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彼方からの風  作者: 杉本敬
第4章
35/53

35.再び波照間島へ

 健太は、テレビの画面をじっと見つめていた。天気予報のコーナ

ーが始まると、自然と背筋が伸びる。

 昨日から、沖縄の天気を注意深くチェックしていた。画面の右下

に表示された「梅雨前線」の文字が、健太の目に焼きついた。


 圭子とも、純子とも、ようやく“和解”できた。心の中に長く沈ん

でいた重たい感情が、少しずつほどけていった。

 今の健太には、もう迷いはなかった。

 次の行動に移りたい――その思いが、胸の奥で静かに高まってい

た。次の行動とは、もちろん波照間島に行くことだ。


 早く島に戻り、仕事を覚えたい。あの海のそばで、あの風の中で、

自分の新しい日々を始めたい。

 だが、天気予報によると、沖縄の梅雨明けはまだのようだった。

 雨はそれほど降っていない。けれど、梅雨が明けていない以上、

船は出ない。


 健太は、画面を見つめながら、心の中でつぶやいた。

「早く……明けてくれないかな」

 飛行機の予約もできない。身動きが取れないこの時間が、健太に

はもどかしく感じられた。パソコンを開き、航空会社の予約サイト

を見ながら、ため息をひとつ。


 その時、携帯電話が鳴った。画面を見ると、【佐藤】の文字が表

示されていた。健太は、思わず身を乗り出した。

「ひょっとして……波照間島からか?」

 慌てて携帯を手に取り、通話ボタンを押す。

「はい。谷川です」

「佐藤です。今、大丈夫ですか?」


 電話越しの佐藤の声は、いつも通り穏やかだったが、どこか急ぎ

の気配が感じられた。

「ええ。大丈夫です」

「準備のほう進んでますか?」

「もうほぼ終わっていて、後は飛行機の予約だけです」

「それは良かった。それで急なんですけど、明後日ぐらいまでこっ

ちに来れますか?」

 健太は一瞬、言葉に詰まった。


「えっ、でも梅雨はまだ明けてないですけど」

「まあそうなんですが……どうも今年は雨があまり降らないみたいな

んですよ」

 健太は、佐藤の言葉を聞きながら、パソコンを開いて天気予報サ

イトにアクセスした。画面には、沖縄地方の今週の天気が並んでい

る。確かに、曇りが続いているが、雨の予報はほとんどなかった。


「空梅雨ですかね」

「いや、おそらく来週ぐらいから本格的な梅雨に入ると思います。

それで、女将さんから言われたんですけど、今週中にこっちに来て

もらって、仕事を覚えてもらうのはどうだろうかと。今週だったら

予報では雨が降らないから、フェリーも大丈夫みたいなので」

 健太は、画面の曇りマークを見つめながら、静かにうなずいた。


「なるほど。俺のほうはいいですよ。早くそちらに行きたいと思っ

てましたから」

「じゃ、急ですみませんが。飛行機の日時が分かったら連絡くださ

い。港には僕が迎えに行きますから」

「了解です。では、今から飛行機を予約します。日時は後程、連絡

します」


 佐藤との電話を終えると、健太はすぐにパソコンの前に戻った。

 画面には、航空会社の予約サイトが開いたままになっている。

 指先が自然とマウスを動かし、便の検索を始めた。

「明後日……空いてるかな?」


 画面に表示された便の一覧を見て、健太は少しだけ眉をひそめた。

 空席はあったが、料金が思った以上に高かった。急な予約だから

仕方ないとはいえ、胸の奥に小さなため息がこぼれそうになる。

 それでも、健太は迷わず予約ボタンを押した。今は、島へ向かう

ことが何よりも大事だった。予約を完了すると、確認メールが届い

た。健太はその内容を佐藤に連絡した。


 すると、すぐに返信があり、航空券代とフェリー代は【みーふぁ

