38.ぬちどぅたから
「こんばんは」
聞き慣れない声に、健太はギターの音を止めた。その声は、風に
混じって静かに届いてきた。
顔を向けると、そこには神田さんの姿があった。彼女の声を聞く
のは、これが初めてだった。昨日の送迎でも、宿での案内でも、彼
女はほとんど言葉を発していなかった。だからこそ、その「こんば
んは」の声は、健太の胸にすっと染み込んだ。
「あ、こんばんは」
健太はギターを膝に置きながら、やわらかく返した。
「すいません。せっかくギターを弾いているところを」
「いやいや、いいですよ」
「ここは風が気持ちいいですね」
「そうですね。夕方になると、さすがに涼しくなります。ニシハマは
もっと気持ちいいですよ」
「そうなんですね。明日でも行ってみようかな」
「ぜひ」
健太は、少しだけ笑った。
「あのう、突拍子しのないことをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
神田さんの声は、風に混じるように小さかった。
健太はギターの音を止め、彼女の顔を見た。その表情には、何か
を言おうとしている迷いがあった。
「まあ、わかる範囲であれば……」
「波照間島は散骨って、できるんでしょうか?」
「散骨……遺灰のことですか?」
「ええ。そうです」
健太は、少しだけ言葉に詰まった。
「それは……どうかな」
その答えに、神田さんは大きくため息をついた。
「やはり無理か」と、もう一度深く息を吐いた。
健太は、彼女の横顔を見ながら、静かに言った。
「なんかわけありのようですね。よかったら、話聞かせてもらえま
せんか?」
ベンチの隣を軽く叩いて、座るよう促すと、神田さんはゆっくり
と腰を下ろした。
風がふたりの間を通り抜けていく。空は、少しずつ茜色から群青
へと変わり始めていた。
神田さんは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「以前、波照間島にはふたりで来たんです。連れは婚約者の男性で
した。彼は海が大好きで、ひと目でニシハマを気に入って……新婚
旅行は沖縄にしようって言ってくれて。離島をめぐって、最後はこ
こ、波照間島に来ようって……」
言葉が、風に乗ってゆっくりと流れていく。
健太は、何も言わずに耳を傾けていた。
「でも……彼は交通事故で、帰らぬ人になってしまって」
その言葉のあと、神田さんは静かに目を閉じた。
風が、彼女の髪をそっと揺らした。神田さんは一息つくと、目線
を遠くに向けた。その視線の先には、何もない空と海が広がってい
た。けれど、彼女が見ていたのは、きっと“かつてそこにいた人”だ
った。
「彼がいなくなって、約三か月です。私はまだ彼のことに区切りを
つけることはできません。でも自分では、次のステップに進まない
といけないと思ってます。そのためにここに来ました」
その言葉は、風に乗って健太の胸に届いた。
静かで、でも確かな決意だった。
「それで、その人が大好きだったニシハマで散骨したいと…いうこ
とですか」
「ええ。でも無理ですよね」
健太は、言葉を選びながら答えた。
「うーん。ニシハマは無理かもですね。散骨するってことは……ち
ょっと言いにくいんですけど、海が汚れることですから。ここの島
の人たちは海が汚れるのを嫌いますから。それにニシハマには観光
客もいますし、ホテルもすぐそばにあるので、散骨していたら通報
されるかもしれない」
神田さんは、がっくりと肩を落とした。その姿は、言葉にできな
いほど切なかった。
健太は、なんとかできないかと心の中で探した。
そして、ふとある場所を思い出した。
「ニシハマは無理でも、別の所だったら可能性はあると思います」
「えっ、そうなんですか」
神田さんの目が、少しだけ光を取り戻した。
「ニシハマに劣らない美しい海が広がってるビーチがあります。そ
こは観光客は皆無です。ホテルも近くにないし。ただ、俺の一存で
