39.幻影
週が明けると、送迎業務は一気に忙しくなった。
宿泊客の予約は毎日入り、今週は年輩の女性客が多いようだった。
車内では、彼女たちが楽しそうにおしゃべりをしていて、健太が
話す場面はほとんどなかった。
それでも、車を走らせながら、健太はふと先週のことを思い出し
ていた。
——吉田さんと神田さん。
ふたりが島を離れる朝のこと。港で見せた笑顔。
特に神田さんは、来島した時とはまるで別人のようだった。来た
時の彼女は、表情が硬く、言葉も少なかった。けれど、帰る時は、
目元がやわらかく、口元には確かな笑みが浮かんでいた。
亡くなった彼とのことに、ひとつの区切りがついたのかもしれな
い——健太はそう感じていた。
神田さんは、フェリーに乗る直前まで、何度も何度も健太にお礼
を言った。その言葉は、形式的なものではなく、心の底からの感謝
だった。
そして、最後に彼女は健太に握手を求めた。健太は、迷うことな
くその手を握った。その手は、少し冷たく、でも確かに生きていた。
フェリーが港を離れたあとも、健太はしばらくその場に立ち尽く
していた。海風が吹き、船の白い航跡がゆっくりと消えていくの
を見つめながら。
送迎業務に加え、居酒屋の配膳もこなしながら、健太は忙しい日
々を過ごしていた。
そんなある日、売店の商品を港まで引き取りに行くことになった。
いつものように、少し早めに港へ向かい、フェリーの到着を待つ。
午後一時過ぎの港は、静かに活気づいていた。駐車場には数台の
送迎車が並び、それぞれの運転手が宿の看板を掲げていた。
健太も、車の中でぼんやりとその様子を眺めていた。
そのときだった。
ひと組のカップルが、ゆっくりと港へ歩いてくるのが見えた。
健太は何気なくその姿を目で追った。そして、次の瞬間——思わ
ず目を疑った。
「沙也夏!?」
声が漏れた。自分でも驚くほど、自然に出た名前だった。
カップルは、送迎車に乗り込み、すぐに港を離れていった。
健太は呆然としたまま、車の中で動けずにいた。
——沙也夏が、なぜここに。
いや、見間違いかもしれない。でも、あの横顔、あの歩き方——
頭の中で、過去の記憶がフラッシュバックする。
フェリーの汽笛が遠くから聞こえてきた。商品を積んだ船が、ゆ
っくりと港へ近づいてくる。
健太は、深く息を吐いた。今は、仕事だ。過去の影に引き込まれ
るわけにはいかない。けれど、心の奥には、確かに何かが揺れてい
た。それは、再会の予感か。それとも、見間違いだったという安堵
か。
商品を車に載せ終えると、健太は港を出発した。
午後の陽射しが、フロントガラス越しにじわじわと差し込んでく
る。大通りに出ると、前方の車と一定の距離を保ちながら走り始め
た。
目は前を見ている。けれど、頭の中は、さっき港で見た光景に支
配されていた。
——やはり、見間違いだったのだろうか?