いゆー】側で負担するとのことだった。

 その言葉に、健太は思わず肩の力が抜けた。

「助かった……」

 割高な航空券の金額を見ていたときの緊張が、ふっとほどけてい

く。佐藤の気遣いと、女将さんの配慮が、健太の胸にじんわりと染

み込んでいった。


 窓の外を見ると、福岡の空は少し曇っていた。

 けれど、健太の心の中には、波照間島の青が静かに広がっていた。

「いよいよだな……」


               *


 明後日、健太が波照間島に着いたのは、午後五時を少し回った頃

だった。急な手配だったため、午後からの便しか取れなかった。

 港に降り立った瞬間、島の空は灰色の雲に覆われていた。けれど、

湿気を含んだ風はどこか優しく、健太の頬を撫でていった。


 宿に着くと、女将さんがすぐに出迎えてくれた。

 その表情には、申し訳なさと安堵が混ざっていた。

「すみませんねぇ。急に来てもらって。来週から天気が悪くなりそ

うなので」

 健太は、女将さんの言葉に穏やかに微笑んだ。

「いえ。家に居てもすることはないので。早く仕事を覚えたいと思

っていたので、むしろ良かったです」

「そう言ってもらうと、助かります」

 女将さんの顔が、ふっと緩んだ。その後、里桜とも再会した。


 彼女は、健太の姿を見た瞬間、ほっとしたように笑った。

「谷川さんがほんとに来てくれるか心配だったのよ。ここは最南端

の離島だし。遠いでしょ。一回家に帰ると、遠いなぁと思ってしま

うかと思って」

 健太は、少し照れくさそうに笑った。

「それはないです。逆に南の島で生活できるチャンスなんて、なか

なかないですから。期待のほうが大きいです。今日からよろしくお

願いします」

「こちらこそ。よろしくお願いします。おばぁも喜ぶと思います」

 その言葉に、健太の胸にふっと灯るものがあった。


 おばぁの縁側――あの風が通り抜ける静かな場所。

 健太は、あそこで過ごす日々を思い浮かべながら、胸の奥が高鳴

るのを感じていた。

 ただ、今日はもう夕方だった。島の空は、ゆっくりと夜の色に染

まり始めていた。おばぁの家に行くのは、明日にすることにした。


 宿の部屋に入ると、窓の外には静かな海が広がっていた。

 健太は、スーツケースの横に腰を下ろしながら、深く息を吸った。

 この島で、何かが始まる。その予感が、胸の奥で静かに鳴ってい

た。

「明日から、ここが俺の場所になるんだな……」

 そう思いながら、健太はわくわくした気持ちで、静かに眠りにつ

いた。


 翌日、健太は佐藤の車に乗せてもらい、おばぁの家へ向かった。

【みーふぁいゆー】からは自転車でも行ける距離だったが、スーツ

ケースがあるため車での移動となった。

 空はどこか重たい色をしていた。けれど、島の空気は湿り気を含

みながらも、どこか優しく、健太の胸を静かに撫でていた。


 閑散期ということもあり、佐藤と里桜も同行してくれた。

 車内では、窓の外に広がるサトウキビ畑や、遠くに見える海の色

が、健太の目に新鮮に映った。

 おばぁの家に着くと、玄関が開け放たれていた。風がゆるやかに

吹き抜け、家の中からは鳥の声と、どこか懐かしい匂いが漂ってき

た。


「おばぁ、来たよ!」

 里桜が玄関先で声をかけると、奥から足音が聞こえ、ほどなくし

ておばぁが姿を現した。満面の笑みを浮かべたその顔は、まるで太

陽のようにあたたかかった。

「よく来たねぇ。待ってたさぁ。さあさあ、上がって」

 促されるままに、健太と里桜は家の中へ入った。


 佐藤は用事があるとのことで、玄関先で軽く手を振って帰ってい

った。おそらく、小浜島のホテルでの準備があるのだろう。

 居間に案内されると、畳の香りと、風に揺れるカーテンの音が健

