5.コンビニ業界
健太は、課長に呼ばれた瞬間から、胸の奥に重く沈むような不安
を感じていた。過去の記憶がよみがえる。
あの時も、「最近の頑張りを評価している」と言われた直後に、
別の担当先への異動を言い渡されたのだった。たまたまその時の担
当先がうまくいったから良かったものの、今回はどうだろうか。
そんな疑念が頭をかすめる。
会議室のドアをくぐると、空気が少し冷たく感じられた。課長の
笑顔が、どこか作られたものに見える。
「谷川君、君の最近の働きぶりは目を見張るものがあるよ。売上も
常にトップだ。社長も褒めておられたぞ」
それは、まるで何かを切り出す前の前置きのように聞こえた。
褒められるのは確かに嬉しい。だが、喜びの感情の奥に、押し込
めようとしていた疑念が顔を出す。順調に見える成果が、突然の異
動という形で報われるのではないかという、不安と不信。これまで
積み上げてきた信頼関係や仕事の流れが、何の前触れもなく断ち切
られてしまうのではという恐れが、喉の奥を冷たく締めつける。
健太は自分の表情がこわばるのを感じながら、課長の次の言葉を
待った。
「そこで、その実力を見込んでのことなんだが……」
その瞬間、課長の声に合わせて、健太の胸の中に静かだが確かな
波が広がった。以前の担当替えの経験が、まるで過去の影のように
彼の内面に甦り、自分の成功が裏目に出るのではないかという不安
が、押し寄せるのを感じた。
課長は一瞬、様子をうかがうかのように目を細め、やや緊張した
面持ちになった。それは、ただの評価以上の意味を含む、何か重大
な転機を予感させるものだった。
「実は、先日幹部会議があってな。会社としての営業方針に変更が
あった」
健太は、心臓の鼓動が一層早くなるのを感じながら、無意識に手
を軽く握りしめた。過去に感じた不意打ちのような感覚が、今もま
た胸の奥でくすぶっていた。
「変更……というと?」
課長は、ほんの一瞬の間を置いて、続けた。
「我社もついにコンビニエンスストアと取引することになった」
その言葉と同時に、健太の内面は緊張感と同時に新たな期待にも
揺らいだ。しかし、心の奥底では、この大きな方針転換が自分にど
のような意味をもたらすのか、また過去の影は再び迫ってくるので
はないかという複雑な思いで、彼の体が硬直するのを感じた。
課長の話は、さらなる詳細へと展開していこうとしていたが、そ
の裏に潜む意図やこれからの変化に対する健太の心情は、以前の成
功と失望の狭間で激しく揺れ動いていた。
「コンビニ業界と取引するというのは、多少のリスクを伴うこと、
君も十分に理解していると思う。これまでの我が社は、そのリスク
を回避するために、個人商店やスーパーの代理店との取引を手厚く
増やしてきた。君が毎日、新たな店舗を獲得しようと必死に努力し
てくれていることには、私も心から感謝している。しかし、たとえ
個人商店との取引を強化しても、またはスーパーの弁当の販売数を
押し上げても、コンビニ市場の規模に及ぶことは到底困難だ。理由
は至って明快だ。コンビニ業界は、24時間3便体制で動いており、
スーパーの納品が1日1回に対して、明らかに3倍のスピードで稼
働している。これほどの差がある以上、従来の戦略では太刀打ちで
きないことは自明だ。
そこで、我が社も何とかこのコンビニ業界に食い込むべく、密かに
水面下で日々交渉を進めてきた。そして、ようやくその光明が見え
てきた。3日前、ベンダーとの間で重要な合意に達することができ、
さらに当該のコンビニエンスストア側からも了解を得ているのだ」
そこで、課長は一息つくように灰皿を引き寄せ、静かに煙草に火
をつけた。灰がゆっくりと落ちるその間、その表情には些細な緊張
と覚悟が同居しているように見えた。
「いよいよ、我が会社もコンビニ業界に進出することになるんだ」
と、課長は煙の中に現れるかすかな微笑みを浮かべながら言葉をは
じめた。
「ただし、我が社がコンビニと直接取引できないため、今回はベン
ダーとの連携が必須になる」
健太は課長の話を聞きながら、内心で記憶と期待、不安が交錯す
るのを感じていた。彼の頭の中には、これまでの取引先との安定し
た関係と、今回の新たな挑戦による業界全体のダイナミズムがせめ
ぎ合っていた。