帽子を被っていたし、はっきりとは見えなかった。でも、一瞬顔
を上げた時、確かに見えた気がした。あれは……沙也夏だった。一緒
にいた男性は、夫だろうか?それとも、ただの旅行仲間?でも、な
ぜ沙也夏が波照間島に——
思考がぐるぐると回り始める。言葉にならない感情が、胸の奥で
ざわついていた。気づけば、前方の車との間隔が広がっていた。
アクセルを踏む力が、知らず知らずのうちに弱まっていたらしい。
後方から、クラクションが鳴った。
健太はハッと我に返った。
——いかん、いかん。こんな考え事をしていると、事故を起こして
しまう。
運転に集中しなければ。健太はそう思い、ハンドルを握り直した。
アクセルを踏み込み、前方車との距離を再び縮めていく。
窓の外では、サトウキビ畑が風に揺れていた。
その揺れは、健太の心の揺れと、どこか重なっていた。
——沙也夏が本当にここにいるのなら。
それは、偶然なのか、それとも何かの始まりなのか。けれど今は、
目の前の道に集中するしかなかった。
前方車の横には、自転車が並走していた。健太は、慎重に距離を
保ちながら走っていた。
——自転車には気をつけなければ。
そう思った矢先だった。前方車が、ふらりと車線を寄せた。
そして、こともあろうに自転車に接触した。
「危ない!」
健太が声を上げる間もなく、自転車は横転した。乗っていた人物
は、路面に投げ出されるように倒れ込んだ。
前方車は、止まることなくそのまま走り去っていった。その後ろ
姿は、まるで何もなかったかのように遠ざかっていく。
健太は、考える暇もなく車を路肩に停めた。
エンジンを切ると、すぐにドアを開けて外へ飛び出した。
「大丈夫ですか!」
倒れている人に駆け寄り、声をかける。地面には、自転車が無惨
に横たわり、荷物が散らばっていた。倒れているのは若い女性のよ
うだった。肩で息をしているが、意識はあるようだ。
健太は、しゃがみ込みながら、できるだけ落ち着いた声で言った。
「立てますか?」
女性は、地面に手をついたまま、しばらくうつむいていた。肩で
浅く呼吸をしながら、痛みをこらえているようだった。健太の言葉
に反応しようとするが、声にならない。
その沈黙の中で、彼女は自分の身体の状態を、ゆっくりと確かめ
ているようだった。
もう一度、立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、膝が震えて
崩れそうになる。その瞬間、彼女はようやく現実を受け入れたよう
だった。
顔を上げると、健太の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、痛
みと、少しの戸惑い、そして助けを求める光が宿っていた。
「病院に行ったほうがいいですね。俺車なんで、乗せて行きます よ」
「……すみません。お願いしてもいいですか」
女性の声は、かすかに震えていた。健太は、そっと彼女の腕を取り、
自分の肩を差し出した。
「ゆっくりでいいですよ」
そう言いながら、彼女を支えて立ち上がらせる。
ふたりは、ゆっくりと車へ向かって歩いた。足を引きずるように
して歩く女性の動きに合わせて、健太は歩幅を調整した。
助手席のドアを開けると、次の問題が立ちはだかった。
——ハイエースの座席は高い。
足を痛めている彼女には、自力で乗るのは難しい。
健太は、少しだけ躊躇した。けれど、すぐに決意を固めた。
「失礼します!」
そう言って、彼女の体をそっと抱きかかえた。軽い——という
より、力が入っていない。彼女は、少し驚いたように目を見開い
たが、すぐに目を閉じた。助手席に乗せると、健太は急いで運転
席に回った。
その途中で、ふと胸の奥に何かがよぎった。
——なんかこの状況、過去にもあったような……
記憶の断片が、風のように通り過ぎていく。誰かを抱きかかえた
こと。誰かの痛みを支えたこと。けれど今は、目の前のことが優先
だった。
運転席で、健太はすぐに携帯電話を取り出し、宿へ連絡を入れた。
電話口には里桜が出た。健太は簡潔に事情を説明し、病院のこと
を尋ねた。
「一応、波照間島には診療所があるけど、症状によっては島外に行
かなきゃいけないかもね。でも、外科もあるから、まず診てもらっ
たほうがいいと思う」
里桜はすぐに診療所へ連絡を入れてくれることになった。
健太は診療所の住所を聞き、カーナビで確認する。
ここから10分ほどで行けそうだった。車を走らせながら、健太は
助手席の女性の様子を時折気にした。
彼女は静かに座っていたが、痛みをこらえているのがわかった。
診療所に着くと、玄関前には医師と看護師が待っていてくれた。
その姿に、健太は少しだけ胸を撫で下ろした。診療所内に女性を
運び入れると、すぐに診察が始まった。健太は、すぐに帰ろうかと
も思ったが、もし診療所では対応できないとなれば、家族への連絡
が必要になる。そう思い、待合室で静かに待つことにした。
しばらくして、医師が診察室から出てきた。
「骨には異常ありません。打撲ですね。しばらく安静にしていれば
大丈夫です」
その言葉に、健太はホッと胸を撫で下ろした。大事にならずに済
んだことが、何より嬉しかった。
女性は、自分で家族に連絡するということで、健太の役目はここ
で終わった。
診療所を後にすると、外の風が少しだけ涼しくなっていた。
健太は、車に乗り込み、エンジンをかけた。その音は、どこか安
堵の響きを含んでいたように感じられた。




