45.再会
健太は、ふと足を止めて、そこで初めて後ろを振り返った。
月明かりに照らされ た光の中に、沙也夏の姿が浮かび上がってい
た。
彼女はノースリーブの白いブラウスに、淡いベージュのキュロッ
トという軽やかな格好だった。肩にかかる髪が風に揺れ、月の光が
その輪郭を柔らかく縁取っていた。
健太の胸に、懐かしさと不意の緊張が同時に込み上げる。
「久しぶり。思わぬ再会だな」
健太は、少し声を低くして言った。
沙也夏の顔を見て、別れた頃よりもずっと綺麗になったと思った。
それは単なる外見の変化ではなく、彼女の表情に宿る芯の強さ、
そしてどこか影を帯びた鋭さがそう感じさせた。
「今日はごめんなさい。待ち伏せみたいなことして」
沙也夏は、少しうつむきながら言った。
その声には、ためらいと覚悟が混ざっていた。
「まあ、立っていないで、座れば」
健太がベンチを指すと、沙也夏は少し間を置いて、彼の隣に腰を
下ろした。二人の間には、手を伸ばせば届くほどの距離があったが、
どこか遠く感じられた。
沙也夏は、持っていたペットボトルのさんぴん茶を健太に差し出
した。
「ありがとう」
健太は受け取りながら、彼女の指先がわずかに震えているのに気
づいた。
「今日、会いたかったのは健ちゃんに謝ろうと思って」
「謝る?」
健太は少し眉を寄せた。
「私は結婚することを黙って、健ちゃんとつきあっていた。そして
最後の最後で言ってしまった。どれほど、健ちゃんが傷つくのを知
っておきながら……本当にごめんなさい」
沙也夏はそう言うと、立ち上がり、深々と頭を下げた。その姿は、
夜の静けさの中で痛々しいほど真剣だった。
健太はしばらく黙っていた。さんぴん茶のボトルを手の中で転が
しながら、海を見つめていた。
「そのことか。もう過ぎたことだ」
健太は静かに言った。
「まあ、結婚の理由にはびっくりしたが、それ以上に……淋しさが
あったな」
「淋しさ……」沙也夏は、健太の言葉を繰り返した。
「ああ。もう今までのように会えないんだなと思うと、たまらなか
った。ましてや、俺も結婚を意識していたし」
その言葉に、沙也夏は顔を歪め、何度も何度も「ごめんなさい」
と繰り返した。頬には涙が伝い、月明かりに濡れたその雫がきらり
と光った。
「もういいって」
健太は、少しだけ沙也夏の方に顔を向けて言った。だがその目は、
どこか遠くを見ているようだった。
それから二人は、しばらく黙ったままベンチに座り続けた。
ようやく沙也夏が顔を上げると、健太は夜空を仰いだ。夜空には、
満月が静かに浮かんでいる。その光は、ベンチに座る二人の間に淡
い影を落としていた。
「まさか、波照間島で会うなんて思ってもみなかった」
健太は、月を見上げながらぽつりとつぶやいた。
その声には驚きよりも、どこか運命めいたものへの戸惑いが滲ん
でいた。
「そうね。こんなことってあるんだと思った」
沙也夏も空を見上げた。月の光が彼女の頬の涙の跡を照らし、少
しだけきらめいた。
健太は、沙也夏の結婚生活について聞こうとした。けれど、言葉
が喉元で止まった。聞いてしまえば、今の彼女との距離がさらに遠
くなるような気がした。だから、別のことを尋ねた。
「こっちには仕事?」
「うん」
沙也夏は短く答えたが、その声には少しだけ張りが戻っていた。
「健ちゃんは、ここで働いているのね」
「うん。いろいろ事情があってね」
健太は、言葉を選びながら答えた。
その“事情”には、福岡での生活、会社を辞めた理由、そしてこの
島に来るまでの心の揺れが含まれていた。
「仕事を変えたの?」
「変えたわけじゃない。前に勤めていた会社は辞めたよ」
健太は、少しだけ笑みを浮かべた。
それは自嘲にも似た、過去を振り返るときの表情だった。
「たしか……お弁当の容器の会社だったかしら」
「よく覚えているな」
健太は驚いたように沙也夏を見た。
彼女の記憶の中に、自分との日々がまだ残っていることが、少し
だけ嬉しかった。
「沙也夏と……呼んでもいいかな」
「うん。かまわない」
沙也夏は、少しだけ微笑んだ。その笑顔は、どこか懐かしく、そ
して切なかった。
健太は、さんぴん茶のペットボトルを手の中で軽く転がしながら、
