表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼方からの風  作者: 杉本敬
第4章
46/53

46.海里の告白


 臨時の休みをもらった翌日、健太はいつもどおりに仕事をこなし

ていた。朝の空気は澄んでいて、波照間島の太陽はゆっくりと昇っ

ていた。庭に咲くハイビスカスが、風に揺れている。


 一昨日の夜、沙也夏と思わぬ再会を果たした。

 そして、自分の気持ちを歌に託して伝えた。言葉ではなく、音と

旋律で。それは、沙也夏にもきっと届いた。

 しかし昨日は、さすがに気分が落ち込んだ。

 何もする気が起きず、縁側に座ってギターをつま弾いたり、ただ

ぼんやりと空を眺めていた。潮の香りが風に乗って漂い、時間が止

まったような一日だった。

『休みを取って正解だったな』と健太は思った。

 とみさんは、そんな健太の様子を見て、少し怪訝な表情を浮かべ

ていたが、何も言わなかった。その沈黙が、むしろありがたかった。


 そして今日。

 健太は、いつものように掃除をし、観光客の朝食を運び、業務を

粛々とこなした。

 身体を動かしていると、少しずつ気持ちが整っていくのを感じた。

 沙也夏のことは、もう引きずっていなかった。いや、正確には、

引きずらないようにしていた。


『沙也夏には、連れの男がいる。彼は沙也夏に交際を申し込んでい

るらしい。沙也夏は俺と会い、謝ったことで区切りがついたはずだ。

これで交際を受けるだろう。それが一番いいんだ』

 健太は、昨日そういう結論に達した。

 それは、自分を納得させるための言葉でもあった。

 彼女が幸せになるなら、それでいい。そう思おうとしていた。


 それから一週間が過ぎた。

 健太は、波照間島の空気にすっかり馴染んでいた。

 今日は公休日。朝から雲ひとつない快晴で、潮風が心地よく吹い

ていた。いつものように、海里のギターレッスンへ向かう。

 海里の指先は、以前よりもずっと滑らかに弦を押さえていた。

『もう一曲、ほぼ完璧に弾けるようになってるな』

 健太は、内心驚いていた。海里の上達には目を見張るものがあっ

た。そろそろ、教えるのを終わりにしてもいいかもしれない――そ

んな考えがふと頭をよぎる。


 レッスンを終えると、海里がギターを膝に置いたまま、笑顔を弾

けさせた。

「あ、ニイニイついに決断したみたい。作品の委託販売」

「……ああ、絵のことか」

 健太は少し間を置いて答えた。

「そう。でも全面的におまかせってわけじゃなくて、ひとつの作品

を試しに展示販売するって形みたい」

「そうか。でもいいよね。これで、波照間島に訪れる人以外にも見

てもらえるってことだから」

「うん!」

 海里は本当に嬉しそうだった。その笑顔は、島の陽射しよりも明

るく、健太の胸をあたためた。


 健太は、海里の笑顔を見ながら思った。

『沙也夏もホッとしているんだろうな。再会した時は、まだ勝さん

とは交渉中って言ってた。ということは、あの後もまだ波照間島に

いたんだろうか』

 その想像は、健太の胸に静かに広がった。

 彼女がこの島のどこかで、絵のことを考えながら過ごしていたの

かもしれない。それを思うと、少しだけ胸が締めつけられるような

気がした。


 レッスンの後は、恒例になった食事をご馳走になった。

 勝の手料理は、素朴で優しい味がした。食卓には笑い声が溢れ、

健太はその時間がとても好きだった。

 その後、海里の運転する軽自動車で帰途についた。

 車窓から見える海は、夕陽に染まり始めていた。


 やがて民宿に到着すると、健太は車から降りる前に、海里に言っ

た。

「美里ちゃん。ギターのほう、もうだいぶ上達したみたいだから、

あと一、二回でレッスンは終わりにしてもいいと思う」

 海里は、ハンドルに手を置いたまま、少しだけ目を伏せた。

「そうですか……」

 その声には、少しだけ寂しさが混ざっていた。しかし、それは成

長の証でもあった。


 海里は、どこか残念そうな表情を浮かべていた。そして、ふいに

真剣な顔つきになり、口を開いた。

「あのう……ひとつ質問してもいいですか?」

 その言葉は、いつもの海里の口調とは違っていた。

 急に丁寧になったことで、健太は少し身を乗り出した。

「うん。ギターのこと?」

「いえ、ギターのことじゃなくて……委託販売会社の担当者の方の

ことなんですけど」

「え?」

 健太は、思わず眉をひそめた。


「お知り合いなんですか?この前鉢合わせした時に、驚いたような

顔だったので」

 海里からの思わぬ質問に、健太は一瞬言葉を失った。

 あの夜の再会が、海里の目にも映っていたのだ。

 単なる昔の知り合いだと答えようかとも思った。けれど、ここで

曖昧にするのは違う。自分自身にけじめをつけるためにも、健太は

正直に答えることにした。


「うん、まあ……元カノだよ。もう前のことだけど」

 海里は、少しだけ目を見開いた。

 それでも、冷静にうなずいた。

「そういうことですか。じゃ、今は何もないんですね?」

「そうだよ。何もない」

 健太は断言した。その言葉には嘘はなかった。


 けれど、言い終えた瞬間、心の中に寂しい風が吹いた。

 それは、過去を完全に手放したことへの痛みだった。

 海里は、少し間を置いてから、さらに踏み込んできた。

「じゃ、今はフリーなんですね?つき合っている方はいないんです

ね?」

 健太は、思わず身構えた。こういう質問の後にくる言葉は、だい

たい相場が決まっている。告白か、それに近い感情の吐露か。

 車内の空気が、少しだけ張り詰めた。

 

