48.本当の気持ち
宿に戻ると、沙也夏は「今日はありがとう」と小さく頭を下げ、
静かに部屋へと戻っていった。
その背中を見送りながら、健太はすぐに女将さんを探した。
売店の方から客と話す声が聞こえたので、そちらへ向かう。
店内には里桜の姿はなく、女将さんがひとりで接客をしていた。
健太は、客の応対が終わるのを待ち、そっと声をかけた。
「女将さん。ちょっと話があるんですが」
「うん。何?」
女将さんは、レジの奥から顔を上げた。
「今日案内したお客さんから、ニシハマ以外のビーチに行きたいと
言われたんですが。明日だけ、里桜ちゃんに送迎のほう代わっても
らってもいいでしょうか?」
健太がそう言うと、女将さんは少しだけ目を細めて、意外なこと
を口にした。
「あんた、休んでないでしょ。明日休みなさい」
「え、いや仕事があるし……休むわけには」
「……あのお客さん。須藤沙也夏さんと知り合いなんでしょ」
その言葉に、健太は思わず言葉を失った。
唖然としたまま、女将さんの顔を見つめる。
「ご存知でしたか……」
「そりゃ、わかるさぁ。なーんか妙によそよそしいしさぁ。見てて
一目瞭然だねぇ。もしかして……いや、深くは聞かないほうがいいね
ぇ」
女将さんは、にやりと笑った。その笑みは、すべてを見透かして
いるようで、けれどどこか温かかった。健太は、苦笑いを浮かべた。
――ばればれだったか。
「じゃ、休み取らせてもらってもいいんですか?」
「いいよ。里桜ちゃんには私が言っとくから。明日、ゆっくり案内し
て差し上げなさい」
「すいません。では、お言葉に甘えます」
健太は深く頭を下げた。
そして、その足で客室棟へと向かった。沙也夏に、明日のことを
伝えるためだ。
廊下を歩きながら、ふと考えた。
――ひょっとして、里桜ちゃんも俺と沙也夏のことを、何か感じ取
っていたのかもしれない。
――それで、今日の案内を自分に任せたのかも。
やがて沙也夏の泊まっている部屋の前に着くと、健太は静かにノックをした。
すぐに返事が返ってきた。
「はい」
「宿の者ですが」
「今、空けます」
ドアが開くと、沙也夏が「あらっ」と驚いたような表情を浮かべ
た。
「明日、行けることになった」
健太は、短くそう告げた。
「良かった。実を言うと、ひとりでは不安だったから」
沙也夏は、少しだけ安堵の色を浮かべた。
その表情は、どこか柔らかく、健太の胸に静かに響いた。
「それで、明日は動きやすい格好がいいんだけど」
「あ、大丈夫。こんなこともあろうかと思って、ジーンズとポロシ
ャツを持ってきたから」
「さすが、準備がいい」
健太は、思わず笑みをこぼした。
沙也夏のこういうところは、昔から変わらない。
「じゃ、明日は少し早いけど、朝9時にベンチの前で待っといて。
それと、移動は自転車にしようと思うんだけど。レンタルサイクル
はこっちで手続きしておくから」
「うん。分かった。では明日、よろしくお願いします」
沙也夏は、静かに微笑んだ。
その笑顔は、どこか懐かしく、そして少しだけ新鮮だった。
健太は軽く会釈をして、廊下を後にした。
部屋のドアが静かに閉まる音が、背中越しに聞こえた。
――明日、ふたりで島を巡る。
それは、観光という名のもとに始まる、静かな再会の旅だった。
翌朝、健太はいつもの売店前のベンチに立っていた。
目の前には、並んで停められた2台の電動自転車。どちらも昨日
のうちに整備を済ませ、空気圧も確認してある。
ふと空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。まるで
絵に描いたような、澄みきった空。これなら、海もひときわ美しく
見えるだろう。
健太は、朝の光を浴びながら思った。
『沙也夏は明後日帰るんだったな。ふたりで会うのは今日が最後だ