「ベンダーとは、実際に惣菜を製造している会社。また、コンビニ
業界は『共同購入』という形を取る。共同購入とは、ベンダーが弁
当を製造するための材料を一括して仕入れ、効率とコスト削減を狙
う仕組みだ」と、課長の声は次第に現実の厳しさを帯び、重みが増
していった。
その瞬間、健太は胸の内に新たな焦燥感とともに、未知に足を踏
み入れる期待も同時に感じ取った。彼の目線は、一瞬だけ遠くの未
来を映すように揺れ、過去の経験と今後の可能性が入り混じる複雑
な感情を露わにしていた。
その中に当然、容器の取引も含まれている。したがって、健太の
会社もこの共同購入というシステムに組み込まれる運命にある。
だが、ここで気になるのは実際の営業の在り方だ。本来、コンビ
ニと取引する場合、従来の「営業らしい仕事」は事実上なくなると
言っても過言ではない。コンビニの親会社がその営業活動を一手に
担うのだ。例えば、まずは使われずに眠っている土地や、活用され
ていない土地を見つけ出し、新規出店のための場所を確保する。
そして、店が完成すれば、様々なサービスやセールの企画で集客
を図る。さらに、時期を見計らって商品の入れ替えも行うなど、親
会社が行う一連の営業活動は、今までの営業が担ってきたすべての
役割を包括する。
健太は、これまで自らが足掻いてきた現場感覚とは全く異なる、
新たなビジネスの形に胸の高鳴りと些細な不安を覚えずにはいられ
なかった。自分が築き上げた日々の努力が、システムの一部として
組み込まれる運命にあるとは、どこか遠く、しかし逃れられぬ現実
であるように感じられた。これまでの「営業」という概念が、完全
に作り変えられる未来を、彼は内心で重く捉えていた。
これらの業務は、ストアのオーナーや従業員だけでは到底こなせ
ない。なぜなら、彼らはあくまで素人であり、複雑な営業戦略や迅
速な対応が求められる現場には慣れていないからだ。そこで、親会
社からは各店舗に専任の社員が派遣され、直接アドバイスやサポー
トを行う。いわば、その社員こそが、本来の意味での営業マンとし
ての役割を果たすのだ。
なお、ベンダー側も直接営業活動を行うことはない。一般には、
営業活動をしなくても売上が上がれば楽だと思われるが、実際は話
は別だ。クレームが発生した場合、その原因の追及は非常に厳しく
行われる。つまり、その結果にも責任が伴うという厳しい現実が存
在する。
クレームの中で、比率的に最も多いのが髪の毛混入の件だ。
この「髪の毛」という要素は、その混入が発生した工程が判別し
にくいため、原因究明が非常に困難である。弁当の製造過程で混入
したのか、あるいは容器の製造過程で発生したのか、判断がつかな
いため、たいていの場合、弁当の底から見つかった髪の毛は容器会
社側の責任とされる。
容器会社の側に責任が及ぶと決まれば、反論するための確固たる
証拠も無い。人間が関わる以上、全くミスがないというのはありえ
ない現実がある。したがって、容器会社はやむを得ず、その責任を
受け入れるしかない状況に追い込まれるのだ。
さらに、コンビニ側の要求は並外れて厳しい。ベンダーが「こん
な容器を作ってほしい」と一方的に指示すれば、できる限りその通
りに作るほかない。これまで健太が、栄養士と意見を交換しながら
容器の企画に携わっていた余地は、もはやどこにもなくなってしま
った。自分の考えが反映される隙間すら認められず、結局は、ただ
言われた通りに実行するのみという構図だ。
つまり、コンビニと取引する以上、交渉や対等さという概念は消
え去り、神様や仏様にすら引けを取る、“コンビニエンスストア様”
の絶対的な支配下に置かれてしまうのだ。
健太もまた、弁当容器業界に長年身を置いてきた先人として、コ
ンビニと取引する際の数々の困難を十分に理解していた。ここ2年
間、個人商店との取引に固執してきたのは、その理由のひとつでも
ある。確かに、ベンダーとの取引に舵を切れば、経営者にとっては
売上が飛躍的に伸びるという、まさに「おいしい話」であった。
しかし、営業マンにとっては、まるで火の粉が降り注ぐようなリ
スクが伴うものだ。現状、健太の会社はその危険な炎の中にあえて
飛び込もうとしている。もちろん、最終的な結果はベンダー担当者
の力量にも左右されるが……