 健太は、ゆっくりと息を吐いた。

「……そうだよ。今は誰ともつき合っていない」

 その言葉は、静かに車内に落ちた。

 海里は、ハンドルに手を置いたまま、何かを言おうとしていた。

 けれど、すぐには言葉が出てこなかった。

 車内の空気が、ふいに張り詰めた。健太は、助手席で身じろぎも

せずにその言葉を待っていた。


「あの……私じゃだめですか?」

 その言葉は、海里の声とは思えないほど静かで、けれど真っ直ぐ

だった。

 健太は、思わず顔を向けた。

「え、それは……」

 言葉が喉に詰まる。


 海里は、目を逸らさずに続けた。

「好きになってしまいました。健太さんのこと。レッスンを受ける

うちに、ただ“いいなぁ”って思う気持ちから、“そばにいたい”って

いう気持ちに変わっていったんです」

 健太は、何も言えなかった。

 その告白は、あまりにも真剣で、あまりにもまっすぐだった。

「考えてもらうことはできませんか?」

「いや、しかし……」

 健太は、言葉を探しながらも、心の中で何かが揺れていた。


「今は返事しないでほしいんです。一週間で返事くださいなんて言

いません。二週間でも、一ヶ月でも待ちます。お願いします」

 海里は、これ以上下がれないというほどに、深く頭を下げた。

 その姿は、まるで直球ストレートを投げ込んできた投手のようだ

った。迷いも、飾りもなかった。健太は、しばらく黙っていた。

 今は返事を求めないと言われた以上、何も言うことはできなかっ

た。

 けれど、無言で車を降りるのも不自然だと思い、思わず口をつい

て出た。

「……考えてみるよ」

 その言葉は、健太自身にも予想外だった。けれど、海里の真剣さ

に応えずにはいられなかった。


 健太は車を降り、ドアを静かに閉めた。

 海里の車がゆっくりと走り出し、角を曲がって見えなくなるまで、

健太はその背中を見送っていた。風が少しだけ吹き、健太の髪を揺

らした。空には、夕陽が残した淡い光が漂っていた。

『沙也夏のことに区切りをつけたと思ったら……今度は海里ちゃんか』

 健太は、心の中で静かに呟いた。それは、過去と未来の狭間に立つ

者の、小さなため息だった。


               *


 八月も終わりに近づき、【みーふぁいゆーみー】の夏休み期間中

の喧騒もようやく一段落した。とはいえ、九月に入ったからといっ

て、島の忙しさが消えるわけではない。

 沖縄にとって、九月はむしろベストシーズン。陽射しは少し柔ら

かくなり、海の透明度は増し、風は心地よくなる。八月ほどの混雑

はないが、観光客はまだ多い。


 だが、九月には厄介なものがある。――台風だ。この時期は、毎

年のように台風が発生する。そのたびに宿泊客は宿に缶詰状態とな

り、スタッフも対応に追われる。それでも、台風のリスクを承知で

来島する人は後を絶たない。それだけ、この島には人を惹きつける

何かがあるのだろう。


 健太は今日も一日を終え、とみさんと夕食を囲んでいた。

 島に吹く風は、少しずつ秋の気配を帯びてきている。

 とみさんは相変わらず、夜でも家の戸を開け放している。そのおか

げで、食卓に座っていても、風が頬を撫でていくのを感じられる。

「涼しくなったねぇ」

 とみさんがぽつりと呟いた。

 健太は、箸を動かしながらうなずいた。だが、その箸の動きはいつ

もより遅かった。


 海里から交際を申し込まれて、二週間が過ぎていた。

 レッスンも一応終了となり、彼女との距離は少しだけ変わった。

 そろそろ返事をしなくてはならない――健太はそう思っていた。

 海里の告白は、まっすぐで、真剣だった。

「今は返事をしないでほしい」と言われたが、時間は確実に流れて

いる。

 健太の心には、まだ沙也夏との再会の余韻が残っていた。

 それは、過去の痛みではなく、静かな記憶として。

 だが、海里の言葉は、未来に向けたものだった。


「悩み事かね?」

 とみさんが、箸を止めて健太の顔を覗き込んだ。

「え?」

 健太は、少し驚いたように顔を上げた。

「食べるのが遅いさぁ」

「あぁ……海里ちゃんのことを……」

 思わず、健太は胸の内を口にしてしまった。


「海里ちゃんがどうしたさぁ。あんた、この頃おかしいよ」

 とみさんの声は、いつもより少しだけ低かった。

 それは、健太の変化を見逃していなかった証だった。

「自分でもそう思う。こうなったら仕方ない。とみさんにも聞いて

もらおうかな」

「それがええ。自分で結論を出せない時は、人に話すことさぁ」


 健太は、箸を置いて、ゆっくりと話し始めた。

「実は海里ちゃんから……交際を申し込まれていて」

「へぇ~。あの島一番のマドンナからかね。健太はモテるんだねぇ」

 とみさんは、冗談めかして笑ったが、すぐに真顔に戻った。

