
健太は車に乗り込み、ナビを操作して食事ができる場所を探した。
画面に表示されたのは、382号線沿いのレストラン。
港からしばらく走ると、目的の店が見えてきた。店名は【西風】
とあった。駐車場に車を入れ、健太は店へ向かった。
扉を開けて中に入ると、思わず目を見張った。普通のレストラン
かと思っていたが、店内はライブハウスも兼ねているようだった。
奥にはステージがあり、スポットライトが天井から吊るされてい
る。壁には、色とりどりのミュージシャンの写真が飾られていた。
ギターやサックス、ドラムのスティックを持った人物たちが、笑
顔で写っている。
時間が中途半端だったせいか、客は数人ほど。
健太は窓際のテーブル席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
女性の店員が冷水を運んできて、メニューを手渡してくれた。
健太はメニュー表を開き、少し迷った末にカツサンドとコーヒー
を注文した。モーニングセットもあったが、すでに時間が過ぎてい
た。
冷水を一口飲むと、思わず感心した。ただの水かと思ったら、ほ
んのりレモンの香りがする。口の中がさっぱりとし、気持ちも少し
落ち着いた。
やがて、カツサンドが運ばれてきた。
健太は一口かじると、思わず声が漏れた。
「うまいな、これ」
肉は驚くほど柔らかく、けれど適度な歯ごたえがあり、ソースの
味も絶妙だった。パンは軽くトーストされていて、香ばしさが口に
広がる。思わず顔がほころんだ。食後のコーヒーは、深煎りの香り
が立ちのぼり、健太の思考を少しだけ静めてくれた。
店内の時計を見ると、午前11時になろうとしていた。約束の時
間は午後1時。まだ、少しだけ余裕がある。
会計を済ませ、健太は駐車場へ向かった。ヴィッツのドアノブに
手をかけたその瞬間だった。
「谷川さん」
背後から、男の声がした。健太は驚いて振り返った。そこに立っ
ていたのは、見覚えのある顔だった。記憶がすぐに蘇る。ニシハマ
で一度だけ言葉を交わした男――高井だった。
「あ、あなたは……」
「高井です。波照間島でお会いした時は失礼しました」
「いえ、こちらこそ」
健太は、あの時の短い会話を思い出していた。
沙也夏と一緒にいた高井。その存在が、どこか気になっていた。
高井は健太に近づきながら、穏やかに言った。
「店に来ていただけたんですか?」
「ええ、ちょっと遅い朝食を」
「それはありがとうございます」
「じゃ、ここはあなたのお店なんですね」
「そうです。ここを経営しております」
「そうだったんですね。カツサンド、とても美味しかったです」
「ありがとうございます。それにしても、ここでお会いできるとは」
どうやら、高井は今まさに店に出勤してきたところだったようだ。
健太は、少しだけ気まずさを感じながらも、礼儀正しく応じてい
た。
「谷川さん。ちょっとお話できますか?」
高井の声は、どこか真剣だった。
健太はチラリと腕時計を見た。まだ約束の時間には余裕がある。
「お時間はとらせません。すぐ済みます」
「はあ……」
健太は、軽く頷いた。
「壱岐に谷川さんがいるということは、沙也夏さんに会いに来られ
たんですよね」
「よくご存じですね」
「いえ。想像です。というのは……僕、ふられたんですよ。沙也夏さ
んに」
「えっ?」
健太は、思わず声を漏らした。
「沙也夏さんは僕に言いました。“私には忘れられない人がいて、
その人に想いを告げる。その結果うまくいかなかったとしても、あ
なたとお付き合いすることはできない”と。僕が思うには、ふられた
ら次の人――というのは、彼女にはできないんでしょうね。僕は、
もしうまくいかなかったら、おつき合いしてくださいって言ったん
ですけど、だめでした」
高井の言葉は、静かで、どこか潔かった。
その話を聞いて、健太は改めて沙也夏の本気度を知った。彼女は、
健太への想いにすべてを賭けていた。それでも、健太の心は動かなか
った。いや、動かないようにしていた。
「谷川さん。忘れられない人、それはあなたですよね。谷川さんがど
うするかは知りませんが、これだけは言っておきます。沙也夏さんは
本気です。あなたに人生を賭けていると思います。僕が言いたかった
のは、それだけです。それじゃ、失礼します」
高井は、軽く頭を下げると、静かに店の中へと戻っていった。
健太は、その背中を見送りながら、心の奥に、静かな波紋が広がっ
ていくのを感じていた。
沙也夏の想い。高井の潔さ。そして、自分の迷い。
車のドアノブに再び手をかけながら、健太は深く息を吐いた。