は決められないので、聞いてみますよ」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけします」
「いや、まだできるかどうかわかりませんけど」
健太の言葉は、慎重でありながら、確かな希望を含んでいた。
神田さんは、ふっと小さく息を吐いた。その吐息は、少しだけ軽
くなったように見えた。
島の夕暮れは、ふたりの間に静かに降りていた。風が、ベンチの
下の砂をさらりと撫でていた。
健太は、神田さんの願いを叶えるには、地元の理解が不可欠だと
感じていた。とみさんに直接相談することも考えたが、彼女は生粋
の島の人。海に対する思いも、土地への敬意も深い。
いきなり話すには、少し重すぎるかもしれない——
そう思い、まずは里桜に相談することにした。
売店の裏で、健太は静かに話を切り出した。神田さんの過去、ニ
シハマへの思い、そして散骨の希望。
話し終えると、里桜はしばらく黙っていた。
「……うーん。正直、あまりいい気はしないな」
その言葉に、健太はうなずいた。予想通りだった。
けれど、里桜はすぐに続けた。
「でも、とみさんに話すなら、私も一緒に行くよ。ひとりで言うよ
り、ふたりのほうがいいと思う」
その言葉に、健太は少しだけ救われた気がした。
神田さんが島に滞在しているのは、今週いっぱい。
時間は限られている。
ふたりは、今日のうちにとみさんの家へ向かうことにした。
外は、午後の光が少し傾き始めていた。サトウキビ畑の影が長く
伸び、風が少しだけ涼しくなっていた。
健太は、里桜と並んで歩きながら、心の中で思った。
——この島で生きるということは、誰かの思いを受け止めることで
もあるんだな。
とみさんの家の縁側が見えてきた。その先に、島の答えがある気
がした。
晩御飯の席で、健太はとみさんにそっと相談を持ちかけた。
最初は笑顔だったとみさんの顔が、話の途中で一変した。
眉が寄り、口元がきゅっと引き締まる。
ニシハマでの散骨は、やはりダメだった。
「あそこは波照間島を象徴する場所だからねぇ。観光客も多いし、
島の顔みたいなもんさぁ」
その言葉には、島への深い敬意が込められていた。
健太はうなずきながら、次の切り札である、秘密のビーチのこと
を話してみた。
「じゃあ……あの、秘密のビーチはどうかな」
とみさんは目を見開いた。
「あんた、よく見つけたねぇ。そこは島民でもあまり行かない所さ
ぁ」
「たまたまだよ。通りすぎようとしたんだけど、なんか潮の香りが
するなあと思って、思いきって行ってみたら海だったわけ」
「猫みたいねぇ。でも大変だったでしょ」
「うん。まあね」
本当は佐藤に教えてもらった場所だったが、今は言わないほうが
いい気がした。健太は、静かにその事実を胸にしまった。
とみさんは、しばらく黙って目を閉じた。
顔を少し上に向け、何かを思い出すように、何かに問いかけるよ
うに。深い沈黙があった。
数分後、パッと目を開けると、言った。
「いいかもしれんねぇ、あそこなら。ちょっと待って」
とみさんは立ち上がり、電話の受話器を取りダイヤルした。
受話器の向こうで誰かと話し始める。声の調子から、少し揉めて
いるようだった。けれど、とみさんの口調は落ち着いていて、説得
するような響きがあった。十分ほどのやりとりの末、電話は静かに
終わった。
とみさんは受話器を置き、いつもの笑顔に戻って言った。
「オッケーさぁ。許可は取ったからねぇ。別に悪いことをするわけ
ではないし、亡くなった人を弔うんだから、海の神様も許してくれ
るさぁ」
その言葉に、健太と里桜は顔を見合わせ、笑顔で「よかった」と
言い合った。その笑顔には、神田さんの願いが叶うことへの安堵と、
島の人々の懐の深さへの感謝が込められていた。
外では、夜風が縁側を通り抜けていた。
その風は、まるで海の神様がそっと頷いているようだった。
翌朝、健太が朝食の席で報告をすると、吉田さんと神田さんは顔