「いやいや、そういうことではなくて……」

 健太は、海里とのギターレッスン、告白の夜、そしてその後の沈

黙を丁寧に語った。

 とみさんは、黙って聞いていた。時折、うなずきながら、健太の言

葉を噛みしめるように。


「そういうことかい。海里ちゃんの気持も分かるねぇ。島には出会

いがないからね。その……ギターかい、それが出会いのきっかけに

なってしまったんだろうねぇ」

「うん。しかし、まさかこんなことになろうとは、思いもよらなか

ったよ」

「で、健太の気持は?」

 健太は、少しだけ目を伏せた。


「正直、困惑している。海里ちゃんは素直だし、ほんといい子だし。

ただ俺は彼女のことを、妹のような感じで見ていたから。それに俺

もここにいつまでいるか、わからないし。もしつきあうとしたら、

遠距離になる可能性が大だ。それに年齢が離れすぎているのも……」

 とみさんは、箸を置いて、静かに言った。

「年のことは、海里ちゃんがいいなら問題ないんじゃないの。ただ

問題は、健太がここを離れて帰った時だね。福岡だったね?」

「うん」

「波照間島と福岡では遠いからねぇ。おいそれ、会えることはできな

いし。そんなの心の持ちようだ、と言う人もいるかもしれないけど…

それは大きな問題だよ」


 健太は、深くうなずいた。

「そうだよね……やっぱり」

「これがね、本土での遠距離恋愛だったら違うんだよ。例えば、福

岡と東京とかね。交通の便が発達しているし。だけど、ここ波照間

は石垣からフェリーというのが不便だし。波が高い時はフェリーは

出ないしねぇ。ひどい時は十日も出ないというのがあるしね。まあ、

健太がここで、本格的に働くというのなら、話は別だけどね」

 健太は、しばらく黙っていた。

「それは……ちょっとわからないな」


 とみさんは、健太の顔を見つめながら、静かにうなずいた。

「なら、急いで答えを出すことはないさぁ。海里ちゃんも、待つと

言っていたんだろう?だったら、ちゃんと自分の気持と向き合って

からでも遅くはないさぁ」


 健太は、とみさんとしばらく話し込んだ。食事の後、縁側に移っ

て、島の風を感じながら湯呑みを手にしていた。

 とみさんは、黙って星空を見上げている。健太もまた、言葉を探

すように、空を見つめていた。

 遠距離という言葉は、頭ではわかっていた。けれど、こうして島

での暮らしに慣れ、島の人々と関わるうちに、その距離がどれほど

現実的な障害になるかを、あらためて痛感していた。


『もし海里ちゃんとつきあうとなると、俺の選択肢も決まってくる。

ここで仕事をすることも覚悟しなくてはならない。まだ自分の進む

べき道も決まってないしな。それに遠距離で美里ちゃんに、つらい

思いをさせることになるかもしれない。彼女はまだ若い。未来の可

能性が広がっている時期だ。俺がその可能性を狭めてしまうことに

なるかもしれない』


 健太は、胸の奥に重たい石を抱えているような気分だった。

 海里の告白は、まっすぐで、純粋だった。その気持ちに応えたい

という思いもある。けれど、それ以上に、自分自身の不確かさが、

彼女を巻き込むことへのためらいを生んでいた。

『でも海里ちゃんの今の気持ちを思うと……』

 健太は、やるせなさを感じていた。


 なぜこうも悩み事が続くのか。

 沙也夏との再会で心が揺れ、ようやく区切りをつけたと思った矢先

に、今度は海里からの告白。


 とみさんは、湯呑みを置いて、ぽつりと言った。

「健太、悩むのはええことさぁ。悩むってことは、誰かのことをちゃ

んと考えてるってことだからね」

 健太は、少しだけ笑った。

「うーん……でも、答えが出るまでは、もう少し時間がかかるなぁ」

 とみさんは、うなずいた。

「それでええ。急ぐことはないさぁ。島の風に、少しずつ答えを教え

てもらえばいい」

 健太は、星空を見上げた。その光は、遠くて、静かで、でも確かに

そこにあった。


               *


 三日後の夕方、健太が【みーふぁいゆー】の厨房で片づけを終え、

 エプロンを外していたときだった。

 外から誰かが訪ねてきた気配がした。

「健ちゃん、帰り際に悪いね。ちょっといいかな」

 振り返ると、そこには勝が立っていた。


 いつもは穏やかな笑顔を浮かべている勝だったが、今日はどこか様

子が違った。眉間にうっすらと皺が寄り、目の奥に真剣な光が宿って

いた。

 健太は一瞬、胸がざわついた。

――海里のことかもしれない。


 海里から告白を受けてから、もう二週間以上が過ぎていた。

 返事を保留したまま、距離を置いていたが、勝にも何か感じとるも

のがあったのかもしれない。

「じゃ、こっちへ」

 健太は勝を売店前のベンチへと案内した。

 

