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彼方からの風  作者: 杉本敬
第4章
49/53

49.迷い

 波照間島に台風が近づいていた。一昨日から降り続く雨は、島の

空気を重く湿らせていた。風はまだ本格的ではないが、空は灰色に

染まり、遠くの海も荒れ始めている。

 【みーふぁいゆー】に宿泊していた客たちは、早々に島を離れた。

 飛行機の便が欠航になる前にと、皆慌ただしく荷物をまとめてい

た。宿は臨時休業となり、健太も自室に閉じこもっていた。


 部屋の窓には雨粒が静かに打ちつけられている。

 健太は、机の上に置かれた一枚のメモ紙をじっと見つめていた。

 そこには、電話番号とメールアドレスが書かれている。

 沙也夏から渡されたものだった。


 あの日、沙也夏から思いがけない言葉を受け取った。それ以降、

ふたりは会っていない。沙也夏が島を離れる日も、健太は送って行

かなかった。無理を言って、里桜に代わってもらった。里桜は怪訝

な顔をしていたが、何も言わなかった。

 その沈黙が、健太にはありがたかった。


 健太の中では、沙也夏に対する気持ちは「ほぼ」決まっていた。

 断るつもりだった。けれど、「ほぼ」という言葉が示すように、

完全ではなかった。心の奥に、わずかに残る残り火――それが、健

太を迷わせていた。


 電話をかけるべきか。メールにするべきか。それとも、何もせず

にこのまま終わらせるべきか。さっさと返事をすれば、楽になれる。

 けれど、後悔するのではないか――そんな思いも、健太の胸にあ

った。


 断ろうと思った理由は、はっきりしている。一番大きいのは、仕

事だった。健太は今、アルバイトの身だ。将来の見通しも立ってい

ない。そんな自分が、沙也夏の気持ちを受け止められるのか。

 ふたりとも、もう30代だ。若い頃のように、ただ「好きだから」

で付き合える年齢ではない。

 やり直すなら、その先――結婚や生活――も視野に入れなければ

ならない。


 しかし、健太には仕事に対するビジョンが見えてこない。この中

途半端な状態で、沙也夏と向き合うことなどできない。そう思って

いた。

 雨音が、窓を叩いている。その音が、健太の迷いを際立たせるよ

うだった。メモ紙の文字は、にじむことなく、はっきりとそこにあ

る。沙也夏の筆跡は、どこか力強く、そして少しだけ揺れていた。


 健太が、あーでもない、こーでもないと頭を抱えて悩んでいると、

静かな部屋に、コンコンとドアをノックする音が響いた。

「はい」

 健太が返事をすると、外からとみさんの声が聞こえてきた。

「健太、お客さん」

「え、客?」

 健太は思わず眉をひそめた。

『この天気の中、誰が?』と首をかしげる。


「勝と海里が、あんたに話があるみたいだよぉ。通していいかい?」

「ふたり揃って……何だろ?あ、いいよ」

 健太は立ち上がり、ドアへ向かった。

 扉を開けると、廊下の向こうから勝と海里がとみさんと挨拶を交

わしながら、こちらへ向かってくるのが見えた。

 勝は「よお」と言って、片手を軽く挙げた。海里はぺこりと丁寧

に頭を下げた。


 健太はふたりを部屋に招き入れ、座るように促した。

「悪いね。突然来て」

 勝が言うと、海里も続けて微笑んだ。

「谷川さん、お久しぶりです」

 健太は、海里の笑顔に目を留めた。

 以前のような沈んだ表情ではなく、穏やかで柔らかな笑みだった。

 それだけで、健太は少しほっとした。


「久しぶりだね。元気そうでよかった」

 言葉を交わしていると、とみさんがさんぴん茶を盆に載せて持っ

てきてくれた。

 勝と海里は恐縮したように頭を下げた。

 部屋には、雨音が遠くから聞こえていた。窓の外では、風が少し

ずつ強まり始めている。台風の接近を知らせるように、空はどんよ

りと重く沈んでいた。


「どうしたんですか?今日はふたりで」

 健太は、グラスのさんぴん茶の氷が揺れるのを見つめながら、勝

と海里に問いかけた。

 外では台風の雨が窓を叩いていたが、部屋の中は静かで、どこか

緊張した空気が漂っていた。

「うん。報告があってね」

 勝は、茶碗を手にしながら、少し照れくさそうに笑った。


「委託販売していた作品が売れたらしくて」

「それはそれは。よかったですね」

 健太は、素直に喜びの言葉を返した。

「まさか、売れるとはね。それで他の作品も、と言われたんで……

担当の須藤さんだっけ、その人に依頼することにしたよ」

 沙也夏の名前が勝の口から出た瞬間、健太の胸が一瞬跳ねた。

 あの日以来、彼女の名前を聞くたびに、心がざわつく。


「それを言うために、わざわざ来たんですか?」

 健太は、少し声を低くして尋ねた。

「うーん。実は……」

 勝は言いよどみ、視線をさんぴん茶の表面に落とした。

 その沈黙を破ったのは、海里だった。

「今日来たのは、須藤さんのことです」

「おい、海里。おまえは言わなくていい」

 勝が慌ててたしなめる。

「だってニィニィ、言いにくそうだから」


 勝は、意を決したように口を開いた。

「実は、里桜ちゃんから頼まれたんだよ。健ちゃんの様子が近ごろ

おかしいから、様子を見てきてほしいって」

 健太は、驚いたように眉を上げた。

「里桜ちゃんが?」

「それで、どういうことかって聞いたらさ。宿泊しているお客さん

と、過去何かあったんじゃないかって言うんだ。そのお客さんと接

する健ちゃんは、妙によそよそしかったりしてるってな」