ゆっくりと口を開いた。
「沙也夏と別れた後、自分なりに仕事を頑張ったと思う」
その言葉には、過去を振り返る静かな決意と、少しの悔しさが滲
んでいた。
月明かりが彼の横顔を照らし、島の夜風が二人の間をそっと通り
抜けていく。
「会社の売り上げを伸ばすために、新規取引を増やしたりしてさ。
新規って言っても、個人でやってる小さな商店ばかりだったけどね。
でも、弁当業界ってのは、その頃からコンビニが主流になってて…
結局、会社も大手企業との取引に舵を切ったんだ」
沙也夏は、静かにうなずいた。
健太の声には、当時の焦りや孤独が、今も微かに残っているよう
だった。
「それからが大変だった。従来の取引先には、取引終了の謝りに行
ってさ。激怒されることもあった。『今までうちを支えてくれたの
に、急に切るのか』って。何度も頭を下げたよ。その一方で、新し
い会社との取引準備に追われて、毎日が忙殺されてた」
健太は、少し遠くを見つめた。その視線の先には、波の音だけが
静かに響いていた。
「それから、そこの営業担当になったんだけど……営業って言って
も名ばかりでさ。実際は配送とクレーム処理ばっかりだった」
「そうだったの。そこでの営業が大変だったの?」
沙也夏の声には、驚きと同時に、健太の苦労を思いやる優しさが
込められていた。
「うん。辞めた原因は、クレーム対応だな。コンビニと取引してる
会社ってのは、クレームが出ると、全部こっちに責任を押し付けて
くるんだ。特に異物混入だった。『弁当に髪の毛が入っている』と
か言ってね。全部、容器会社のせいになる。営業っていうより、ク
レーム処理員だったよ」
健太は、少しだけ笑った。その笑みは、苦しさを包み隠すような、
乾いたものだった。
「おかげで、精神的にまいってしまってさ。最後は自分から退職を
申し出た。それからは無職で……アルコール漬けだったよ。毎日ビ
ールばかり飲んで、就活もしないで。昼間から飲んで、夜は眠れな
くて、また飲んで……そんな日々が続いた」
沙也夏は、言葉を失っていた。健太の語る過去が、あまりにも重
く、そして痛々しかったからだ。
「そうだったの……」
彼女は、絞り出すように言った。
「でも今は働いているのよね。よく……立ち直れたね」
健太は、月を見上げたまま、静かにうなずいた。
「まあ。立ち直ったっていうより、流れ着いたって感じかな。ここ
に来て、ようやく自分を許せた気がする」
その言葉に、沙也夏はそっと目を伏せた。
彼の苦しみと再生の物語が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
「【ロコ】のマスター、覚えている?」
健太がふと沙也夏に訪ねた。
沙也夏は、少し目を細めて思い出すように空を見上げた。
「……ああ、覚えている。何回か食事したわね。いい人だった。あ
の頃は楽しかった」
沙也夏の記憶がふわりと立ち上がる。福岡の街角、夜の店内、マ
スターの穏やかな笑顔。それは、今の波照間島の静けさとはまるで
違う、けれど確かに繋がっている時間だった。
「マスターに波照間島を紹介されたんだよ」
健太は、少し照れくさそうに言った。
「俺があんまりだらしない生活してたもんだからさ。始めは10日
ぐらいして帰ろうと思ってたんだけど、宿の人から『働いてみる気
はない?』って言われて」
沙也夏は、健太の話に耳を傾けながら、静かにうなずいた。
「宿の人からも、いい大人がなにぶらぶらしてんだって思われたの
かもな。まあ、このまま福岡に帰っても、まただらしない生活を繰
り返しそうだったから……思いきって働くことにした」
「いろいろあったんだね」
沙也夏の声には、健太の選択を肯定するような、柔らかな響きが
あった。
「でも、バイトだから、そうは長くはできないけどね」
健太は肩をすくめて笑った。
その笑顔には、少しの諦めと、少しの誇りが混ざっていた。
「ところで、こっちには仕事で来たわけ?」
「そう。島袋先生の作品を、うちの会社で取り扱おうと思って」
「勝さん……いや、島袋さんは先生って呼ばれてるんだ」
「そうね。私が勝手に呼んでるだけだけど、先生とは仲がいいの?」
「うん。まあ、仕事の関係もあるし」