 勝はベンチに腰を下ろすと、しばらく空を見上げていた。

 夕暮れの空は、淡い橙色から群青へと移り変わりつつあり、島の

風が静かに吹いていた。

「健ちゃん。海里から何か言われたよね?」

 その声は、いつもの勝とは違っていた。穏やかでありながら、どこ

か切実な響きを帯びていた。

 健太は、少しだけうなずいた。

「知っていたんですね。はい。交際をしてくれと……言われました」


 勝は、目を伏せて静かに息を吐いた。

「やはり……そうだったか。健ちゃん、無理しなくていいから」

「はあ……」

 健太は、勝の言葉の先を待った。

「海里は恋愛をしたことがない。いや、正確にはそのチャンスはあ

った。そのチャンスを……俺がぶち壊した」

「ぶち壊した?」

 健太は、思わず聞き返した。


「ああ。知ってのとおり、波照間には高校がない。だから石垣の高

校に入学することになった。ここから通うのは無理だから、全寮制

だった。ある日、海里が男を伴って、家に帰ってきた。交際したい

から、認めてほしいってな。俺が彼氏ができたら連れてこいって言

ってたからな。約束通りだった。でも、男を見てピンときた。こい

つはだめだと。素行が悪いと思った。俺も昔ヤンチャしてたから、

そういうのはわかるんだよ。それで交際は認めなかった。その後、

海里と大喧嘩さ。それ以来、海里は恋愛におっくうになってしまっ

た。すべては……俺のせいだろう」


 健太は、静かに言った。

「そういうことがあったのか……あんないい子なのに」

 勝は、少しだけ笑った。

「でも健ちゃんと出会って、海里は変わった。健ちゃんを好きなん

だろうなって、傍から見ていてもわかったよ。健ちゃんなら、人間

的には反対する理由がない。ただ……」

「俺がこっちの人間ではないということですね」

 健太は、勝の言葉を先回りして言った。

「まあ、そうだな。だから断るなら、断ってくれてもいい。だけど

もし受け入れてくれるというなら……いろいろ問題はあるだろうが、

俺は応援したい」


 健太は、しばらく黙っていた。

 勝の言葉は、責任でも圧力でもなく、ただ妹を思う兄の気持ちだ

った。

「俺は……今回のことは」

「待ってくれ」

 勝は、健太の言葉を遮った。

「結論が出ているのなら、本人にしてほしい。それによって海里が悲

しんでも、それは仕方ない。でも、俺からじゃなく、健ちゃんの口か

ら聞かせてやってほしい」

「勝さんの気持ちは、分かりました」


 健太は、勝の妹を思う気持ちが、痛いほど分かった。

 そして、海里には正直な気持ちを伝えようと、あらためて決意し

た。胸の奥には、決意と、まだ言葉にならない感情が、静かに息づ

いていた。


 それから三日後、健太は海里と会うことにした。場所はニシハマ。

 沙也夏と“最後の別れ”を決意したのもここだった。そして今度は、

海里とも。

 健太は、砂浜に立ちながら思った。