ろうな。最後に、お気に入りのビーチに案内できるのは良かった』
今日案内するのは、佐藤から教えてもらった“秘密のビーチ”。
以前、宿泊客から散骨の相談を受けて案内したことがある、静か
で人の少ない場所だ。
けれど、波の音と風の匂いが、心を静かに整えてくれるような場
所だった。
そのとき、軽やかな靴音が近づいてきた。健太が音のする方を振
り向くと、沙也夏の姿があった。ジーンズにポロシャツ、そして小
さなリュックを背負っている。昨日のワンピース姿とは違い、どこ
か旅人らしい雰囲気だった。
「おはよう」
「おはよう」
ふたりは、自然に挨拶を交わした。
その声は、どこか柔らかく、朝の空気に溶け込んでいった。
「自転車はこれなのね」
沙也夏は、並んだ2台の自転車を見て言った。
「うん。これ、実は電動自転車なんだよ」
「そうなんだ。じゃ、楽ね。でも私、電動自転車は初めてなんだけ
ど」
「大丈夫だよ。普通の自転車に、電動に切り替わるスイッチがある
だけだから」
健太は、自転車のハンドルに手を添えながら、切り替えスイッチ
の位置と使い方を丁寧に説明した。沙也夏は、健太の言うとおりに
操作してみると、すぐにコツをつかんだようで、安心した表情を見
せた。
「じゃ、行こうか」
「うん」
ふたりは、それぞれの自転車にまたがり、ペダルを踏み出した。
朝の光が、舗装された道に斜めに差し込み、影を長く伸ばしてい
た。風はまだ穏やかで、島の一日が静かに始まろうとしていた。
今日という日が、ふたりにとってどんな一日になるのか。健太は、
胸の奥に小さな期待と、名残惜しさを抱えながら、ハンドルを握っ
た。
健太は、いつもどおりニシハマから南へと自転車を走らせた。
目指すは、ハマシタン群落――島の人でも知る人は少ない、静か
な場所だった。舗装された道が少しずつ細くなり、やがて砂利道へ
と変わっていく。
健太は時折、後ろを振り返った。沙也夏は、少し距離を保ちなが
らも、しっかりとついて来ていた。ペダルを踏む姿は軽やかで、風
に揺れるポロシャツが陽射しに映えていた。
やがて、ハマシタン群落の入口に到着した。そこには、手作りの
木製看板が立っていて、「浜シタン」と墨で書かれていた。
健太は、自転車を看板脇に停めた。
沙也夏も、健太の動きに合わせて自転車を降りた。
「ここを歩いて行くの?」
沙也夏は、目の前に広がる未舗装の小道を見て、驚いたように言
った。
それも無理はない。ニシハマのように、道沿いにビーチが広がっ
ているわけではない。ここは、鬱蒼とした木々の間を抜けていく。
しかも、周囲には20本を超える浜シタンの木々が、幹をくねら
せながら群生していた。その姿は、まるで島の奥深くへと誘う門の
ようだった。
「ここはひとりでは絶対無理ね。場所が分かりにくいし、もし分か
ったとしても、この先にビーチがあるとは思えない」
沙也夏は、木々の間に続く小道を見つめながら、そう言った。
「だから、ひとりじゃ無理って言ったんだよ」
健太は、少し笑いながら答えた。
沙也夏は、大きく頷いた。その表情には、驚きと同時に、どこか
安心の色が浮かんでいた。
風が、木々の間をすり抜けていく。葉がざわめき、陽射しが斑に
差し込む。ふたりは、静かにその小道へと足を踏み入れた。
ふたりは、ハマシタンの樹木を横目に、ゆっくりと小道を進んで
いった。木々の幹は太く、複雑に絡み合いながら空へと伸びていた。
その姿は、まるで島の記憶を抱えているかのようだった。途中、
沙也夏は立ち止まり、幹の曲線に目を奪われていた。
「この木、すごい……まるでオブジェみたい」
感嘆の声が、木漏れ日の中に溶けていく。
やがて、波音が遠くから聞こえてきた。それは、木々のざわめき
とは違う、広がりのある音だった。視界が少しずつ開けていき、青
い海がその姿を現した。