「勝さんと交流し始めたのは、妹の海里ちゃんがきっかけだよ」
健太は、海里が事故に遭ったときのことを語り始めた。
車で走っていたとき、前の車が海里の自転車に接触して、転倒し
た海里を見て、診療所まで抱えて走ったこと。
沙也夏は、その話を聞いて、声をあげて笑った。
「健ちゃんって、ほんと人を助けてばかりだね。私が助けられたの
を思い出しちゃった」
健太は、沙也夏の笑顔を見て、胸の奥がふっと軽くなるのを感じ
た。
「俺も海里ちゃんを診療所に連れて行った時、沙也夏を助けたのを
思い出したよ」
二人の間に、過去の記憶が静かに交差する。
それは、痛みだけでなく、確かにあった優しさの記憶だった。
「それで、勝さんとはうまくいきそうなの?」
「まだかな。もう少しっていうところ」
「勝さんから聞かれたよ。ある会社から作品の委託販売の話がきて
るんだけど、どう思うって。それから、沙也夏の名刺を見せてもらっ
た。さすがに驚いた。苗字が須藤ってなっていたけど」
健太がそう言うと、沙也夏はふと夜空を見上げた。
会話が途切れた。
健太は、言うべきではなかったかと、少しだけ後悔した。名刺の
話は、彼女の今の生活に踏み込むことになる。
そして沙也夏は、大きく深呼吸した。
そのまま夜空を見上げる姿勢で、静かに言葉をこぼした。
「ここは星がきれいね」
健太は黙ってうなずいた。
空には、街では見られないほどの星が広がっていた。まるで、過
去の記憶や言葉にならない感情を、そっと照らしてくれるようだっ
た。
「健ちゃんがいろいろあったように、私も……人生を考えさせられ
るようなことがあった」
健太は、彼女の言葉の続きを待った。風が少しだけ吹き、沙也夏
の髪が揺れた。
「……離婚した」
沙也夏は、呟くように言った。
その声は、夜の静けさに溶け込むほど小さく、でも確かだった。
健太は、しばらく言葉を探していた。
「そうか……名刺を見た時、もしかしたらと思った。やはり、そう
だったのか」
沙也夏は、少しだけ目を伏せた。
「本橋……元夫なんだけど、彼の仕事が許せなかった」
「許せなかったとは?」
「詐欺まがいのネットスクールをしていて、稼いでいたの。言葉巧
みに勧誘して、そこに応募した人たちに3か月から半年の期間を設
けて、成果があろうがなかろうが関係なし。期間が終われば終了で、
また違うネットスクールを開講して募集。その繰り返し。でも詐欺
ではないの。法律すれすれのことをしていたから」
健太は、眉をひそめながら言った。
「なるほど。よくある、3か月で百万稼げるようになりますよって
いう、うたい文句のやつか」
「そう。まさにそれだった」
「たしかに、ぼろ儲けらしいからな。でも、そういうのは長続きし
ない」
「それを本橋に問い詰めたら、大喧嘩になった。結局、本橋のお義
父さんに相談して、離婚ということになった。でも離婚したはいい
けど、どうやって暮らしていこうかって考えたの」
沙也夏は、少しだけ笑った。
その笑みには、過去の痛みを乗り越えた人の静かな強さがあった。
「覚えているかな。シーウィンド・ギャラリー」
健太は、懐かしそうに目を細めた。
「ああ。一緒に行ったな、たしか」
「そう。あそこに行ってみようと思って、行ったの。そしたら、そ
こで前の上司に再会して……離婚のことや、これからのことを話した
ら、復帰の話があって。受けることにした」
「それはもの凄い偶然だ。運がよかったとも言える」
沙也夏は、首を横に振った。
「私は偶然とは思えない。夢にね、エディが現れたの」
「エディ?たしか……沙也夏が十代の頃に出会ったレーサーか」
「覚えていたのね」
沙也夏は、少し驚いたように微笑んだ。
「夢の中で、エディは海の傍に立って、振り返って微笑んでいた。
それだけだったんだけど……目覚めて思ったの。エディは何を言い
たかったんだろうって。そして夢に海があったなと思って、壱岐の
シーウィンド・ギャラリーを思い出した。だから壱岐に行った。そ
うしたら、思わぬ出会いが待っていた」
健太は、静かにうなずいた。
「それは……夢に導かれたのかもしれない。
時々、人は現実ではないものに、深く影響を受けることがあるん
だろうな」
沙也夏は、ふっと息を吐いた。