『ニシハマは俺にとっては、別れのビーチなのかな』

 自嘲気味にそう呟いたが、胸の奥には重たいものが沈んでいた。


 海里は定刻どおりに現れた。

 今日もショートパンツ姿。飾らない、自然体の彼女らしい服装だ

った。その姿を見て、健太は改めて思った。

『――こういうところが、海里ちゃんのいいところなんだ。』

 海は穏やかだった。波は静かに寄せては返し、空は少しずつ夕暮

れの色に染まり始めていた。


 健太は、意を決して海里の顔を見た。

「いろいろ考えたけれども」

「はい……」

 海里は神妙な表情でうなずいた。

「やはり、つきあうことは……できない」

 海里は、少しだけ目を伏せた。


「そうですか。わけを聞かせてもらえますか?」

 健太は、言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。

「いちばんの理由は、俺はいずれ福岡に帰ることになる公算が大き

い。それでつきあうとなると、遠距離になる」

「でも遠距離恋愛している人は、たくさんいます。私は遠距離でもい

いと思っています」


「遠距離恋愛というのは、考えているより大変だよ」

「方法はいろいろあると思います。メールとか、電話もあります」

「そう、方法はある。でも俺が言っているのは、そういうことじゃ

ないんだよ。遠距離というのは、初めはいいんだ。でも時が経つに

つれて、不安が出てくる。連絡が数日ないだけで、どうしたんだろ

うかとか、他に好きな人ができたのではとか、いろいろな不安がも

たげてくる。会いに行きたくても、遠距離だから簡単ではないしね」


 海里は、少しだけ唇を噛んだ。

「私、我慢します。わがままは言いません」

「誰でも、最初はそう思うんだよ。でも、やめたほうがいいと思う」

「どうしても……どうしても、だめですか?」

 海里はうなだれて言った。その声は、涙に濡れていた。肩が小さく

震えているのが、健太にもわかった。

「ご、ごめんな」


 健太も、声を絞り出すように言った。

 ふたりとも、しばらくただじっとしていた。波の音だけが、静か

にふたりの間を満たしていた。

 やがて海里は、ゆっくりと立ち上がった。そして、健太に向かっ

て言った。

「谷川さんの気持ちは、わかりました。ご迷惑をおかけして、すみ

ませんでした」

「いや、迷惑だなんて……」

「失礼します」


 海里は、ゆっくりと砂浜を歩き出した。その背中は、どこか小さ

く見えた。夕陽が、彼女の影を長く伸ばしていた。

 健太は、その姿を見送りながら、複雑な気持ちを持て余していた。

 正しい選択だったのか。それとも、傷つけただけだったのか。

 ニシハマの風が、健太の頬を静かに撫でていた。それは、別れの

余韻を運ぶ風だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