44.待ち伏せ
沙也夏との思いもよらない再会。
その日は、ただ会釈を交わしただけだった。言葉もなく、視線も
短く。けれど、その一瞬が健太の心を大きく揺らした。
海里のレッスンを終えた後、勝からいつものように食事に誘われ
た。だが、健太は断った。理由は言わなかったが、勝はそれ以上聞
かなかった。
明日も仕事だった。けれど、このまま沙也夏のことを思いながら
現場に立てば、またミスをしてしまう——
そう思った健太は、思い切って休むことにした。里桜に連絡し、
今の気持ちを正直に話した。
「甘っちょろい」と言われるかと思ったが、意外にも里桜はわかっ
てくれた。
「女将さんには、うまく言っておくよ」と言ってくれた。
それでも、明日を休んだからといって、沙也夏のことが解決す
るとは思っていなかった。
夜になり、離れの縁側に座り、月を見上げながら考えていた。
けれど、考えても考えても、答えは出なかった。
——会いたい。
でも、会ってどうする。その相反する気持ちが、胸の中で渦を巻
いていた。
いたたまれなくなった健太は、ギターを背負い、自転車にまたが
った。向かう先は、ニシハマ。
坂を下り、潮の匂いが濃くなる。月明かりが、道を淡く照らして
いた。ニシハマのベンチに近づくと、そこには先客がいた。
健太は、夜のニシハマに何度も来たことがあったが、人がいたこ
とはなかった。
『こんな夜に人がいるのか』
——自分のことは棚に上げて、そう思った。
「こんばんは」
健太が声をかけると、先客が顔を向けて返した。
「こんばんは」
その顔を月明かりが照らした瞬間、健太は息を呑んだ。
——あの時の男性だ。
海里と初めて待ち合わせた日、ここで少しだけ言葉を交わした男
性。あの日の記憶が、潮風とともに蘇った。
健太は、思わず立ち止まった。
健太は空いているベンチに腰を下ろすと、隣の男性に声をかけた。
「以前、お会いしましたよね」
月明かりの下で、男性はゆっくりと顔を向けた。
「そうですね。ここにはよく来るんですか?」
「ええ。けっこう来ています」
「そうですか。僕は眠れなくて、夜風に当たろうかなと思って来ました」
「ここは涼しいですからね」
ふたりの会話は、波の音に溶けるように静かに続いていた。
健太は、ふと記憶をたどった。
——この男性と初めて会った日。
海里との待ち合わせの前、少しだけ言葉を交わした。
そして、別れ際に聞こえた「沙也夏」という名前。
『この男は沙也夏と関係があるのだろうか。まさか夫か?しかし名
刺には“須藤”とあったはずだ』
健太の胸の奥で、疑念が静かに膨らんでいく。
その思いを見透かすように、男性が口を開いた。
「じつは、眠れないというのは嘘です」
健太は、少しだけ身構えた。
「僕、高井勇人と言います。失礼ですが、谷川健太さんですよね?
間違っていたら、すみません」
健太は、驚きと警戒が入り混じった表情で答えた。
「どうして名前を?」
高井は、少しだけ目を伏せてから、静かに言った。
「やはり、そうでしたか。須藤沙也夏さんをご存じですか?」
その名前が、月明かりの中で響いた瞬間、健太は言葉を失った。
——やはり、そうだったのか。
高井の声は、穏やかだった。けれど、その穏やかさが、逆に健太
の胸を締めつけた。
「その顔は、知っているみたいですね」
高井は、健太の表情を見ながら、静かに言った。
「沙也夏……さんとお知り合いなんですか?」
「はい。沙也夏さんに無理言って、一緒に来ました。僕は観光目的
ですが、沙也夏さんはビジネスです」
「そうでしたか」
健太は、言葉を絞り出すように答えた。
高井の語り口は穏やかだったが、健太の胸には複雑な感情が渦巻
いていた。
「沙也夏さんから、谷川さんとのことをお聞きしました。それで、
わかりました。僕がお付き合いを申し込んでも、なかなか良い返事
をもらえなかったんだなと」
健太は、その言葉に胸を突かれた。
——心臓が、静かに跳ねた。
けれど、すぐに自分に言い聞かせた。もう沙也夏は恋人ではない。
過去の人だ。
「谷川さんと今日、沙也夏さんと会われたそうですね?」
「会いました。会いましたが、会釈をした程度です」
「彼女も同じようなことを言ってました。かなり動揺もしていまし
た。僕が詳しく話すように言うと、最初はごまかしていましたが、
谷川さんとのことを話してくれました。谷川さんと会ったことが、
よほどのことだったんでしょうね」
「俺もびっくりしました。まさか、波照間島で会うなんて」
健太は、月を見上げながら言った。
その光は、どこか遠い記憶を照らしているようだった。
「彼女は谷川さんと話をしたいそうです。それで僕は、もしかした
らと思いました。彼女は福岡で谷川さんと付き合っていたと聞いて
いたので、以前お会いした時、谷川さんも福岡から来たと聞いてい