「なんか、お互いの苦労話をしてしまったわね」
健太は、沙也夏が今ひとりなのだと知った瞬間、胸の奥がざわつ
いた。それは、再び手を伸ばしたくなるような衝動だった。
けれど彼は、その感情をそっと押し込めた。今は、ただ静かに寄
り添うことしかできない。
ふと、傍らに置いていたギターに目をやる。
月明かりが、木目の表面をやさしく照らしていた。
「俺、新しい曲を作ったんだ」
沙也夏は、少し驚いたように目を見開いた。
「今でも音楽はやっているのね」
健太は首を振った。
「いや、バンドはやっていない。今はそれどころじゃないし。やっと
最近、ギターを弾くようになった」
「そうなんだ」
沙也夏の声には、懐かしさと少しの安堵が混ざっていた。
「沙也夏、新しい曲、聞いてくれないか。ギターもあるし」
「ぜひ、聞かせて」
健太はギターを抱え、静かにチューニングを始めた。弦を一本ず
つ確かめながら、指先に集中する。その姿は、まるで過去と向き合
う儀式のようだった。
チューニングを終えると、沙也夏の方を見て、少し照れくさそう
に言った。
「この曲は……沙也夏のことを思って作った」
沙也夏は、何も言わずにうなずいた。
その瞳は、健太の言葉をまっすぐ受け止めていた。
健太は、静かにイントロを弾き始めた。ギターの音は乾いていて、
波照間島の夜の空気に溶け込むようだった。
そして、歌い始めた。
♪あの頃のような恋は できるはずもない
傷つき 傷つけあった
出会いから 終わりを 何度も思い出す
君に会いたいと 心で叫んでいる♪
♪Thinking of you
誰もいない海辺にたたずむ
二人で歩いた日々も波に消えていく
いつか君と会える日がくるとしても
遅すぎる後悔 Over Again for you♪
一番を歌い終えたとき、健太は胸が押しつぶされるような気持ち
になった。言葉にした瞬間、過去の痛みが鮮明に蘇る。
涙がこみ上げるのを必死にこらえながら、間奏を続けた。
ギターの音は、寄せては返す波音とハーモニーを奏でていた。
それは、まるで島が二人の記憶を包み込んでくれているようだった。
そして、二番を歌い始める。
♪君と結ばれる日はくることはない
二人で行った店に 一人立ち寄る
君の笑い声が 心に響いてくる
忘れられない 僕がここにいる♪
♪Thinking of you
これから一人で強く生きていくとしても
君は僕の心の中にいるだろう
そして二人 違う道を歩き始める♪
エンディングを迎え、最後のコードが空気に溶けるように消えて
いった。健太は、そっとギターを側に置いた。その指先には、まだ
微かな震えが残っていた。
沙也夏は、月明かりに照らされた海を見つめていた。
波は静かに寄せては返し、夜の海はまるで過去の記憶を映す鏡の
ようだった。
「これは……健ちゃんの今の気持ちを歌っているのね」
沙也夏の声は、波音に溶けるほど静かだった。
健太は、少しだけうつむいて言った。
「そう……思ってくれてかまわない」
「わかった」
沙也夏は、短くそう答えた。
それ以上、言葉を重ねることはなかった。二人の間に、言葉のな
い時間が流れた。
風がそっと吹き抜け、ベンチの背もたれを撫でていく。
波の音が、遠くで静かに響いていた。
やがて、沙也夏が口を開いた。
「今日は……ほんとうにごめんなさい。私のために時間を作ってく
れて」
健太は、少しだけ笑みを浮かべた。
「いや……話せてよかったよ」
「じゃ、夜も遅いし……私、ホテルに戻ります。ありがとう、今日
は」
沙也夏は、ベンチから立ち上がった。
その動作は、名残惜しさを隠すように、静かで丁寧だった。
健太は、彼女の方を見なかった。ただ、星空を見上げていた。空
には、無数の星が瞬いていた。それは、言葉にならない想いをそっ
と見守るようだった。
沙也夏の足音が、砂利を踏む音とともに遠ざかっていく。
健太は、胸の奥に波立つ感情を、必死に押し込めていた。
『もう会うこともないだろう。これでいいんだ、これでよかったん
だ』
健太は、自分に何度も言い聞かせた。それは、別れを受け入れる
ための祈りのようだった。
波照間島の夜は、静かに、そして深く、二人の再会と別れを包み
込んでいた。