太を迎えた。とみさんが出してくれたのは、よく冷えたさんぴん茶

だった。グラスの表面に浮かぶ小さな水滴が、島の湿度を物語って

いた。


「疲れたでしょ」

 とみさんが、労わるように声をかける。

「いえ。そうでもないです。家でゆっくりして来ましたから」

「そう。それなら良かった。あ、自己紹介まだしてなかったねぇ。

比嘉とみと申します。よろしくお願いします」

 とみさんは、ぺこりと頭を下げた。その仕草は、年齢を感じさせ

ないほど軽やかで、どこか品があった。

「谷川健太です。これからお世話になります」

 健太も、深く頭を下げた。

 この島での暮らしが、いよいよ始まる——その実感が、胸の奥に

じんわりと広がっていた。


「それから里桜ちゃん。家を紹介してくれて、ありがとうねぇ」

「そんな、たいしたことじゃないって、おばぁ。たまたま谷川さん

と話していて、ここに空き部屋があることを思い出しただけよ」

「おかげで、離れが無駄にならなくて良かったさぁ」

 とみさんは、ハハと笑いながら、嬉しそうに目を細めた。

 その笑顔は、島の光そのもののように、健太の心をやさしく照ら

した。健太はその様子を見て、ふと心の中で思った。

『——ほんと、笑顔が可愛い人だな』


 挨拶が終わると、健太はスーツケースを持って離れへと向かった。

 とみさんの家の母屋から、庭を挟んだ先にあるその離れは、前回

来たときよりもどこか整って見えた。

 玄関の引き戸を開けると、ふわりと風が抜けていく。その風には、

畳の香りと、磨き上げられた木の匂いが混ざっていた。


 部屋には、円卓とたんすが置かれていた。どちらも年季が入って

いて、木目には時間の積み重ねが刻まれていた。

 縁側の廊下は黒光りしていて、丁寧に磨かれたことがすぐにわか

った。


健太は部屋の様子を見渡しながら、ぽつりとつぶやいた。

「前回来た時より、きれいになっている気がする……」

「一応、掃除はしときました」

とみさんが、少し照れくさそうに言う。

 すると、すかさず里桜が笑いながら言葉を添えた。

「おばぁは掃除が得意だから」

「そんなことないさぁ」

 とみさんはそう言いながら、縁側のドアを慣れた手つきで開けた。


 外の光が差し込み、部屋の空気が一気に動き出す。風が入り込み、

カーテンがふわりと揺れた。縁側の先には、緑葉植物の間に赤やピ

ンクのハイビスカスが咲いていた。

 前回は気づかなかったその彩りに、健太は思わず目を細めた。

「……こんなに咲いてたんだな」


 その後、健太はスーツケースを開き、持ってきた服をたんすにし

まい始めた。持参したのは、ほとんどが服装関係だった。

 いつまで島で働くか分からないため、四季折々の服を選んで持っ

てきた。下着類はすべて新しく買い揃えていた。


 たんすの引き出しを開けると、木の香りがふわりと立ちのぼった。

 その香りは、どこか懐かしく、健太の心を落ち着かせた。

 日用品については、女将さんに言えば用意してくれるとのことだ

った。その気遣いにも、健太は静かに感謝していた。


 食事については、離れではなく母屋で、とみさんと一緒に食べる

ことになっていた。わざわざ離れまで運んでもらうのは申し訳ない

という健太の思いもあった。

 里桜の話では、とみさんの料理は素朴で美味しいという。

 早番のときには、里桜も一緒にご馳走になりに来ることがあるら

しい。


 その話を聞いて、健太はふっと笑った。

「食事も楽しみになってきたな……」

 窓の外では、ハイビスカスが風に揺れていた。

 その揺れは、まるで健太の新しい生活の始まりを祝福しているよ

うだった。

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