その瞬間、沙也夏は急に走り出した。健太はその後ろ姿を見て、
思わず笑みをこぼした。
ここは、実際にはニシハマと地続きになっている。
けれど、観光客がほとんど来ないため、目の前に広がる海がまる
で自分だけのもののように感じられる。木々のトンネルを抜けた先
に、突然海が飛び込んでくる――そんな感覚が、この場所の特別さ
を際立たせていた。
「きれーい!なんて美しいの!」
沙也夏は両腕を広げ、潮風を胸いっぱいに吸い込んでいた。
その姿は、まるで海とひとつになろうとしているようだった。
「よく見つけたね。こんなきれいなビーチ」
沙也夏は、振り返って健太に尋ねた。
「先輩に教えられたんだよ。俺はここを“秘密のビーチ”って呼んで
る」
「秘密のビーチか……でもニシハマよりきれいなんじゃない?」
「いや、ここはニシハマとつながってるんだ。ニシハマから歩いて
来れるけど、砂浜をずっと歩かないといけないから大変なんだ。足
もけっこうとられるしね」
「そうなのね。でも、ここのほうがきれいに見える」
「ニシハマに比べて、ここは観光客がほとんど来ないし、自然のま
ま残ってるからだと思う。ただ、デメリットもある。木陰がほとん
どないし、ニシハマみたいな設備もない。だから、長時間いるとか
なり暑いよ」
健太がそう言うと、沙也夏はまわりを見渡した。
木々の境界線の向こうに広がる砂浜と、どこまでも続く青い海。
そしてまた、静かに海に視線を戻した。
健太は、波の音に包まれながら、沙也夏の後ろ姿をじっと見つめ
ていた。陽光を浴びた彼女の黒髪は、まるで海面のきらめきのよう
に輝いていた。風が吹くたびに髪が揺れ、白い波と空の青がその輪
郭をやさしく縁取っていた。
『この姿も、今日で見納めだな』
健太は、心の中で静かに呟いた。
――早く波照間からいなくなってほしい。
そう思うのは、未練を断ち切るため。そして、沙也夏には幸せに
なってほしいという願いからだった。
家庭の事情で、好きでもない男と結婚し、結果的には離婚して、
きっとつらい思いをしたのだろう。もし、あの高井という男性が想
いを寄せているのなら、その気持ちを受け取って、前に進んでほし
い――そう願っていた。
けれど、目の前にいる沙也夏の姿を見ていると、健太の胸の奥に、
どうしようもない衝動が湧き上がってくる。今すぐにでも、彼女を
抱きしめたくなる。その肩に手を置いて、何も言わずに、ただそば
にいたくなる。
だが、健太は分かっていた。それはしてはいけないことだ。
沙也夏は、もう過去の人。自分の中で、そう決めたはずだった。
――さあ、そろそろ帰るか。
そう思い、声をかけようとしたその瞬間、沙也夏がふいに振り返
った。そして、まっすぐに健太を見つめた。その視線に、健太は思
わずたじろいだ。まるで、心の奥を見透かされたような気がした。
沙也夏の瞳は、静かで、けれど何かを伝えようとしているようだ
った。言葉はなかった。けれど、その一瞬の視線の交差に、ふたり
の間に流れる時間が、ふと止まったように感じられた。
「ごめん。約束を破るけどいい?」
沙也夏の声は、風の音に溶けるように静かだった。
「約束?」
健太は、少し身を引きながら聞き返した。
「お客さんと宿のスタッフとして接するということ」
その言葉に、健太は一瞬言葉を失った。拒まなければならない。
そう思った。けれど、沙也夏の視線がまっすぐに健太を射抜いた。
その瞳には、迷いも、ためらいもなかった。
「私が波照間島に来たのは、仕事、そして、あなたに会うため。自
分の気持ちに、区切りをつけるため」
沙也夏は、そこまで言うと、一呼吸置いた。
健太は、ニシハマでの再会が区切りだったのではないかと思った。
けれど、彼女の次の言葉を待った。
「私は、いつかあなたに謝らなければいけないと思っていた。結婚