ましたからね。それで賭けでしたけど、ここで待っていたら谷川さ
んが来ると思っていたんです」
「なるほど。読まれていたということですか」
健太の声には、少し皮肉が混ざっていた。
高井は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「申し訳ありません、待ち伏せしたみたいで。お仕事されている所
もわからなかったものですから」
「それで?」
健太の言葉には、明らかなとげがあった。
それは、過去を揺さぶられた痛みと、今の自分を守ろうとする防
御だった。
高井は、静かに息を吐いて、言った。
「ここで待っていてもらいたいんです。彼女にここに来てもらうよ
うにします。よろしいでしょうか」
高井の言葉は、丁寧で穏やかだった。
けれど健太の胸には、複雑な感情が渦を巻いていた。
——待ち伏せされた上に、会ってほしいと頼まれる。
それが沙也夏本人なら、まだ分かる。なぜ、彼女ではなく高井な
のか。それほど、この男を信用しているということなのか。
健太は、ベンチの木目を指先でなぞりながら、黙っていた。
立ち去るのは簡単だった。このまま踵を返して、夜道を自転車で
戻ればいい。けれど、沙也夏に会いたいという気持ちは、確かに心
の奥でくすぶっていた。
——会って、何を話すのか。
それはわからない。けれど、話さなければ何も変わらない。
健太は、大きく深呼吸をした。
潮の匂いが胸いっぱいに広がる。
「待ち伏せされたのは、あまり気持ちがいいものではありませんが、
話があるというなら……いいですよ」
その言葉は、静かに夜の空気に溶けていった。
高井は、ほっとしたように表情を緩めた。
「そうですか。よかった。では今から彼女に連絡します」
そう言うと、ポケットから携帯電話を取り出し、通話を始めた。
声は小さく、二言三言だけ交わすと、すぐに通話を終えた。
「連絡しました。今から迎えに行ってきます。ホテルはそこですか
ら。そんなに時間はかからないと思います」
高井は立ち上がり、砂浜に向かって歩き出した。
月明かりが、彼の背中を静かに照らしていた。
健太は、ひとりベンチに残された。
ギターのネックに手を添えながら、夜空を見上げた。
星が、静かに瞬いていた。波の音が、遠くでさざめいていた。
——沙也夏が、来る。
その事実が、健太の胸の奥で、静かに息を吹き返していた。
高井が去ったあと、健太はゆっくりと後ろを振り返った。
坂の上には、ぽつりぽつりと灯りがともる建物が見える。
波照間島で唯一「ホテル」と呼ばれる施設——その明かりは、夜
の静けさの中で浮かび上がっていた。
島内には「ホテル」と名乗る宿もあるが、実際は民宿に近い。
この建物が着工されたとき、島の人々の間では賛否が分かれたと
聞く。けれど、今では外国人観光客が増えたのも、このホテルの存
在があってこそだというのも事実だった。
健太は、膝の上に置いたギターに目を落とした。
——まさか、こんな状況になるとは。
気持ちを落ち着かせるために来たニシハマ。それが、沙也夏に会
うことになるなんて。
『こんなことなら、ギターなんて持ってくるんじゃなかったな』
ギターの木目が、月明かりに照らされて淡く光っていた。
その静かな輝きが、健太の胸の奥に眠っていた記憶を呼び起こす。
『それにしても、“僕がお付き合いを申し込んでも、なかなか良い
返事をもらえなかったんだなと”——これはどういうことなんだ?』
沙也夏は、まだ俺とのことを思っているのか?
いや、それはない。あの時、結婚を理由にきっぱり別れたはずだ。
——しかし、名刺には「須藤」とあった。
離婚したということなのか?それとも、仕事の時だけ旧姓を使っ
ているのか?
『ああ、ダメだ……結局こんなことを考えている時点で、俺はまだ
沙也夏のことを思ってるんだ』
健太は、ギターの弦をそっと撫でた。
その音は鳴らなかったが、指先に残る感触が、過去の記憶をそっ
と揺らした。
その時だった。背後から、人の気配がした。
健太は、胸の高鳴りを覚えた。
——沙也夏かもしれない。
けれど、振り返ることができなかった。
風が、浜辺を撫でるように吹き抜けた。波の音が、遠くでさざめ
いていた。
そして——
「健ちゃん……」
懐かしく、ずっと聞きたかった声が、耳に届いた。その声は、柔
らかく、少しだけ震えていた。
健太は、ゆっくりと振り返った。
月明かりの中に立つ沙也夏の姿が、そこにあった。
白いシャツが風に揺れ、髪が頬にかかっていた。その瞳は、まっ
すぐに健太を見つめていた。
ふたりの間に、言葉はまだなかった。けれど、時間は静かに止ま
り、過去と現在が交差していた。
——この島で、もう一度、彼女に会うなんて。
健太の胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。




