40.海里 (みさと)
健太は久しぶりに、ニシハマに来ていた。ギターを膝に置いたま
ま、海をぼんやりと眺めていた。夏休みに入ったせいか、浜辺には
観光客の姿がちらほら見える。子どもたちの笑い声、波の音、風に
揺れるパラソル——すべてが、夏の島を彩っていた。
——ここでさえこんなに人がいるんだから、石垣島はもっと賑やか
なんだろうな。
健太は、そんなことを思いながら、昨日の佐藤の送別会を思い出
していた。
場所は、宿に併設された居酒屋。テーブルには、島の食材をふん
だんに使った料理が所狭しと並び、泡盛の瓶が何本も開いていた。
女将さん、里桜、厨房スタッフ——みんなが笑いながら、佐藤の
門出を祝っていた。
佐藤は、島での仕事を終え、新たな場所へ向かうという。
その背中には、少しの不安と、大きな希望が混ざっていた。
健太は、佐藤の笑顔を思い出す。
そして、自分もいつかこの島を離れる日が来るのだろうか——そ
んなことを、ふと考えていた。
昨日の送別会の記憶が、波の音に混じって健太の胸に蘇っていた。
場所は、宿に併設された居酒屋。木の香りが残る店内には、料理が
所狭しと並び、泡盛の瓶がいくつも開いていた。笑い声とグラスの音
が、夜の空気を賑やかにしていた。
女将さんがビールを片手に立ち上がると、場が静まり返った。
「佐藤君、約二年間ご苦労さまでした」
その声には、労いと感謝が込められていた。
佐藤は少し照れたように、グラスを持ち上げながら答えた。
「いえ、こちらこそありがとうございました。無理を言ってアルバ
イトさせてもらって」
女将さんは笑いながら首を振った。
「無理じゃないさぁ。人手が足りなくてどうしようかと思っていた
時だったから、こっちは助かったさぁ。でもアルバイトさせてくれ
って言った時、佐藤君真剣な表情だったねぇ」
佐藤は、グラスの縁を指でなぞりながら、少し照れ笑いを浮かべ
た。
「あの時はマジ焦っていましたから。仕事どうしようって思ってま
したから」
「健太さんもその気持ち、わかるんじゃないの?」
里桜が、泡盛のグラスを傾けながら健太に話を振った。
健太は少し笑って、グラスを持ち直した。
「あぁ、それはたしかに。俺も常に頭の中に仕事のことがあったか
ら。でもまさか波照間島で働くことになるとは思ってもみませんで
した」
その言葉に、場がふっと和み、全員が笑い声をあげた。
グラスが軽くぶつかり合い、泡盛の香りがふわりと広がる。
佐藤は、少し照れながらも、語り始めた。
宿で働き始めた頃のこと——右も左も分からず、皿の並べ方すら
迷っていた日々。お客さんとのトラブル——予約の行き違い、クレ
ーム対応、言葉のすれ違い。そして、人生の進路に悩んでいたこと
——このまま島にいていいのか、何を目指すべきなのか。
話は長くなったが、誰も止めようとはしなかった。それだけ、佐
藤の語る言葉には、重みと真実があった。
女将さんは「わかるさぁ、私も昔は似たようなもんだった」と頷
いた。 里桜は「それでも、ちゃんと仕事向き合ってたよね」と優
しく言った。
健太は、佐藤の話す“お客さんとのトラブル”のくだりに、特に耳
を傾けていた。その語り口には、ただの愚痴ではなく、学びと反省、
そして成長の跡があった。
過去の話がひと段落すると、場の空気は自然と波照間島での暮ら
しへと移っていった。泡盛のグラスを傾けながら、佐藤がぽつりと
こぼした。
「ここはのんびりしてていいんだけど、そののんびりさに焦ること
があったなぁ」
その言葉に、里桜が大きく頷いた。
「そうなのよ。今まで私、けっこうがむしゃらに働いていたから、
その気持ちわかるぅ~。こんなにゆったりした生活でいいんだろう
かって、思った時期もあった」
女将さんは、グラスをくるくると回しながら、ゆっくりと口を開
いた。
「そうだろうねぇ。私はここで生まれて育ったから、これが当たり
前と思うけど、ヤマトンチュから来た人は違うんだろうねぇ。谷川
君もそうでしょ?」
健太は、少し考えてから答えた。
「うーん。俺はまだこっちに来て日が浅いから、逆にこののんびり