が決まっていたのに、あなたのことが好きになってしまった。騙す
ように、あなたと付き合っていた。そして、土壇場であなたを深く
傷つけた。謝らなければ、次にはいけない。それが終われば、前に
進めると思っていた……」
沙也夏の声は、少し震えていた。
けれど、その言葉はひとつひとつ、健太の胸に深く届いていた。
「ニシハマで、あの歌を聞いた時、これがあなたの今の気持ちなん
だなと思った。そして、あなたの心には私はいないんだと。もう会
ってはいけないと思った。でも、だめだった。あなたの歌声が、私
の心から消えないの。仕事をしていても、家に帰っても、気がつく
と、あなたの歌声が響いているの」
健太は、静かに言った。
「しかし、きみとはもう……」
「私も、何度も何度もそう思おうとした。次のステップに進むべき
だと。でも、歌声が……初めて歌声を聞いた時から、あなたは、私
の心に住み着いていたのよ」
「歌声……」
健太は、その言葉を繰り返した。それは、彼自身が大切にしてき
たもの。そして、彼女との記憶のすべてを繋ぐものだった。
「健ちゃん。もう一度やり直したい。私にチャンスを与えてほしい。
健ちゃんと一緒に、これからの人生を歩んでいきたい」
沙也夏は、まっすぐに健太を見つめていた。その瞳には、過去の
痛みも、未来への願いも、すべてが込められていた。
健太は、沙也夏の言葉を聞いて、唖然とした。胸の奥から、抑え
きれない感情が込み上げてくる。
『なんで今さら……』
その思いが、言葉になるよりも早く、心を満たしていた。
「なんでだよ!なんで今そういうことになるんだよ!」
声は、思わず荒くなった。
「俺は沙也夏のことに区切りをつけようと思って、あの曲を作った。
沙也夏と別れた時、苦しんだ。それを忘れるために、仕事に没頭し
た。結局、仕事はうまくいかなかった。会社を辞めて、酒浸りの日
々……それでも沙也夏の影が現れる。忘れなければ、今の状況を打
破しなければと思って、やっと今、立ち直ろうとしている。それな
のに、なぜ……」
健太は、怒りにまかせて言葉を吐き出した。こんなことを言うつ
もりはなかった。けれど、心の奥に溜まっていたものが、堰を切っ
たように溢れ出た。
沙也夏は、静かに言った。
「やっと怒ってくれた」
「え?」
「私が別れを告げた時、健ちゃんは怒らなかった。それが不思議だ
った。あんなひどい仕打ちをしたのに、なぜこの人は怒らないんだ
ろうって。再会した時もそう」
健太は、言葉を失った。
「今日ここで言おうと思った時、健ちゃんは怒るかもしれないって、
想像していた。怒ってくれて、今ほっとしている。それが自然だも
の」
健太が大声をあげても、沙也夏はうろたえることなく、まっすぐ
に彼を見ていた。その姿が、健太には不思議に思えた。以前とは違
う。何かが変わっている。
「私も、別れて結婚をして、離婚した。苦しかったし、後悔した。
だからもう、後悔しない人生を歩もうと思った。仕事は、運がいい
ことに復帰することができた。あとは、健ちゃんとのことだけ。健
ちゃん、せっかくの気持ちに水をかけるようなことして申し訳ない
けど、考えてくれる余地はない?」
健太は、沙也夏から視線を外し、青い海を見た。遠くに、地平線
が見える。風が頬を撫でていく。
「本気なのか」
「いつまでも待ちます。今度は、歌ではなく、はっきりと言葉で伝
えてほしい」
そのとき、沙也夏の頬に、一滴の涙が光った。それは、陽光に照
らされて、まるで海のしずくのようだった。
健太は、その涙を見て、沙也夏が本気なのだと感じた。これは、
即答できることではない。簡単に答えを出していいことではない。
「……わかったよ」
健太は、かろうじてそう言った。声は震えていた。
まさか今日、こんなことが起こるとは思いもよらなかった。