を見合わせ、涙を浮かべて喜んだ。神田さんの願いが叶うことに、
吉田さんは心から安堵しているようだった。
どうやら、吉田さんは神田さんの親友で、相談を受けて観光を兼
ねて付き添って来たらしい。
「すぐにでも案内してほしいです」
ふたりの言葉に、健太はすでに女将さんから仕事を離れる許可を
取っていた。
すべてが、静かに、でも確かに動き出していた。
午前中、健太は自転車でふたりを案内した。秘密のビーチまでの
道のりは、舗装されていない細道を抜ける必要があり、ジーンズ姿
のふたりは四苦八苦していた。
けれど、笑いながら「運動不足だわ」と言う吉田さんの声が、空
気を軽くしていた。
そして、ビーチに到着した瞬間——ふたりは感嘆の声をあげた。
今日も海は、太陽の光を浴びて、きらきらと耀いていた。波は穏
やかで、風はやさしく、空はどこまでも澄んでいた。
ビーチには、健太とふたり以外、誰もいなかった。
その静けさが、まるで海がふたりを待っていたかのようだった。
吉田さんは、神田さんの肩にそっと手を置いた。
「さあ、行っといで」
神田さんは小さく頷き、リュックから小さな瓶を取り出した。
その動作は、まるで何かを抱きしめるように、慎重で、やさしか
った。健太は、その瓶の中に遺灰が入っているのだと察した。
神田さんは瓶を両手で持ち、海へ向かって歩き出した。一歩、一
歩、踏みしめるようにして。
波打ち際に着くと、神田さんは静かに座り込んだ。
風が髪を揺らし、波が足元を撫でていた。
彼女は、しばらくじっとしていた。その姿は、祈りでもあり、別
れでもあり、そして再会でもあった。
健太と吉田さんは、少し離れた場所から、その様子を静かに見守
っていた。
「今日は、本当にありがとうございます」
吉田さんは深々と頭を下げた。
その姿には、感謝だけでなく、安堵と祈りが込められていた。
「良かったです。お役に立てて」
健太の声は、海風に溶けるようにやわらかかった。
「彼女、彼が亡くなって一ヶ月くらいは、家に閉じこもっていまし
た。私が尋ねても、家のドアを開けてくれなくて。ようやく二ヶ月
くらいになって……会ってくれるようになりました」
「そうでしょうね。結婚まで約束した人が亡くなったんですからね。
それで、波照間に来ようと言ったのは、彼女なんですか?」
「いえ、私が提案しました。彼女から、亡くなった彼が波照間島の
海が大好きだったことを聞いて。まあ、散骨は彼女が口にしたんで
すが。で、約束したんです。波照間島で区切りをつけようって」
「よく、そこまで立ち直りましたね」
「そうですね。でも後から聞いた話によると、彼女命を絶とうと考
えたこともあると」
その言葉に、健太は胸の奥が静かに揺れた。
そして、ふと頭に浮かんだ言葉を口にした。
「ぬちどぅたからって言葉、知っていますか?」
「ぬちどぅたから?いえ。すみません。勉強不足で」
「命こそ宝っていう意味です。お金やどんな所有物よりも、大事な
ものは命。失うと、二度と手に入らない。まあ、俺も島のおばぁか
ら聞いたんですけどね」
「いい言葉ですね。彼女にとっての大事な人は亡くなってしまった
けど、亡くなった人のためにも、彼女は生きなければいけませんね」
吉田さんの頬に、うっすらと涙が浮かんだ。その視線は、波打ち
際に座る神田さんを静かに見つめていた。
健太も、大きく頷いた。
そしてその瞬間——神田さんの手から、遺灰が海へと流れていっ
た。風がふっと吹き、波がやさしく瓶の底を撫でた。白く舞う灰が、
陽光の中できらめきながら、海へと還っていく。
——今、魂は海に還っていったんだな。
健太は、胸の奥で静かにそう思った。
そして、沖縄には人を元気にしてくれる何かがある——
それは、風かもしれない。海かもしれない。あるいは、こうして誰
かと心を通わせる時間そのものかもしれない。
空は、どこまでも青かった。そして、波は静かに、静かに、彼女の
祈りを受け止めていた。