さがいいなと思っています。街のせわしなさに疲れてたから、ちょ
うどいいというか……」
佐藤は、グラスを置きながら、少し真顔になった。
「あ、それ気をつけたほうがいいですよ。のんびりさに慣れると、
それが当たり前になっちゃうから。ここでずっと働くのならいいけ
ど、福岡に帰った時に生活のリズムをなかなか取り戻せなくなる。
まあ、だから僕の場合は小浜島で働こうと思ったんだけど」
健太は、佐藤の言葉を静かに噛みしめた。
「佐藤さんのアドバイス、肝に銘じておきます」
その言葉に、佐藤は「いやいや」と手を振りながらも、どこか嬉
しそうだった。
健太の胸には、「ここでずっと働くことも、ひとつの道かもしれ
ない」という思いが、ふと芽生えていた。それはまだ小さな芽だっ
たが、島の風に吹かれて、確かに根を張ろうとしていた。
ふと里桜を見ると、彼女は苦笑いを浮かべていた。
やがて、送別会は自然とお開きになった。
泡盛の瓶は空になり、料理の皿も片付けられ、居酒屋の灯りが少
しずつ夜に溶けていった。
佐藤は、明日の午前中に小浜島へ向かう。その背中には、島で過
ごした二年間の記憶と、これから始まる新しい時間が重なっていた。
健太は、居酒屋の外に出て、夜風に顔を向けた。星が、静かに瞬
いていた。その光は、佐藤の旅立ちを祝福しているようにも見えた。
そして今日は、健太の公休日だった。
朝早く、佐藤を港まで送って行き、フェリーの出航を見届けた。
佐藤は、荷物を肩にかけながら、最後まで笑顔だった。
「じゃあ、元気でがんばって」
そう言って手を振ると、船はゆっくりと港を離れていった。
健太は、しばらくその場に立ち尽くしていた。空は高く、雲は薄
く流れていた。波の音が、静かに耳に届く。
ふと、胸の奥から湧き上がるものがあった。
——歌いたい。
理由は分からない。けれど、港の空を見上げていたら、無性に声
を出したくなった。風に乗せて、何かを響かせたくなった。
健太は、その衝動に少し驚いた。
会社を辞め、福岡のアパートで過ごしていた頃は、何もやる気が
起きなかった。ギターも触らず、音楽も聴かず、ただ時間だけが過
ぎていった。だからこそ、今「歌いたい」と思えたことが、健太に
は嬉しかった。それは、心が少しずつ動き出している証だった。
まだ朝の光が柔らかく、ビーチには誰もいなかった。波は静かに
寄せては返し、風はギターの弦を撫でるように吹いていた。
健太は、砂の上に置かれたベンチに腰を下ろし、ギターを抱えた。
指先で軽く弦を爪弾くと、木の響きが空気に溶けていく。
——今なら、歌える。
そう思った瞬間、頭の中にふっと浮かんだ曲があった。
イーグルスの「The Best of My Love」。
1974年のアルバム『On the Border』に収録された、静かなバラー
ド。ハードな曲が並ぶ中で、ひときわ穏やかなこの曲は、波の音に
ぴったりだった。
健太は、ギターのネックに左手を添え、コードを探る。Gから始
まり、C、D、Emへと流れる進行。指が自然に動き、音が波に寄り
添うように響き始めた。
健太の歌う声は、まだ少しだけ掠れていた。けれど、歌い進める
うちに、胸の奥から音が湧いてくる。それは、過去の痛みをなぞる
ようでありながら、今を肯定するような響きだった。
コードがAmに移ると、少しだけ切なさが増す。そしてDへ戻ると、
波が優しく足元を撫でた。
——歌いたいと思えることが、こんなにも嬉しいなんて。
フレーズを歌いながら、健太はふと空を見上げた。雲は薄く流れ、
陽射しは少しずつ強くなっていた。ギターの音は、風に乗って浜辺
に広がっていく。コードがGに戻ると、健太の心も少しだけ軽くなっ
た気がした。音楽は、過去を癒すだけでなく、未来への扉をそっと
開いてくれるように感じた。
歌い終えた健太は、ギターの音が波に吸い込まれていくのを感じ
ながら、静かに息を吐いた。
そして、ふと頭に浮かんだのは、あの港で見かけた女性のことだ
った。
——もし、あれが沙也夏だったとしたら。
まだ島内にいるのだろうか。観光? それとも仕事?隣にいた男
性は……夫?