 健太は、深く息を吐いた。

「ふうー……さすがに里桜ちゃんは客商売してるだけあって、鋭い

な」

 勝は、健太の言葉をじっと待っていた。その沈黙の中で、健太は

ゆっくりと頷いた。


「ということは、認めるってこと?」

「ええ。里桜ちゃんに感づかれているのなら、正直に言うしかない

ですね。彼女は元カノで、前につきあってました。別れた後も忘れ

られず、ずっと引きずってました。波照間島に来て、ようやく区切

りをつけられるような気持ちになりました。そうしたら、彼女が現

れた。正直、びっくりしたし、戸惑いました」


 勝は、健太の言葉を静かに聞いていた。そして、茶碗を置くと、

海里の方へ顔を向けた。

「やはりそうか。ここからは海里にバトンタッチしたほうがよさそ

うだな」

 海里は、兄の視線を受けて、静かに頷いた。

 そして、健太に向き直り、少し緊張した面持ちで話し始めた。


「須藤さんとは、ニシハマで話しました」

 健太は、思わず目を見開いた。

「え……海里ちゃん、彼女と話したことがあるの?」

「谷川さん、須藤さんが朝早く出かけている日がありませんでした?」

 健太は、記憶をたどるように目を細めた。

「ん?あ、そういえばスーツ姿で出かけた日があったらしいね。俺

は見てないけど、里桜ちゃんがそう言ってた」


「やっぱり。須藤さんは、朝早くニシハマに来ていました」

「ニシハマに?仕事じゃなかったのか」

「そのへんはわかりませんけど……私がいつものように早朝ウォー

キングしていたら、ニシハマのベンチの前に、ひとりの女性が立っ

ているのが見えました。須藤さんでした。全然知らない人ではなか

ったので、声をかけました」

 健太は、静かに耳を傾けていた。

 海里の語り口は、丁寧で、どこか沙也夏への配慮が感じられた。

「ふたりでベンチに座って、初めは波照間のことをいろいろ話しま

した。島の空気とか、朝の海の色とか……須藤さんは、静かに聞い

てくれて、時々うなずいていました」

 そこまで話すと、海里はさんぴん茶に手を伸ばし、ひと口飲んだ。


「そのうちに恋バナの話になっちゃって」

 海里は、さんぴん茶の氷を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。

「私も話の流れで、つい谷川さんの話をしてしまいました。谷川さ

んに交際を申し込んだこと、その結果うまくいかなかったこと……」

 健太は、少しだけ目を伏せた。


 その話を海里が沙也夏にしたことに驚きはあったが、責める気持

ちはなかった。むしろ、海里が素直に話してくれたことに、どこか

救われる思いがあった。

「須藤さんは、びっくりしていました。でも、それがきっかけで、

須藤さんも谷川さんとのことを話してくれました。そして、波照間

に訪れたほんとのわけを教えてくれて……悩んでいる様子でした」

 海里の声は、どこか切なげだった。


「自分の想いを谷川さんに打ち明けるのが正しいことなのか。何も

話さずに帰ったほうがいいのではと。でも私は言いました。同じ後

悔をするのなら、自分の気持ちを告げて後悔したほうがいいって」

 健太は、静かに息を吐いた。

「そうか……それほど悩んでいたのか。でも、彼女とはもう終わって

いる」

「須藤さんからは言われたんでしょ?」

「うん。想いを告げられた。びっくりしたし、何で今さらという気

持ちもあり、一度は断った。しかし彼女は、考えてくれと……」

「さすが須藤さん。簡単にはあきらめなかったのね」


 健太は、海里の話を聞きながら、沙也夏がどれほどの覚悟で波照

間に来たのかを思った。ただの偶然ではない。彼女は、自分の気持

ちに向き合うために、ここまで来たのだ。

 海里は、健太の目を見つめながら、静かに言葉を続けた。

「谷川さん。谷川さんには、須藤さんとの“第二章”を考えてほしいで

す。私も、須藤さんに谷川さんのことを話したら、区切りがつきまし

た。須藤さんは、素晴らしい女性だと思います。話してみて、それが

わかりました」

「第二章……」


 健太は、その言葉を繰り返した。胸の奥に、何かが静かに響いた。

 それまで黙って話を聞いていた勝が、口を開いた。

「美里の言うとおりだと思う。俺は委託販売でのつきあいしかない

が、仕事は熱心だ。俺が委託販売を断っても、粘り強く交渉してく

る。全然しつこいって感じじゃなくて、俺の不安な点をひとつひと

つ解消してくれる。そうすると、俺も“まかせてみようかな”って思

うようになるんだよな」


 健太は、勝の言葉に耳を傾けながら、沙也夏の仕事ぶりを思い出

していた。確かに、彼女は昔から誠実で、粘り強く、そして人の気

持ちに寄り添う力があった。

「まだ返事はしてないんだよな?」

「ええ。決めかねてます」

「まあ、最後に決めるのは健ちゃんだ。俺たちは言うべきことは言っ

た」

 勝と海里は、沙也夏のことを素直に評価していた。ふたりの言葉に

は、押しつけがましさはなく、ただ健太の背中をそっと押すような優

しさがあった。


 それでも、健太の心は決まりきらなかった。ふたりの言葉を聞いて

も、答えはまだ出せなかった。窓の外では、台風の雨が静かに降り続

いていた。その音が、健太の迷いを包み込むように、部屋の空気を満

たしていた。

“第二章”――その言葉が、健太の胸の奥で、ゆっくりと響き続けてい

た。

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