考えれば考えるほど、妄想は膨らんでいく。否定しようとしても、
断定できない自分がいた。帽子の影に隠れた横顔、あの一瞬の視線
——それが、記憶の中の沙也夏と重なっていた。
健太は、頭を振るようにしてその妄想を追い払った。
——せっかく歌を歌おうと思ってニシハマに来たのに。
気持ちを切り替えようと、次に何を歌おうかと考え始めたその時
だった。いきなり、背後から拍手が聞こえてきた。
「すごーい。歌、上手ですね」
驚いて振り返ると、そこにはショートパンツ姿の若い女性が立っ
ていた。健太は、思わず照れ笑いを浮かべながら、軽く頭を下げた。
『——誰だろう……前に会ったことがあったかな……』
女性は、少しはにかみながら、深々と頭を下げた。
「この前はありがとうございました。診療所まで連れていただいて」
その言葉に、健太の記憶が一気に蘇った。
「あっ! あの時の……」
二週間ほど前、接触事故で倒れていた女性。健太が車で診療所ま
で運んだ、あの朝の出来事。
彼女は、あの時よりも元気そうだった。足取りもしっかりしてい
て、顔色も良い。その姿に、健太は安堵と、少しの嬉しさを感じた。
「もう怪我はいいんですか?」
健太は、思いがけない再会に少し戸惑いながらも、声をかけた。
朝の光が柔らかく差し込むニシハマの浜辺。波の音が静かに寄せ
ては返す中、ふたりの距離はまだ少しぎこちなかった。
「はい!お陰様で、だいぶ良くなりました」
女性は、明るく笑いながら答えた。
「今はリハビリも兼ねて、できるだけ歩くようにしています。今朝
もそれで散歩して、ここまで来ちゃいました」
その笑顔に、健太は思わず目を奪われた。
診療所に連れて行ったあの日は、急いでいたこともあり、彼女の
顔をしっかり見ていなかった。こうして改めて向き合うと、健太の
胸にふとした驚きが走った。
——こんな人だったのか。
顔立ちは、誰もが振り返るような可愛らしさがありながら、どこ
か南国の風を感じさせる独特の魅力があった。肩先までまっすぐに
伸びた黒髪は、朝の光を受けて艶やかに揺れていた。Tシャツから
伸びる小麦色の腕は、健康的で、眩しいほどの生命力を感じさせた。
「私、しまぶくろみさとって言います」
彼女は少し照れながら、名乗った。
「しまぶくろは、離島の“島”に、紙袋の“袋”。みさとは、美しい海に、
古里の里って書きます」
健太は、その名前を聞いて、思わず『ぴったりだな』と感じた。
海のそばで出会った彼女に、まるで名前が風景と重なるような感
覚があった。
「俺は……谷川健太といいます」
「あ、あなたが谷川健太さんだったんですね」
「え?知ってるんですか?」
「はい!名前だけは。私、郵便局に勤めているんです。いつだった
かな……里桜さんが来られて。“みーふぁーゆ”の里桜さん。同じ職場
ですよね?」
「ええ、そうです」
「里桜さんが教えてくれたんです。新しく人が入ったって言われて、
名前を教えてくれました」
「なるほど。そういうことか」
健太は、少し照れながら頷いた。
島の中で、自分の名前が知られていることに、どこか不思議な気
持ちがした。
「でもまさか、ここで会えるとは思ってもいませんでした。やっぱ
り、噂は本当だったんですね」
「噂?」
「はい。ニシハマでギターを抱えて歌っている人がいるって」
「……ああ、そのことですか。どうやら、島全体に広まっている様
子ですね」
健太は、苦笑しながらギターのネックを軽く撫でた。
「島全体はわかりませんけど、おばぁたちが郵便局で話していたん
です」
「ハハハ……俺は、井戸端会議のいい話題になっているんですね」
「ここは小さな島だから。ちょっとした事で、話題になるんですよ」
海里はそう言いながら、腕時計をチラッと見た。
「あ、そろそろ戻らなくっちゃ。すいません、気持ちよく歌ってい
るところを邪魔してしまって」
海里は、腕時計を見ながら少し慌てたように言った。
その声には、健太の時間を気遣うやさしさが滲んでいた。
「いえ、いえ。でも怪我が大事に至らなくて、良かったです」
健太はギターを抱えたまま、穏やかに答えた。
波の音が、ふたりの間をやさしく流れていた。
「ほんと、ありがとうございました。それと、兄から言われている
んですが……今回のお礼をしたいので、家で食事に招待したいって
言ってるんです」
海里は、少し照れながらも真剣な表情で言った。
健太は、思わず身を引き気味になった。
「いや、いや。そんな大袈裟にしてもらわなくて、いいですよ」
「もし、ご迷惑でなければですが。兄は義理堅いので、ぜひ来てい
ただきたいのですが。お願いします」
そう言って、海里は両手を合わせて、お願いするような仕草を見
せた。
その姿に、健太は少し困惑しながらも、断りきれない気持ちにな
った。
——ここで断ったら、かえって失礼かもしれない。
「わかりました。来週の月曜日なら公休日なので、いいですよ」
健太がそう答えると、海里の顔がぱっと明るくなった。
「よかったぁ。それじゃ、来週の月曜日の夕方の5時ぐらいに、ど
うですか?」
「かまいませんよ」
「じゃ私、車で迎えに来ます」
「いいんですか?そんな至れり尽くせりで」
「はい!落ち合う場所はどこにしようかな……あ、ここはどうです
か?」
海里は、ふたりが今いるニシハマの浜辺を指さした。
「いいですね。じゃ、ニシハマに夕方五時前に来ときます」
「お願いします。兄も喜ぶと思います」
海里はそう言って、笑顔で立ち去っていった。
その後ろ姿は、朝の光に包まれて、どこか軽やかだった。
健太は、ギターを抱えたまま、しばらくその背中を見送っていた。
——変なことになっちまったな。
そう思いながらも、心の奥には、ほんの少しだけ温かいものが残って
いた。波は、変わらず静かに寄せては返していた。




