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彼方からの風  作者: 杉本敬
第3章
34/53

34.帰福

 健太は、働くことが決まったことで、明日福岡に帰ることにした。

 沖縄はまだ梅雨入り前。空は高く、風も穏やかだった。

 今なら、船は石垣島まで問題なく渡航できそうだった。


 荷作りは、思ったよりもあっさり終わった。持ってきた荷物は少

なく、旅の身軽さがそのまま反映されていた。

 ただ、ひとつだけ悩んだのがギターだった。この島で、詞を紡ぎ、

旋律を探した相棒。けれど健太は、それを置いていくことにした。

“戻ってくる”という約束のように。


 翌朝。宿を後にしようとした健太に、女将さんが声をかけた。

「もし、気が変わって働くのをやめたい場合は、必ず連絡してくだ

さいねぇ」

 その言葉には、優しさと少しの心配が滲んでいた。

 健太は笑って答えた。

「それはないと思います」

 その笑顔は、決意を含んでいた。


 港までの道のりは、佐藤が車で送ってくれた。車内では、特別な

会話はなかった。けれど、窓の外に流れる風景が、健太の胸に静か

に染み込んでいった。

 港に着くと、フェリーのエンジン音が遠くで響いていた。


 別れ際、佐藤が言った。

「心変わりしないこと願っています」

 健太は苦笑しながら、肩をすくめた。

「大丈夫ですよ。ギターを人質代わりに置いてますから」

 その言葉に、佐藤は笑った。

 ふたりの間に、言葉以上の信頼が流れていた。フェリーに乗り込

む健太の背中に、風がそっと吹いた。


               *


 福岡に戻って三日が経った。健太は、旅の疲れを言い訳に、何も

せずに過ごした。窓の外では、街の音が遠くに響いていたが、彼の

心はまだ島の面影を探していた。


 そして今日、沖縄が梅雨入りしたという知らせが届いた。

 波照間島へ渡る船は、しばらく出ないだろう。

 それでも健太は、行く準備を始めようと思った。今回は、バッグ

ひとつでは足りない。島での暮らしを見据えた荷物が必要だった。

 スーツケースを買いに出かけた。店の棚に並ぶ色とりどりのケー

スの中から、健太は静かなグレーのものを選んだ。派手さはないが、

どこか旅に馴染む色だった。


 準備や買い物に追われるうちに、一週間があっという間に過ぎた。

 衣類、日用品、そして少しの本とノートを一冊入れた。ノートは

詞を書くためのツール。


 沖縄はまだ梅雨の真っ只中。波照間島へ渡るには、もう少し待た

なければならない。その間に、健太は【ロコ】のマスターと麗子に

連絡を取った。

「【みーふぁいゆー】で働くことになりました」

 ふたりはすでに女将さんから話を聞いていたようで、健太の報告

を喜んでくれた。

 健太は、窓の外に目をやった。福岡の空も、どこか重たく曇って

いた。けれどその雲の向こうに、彼は波照間の青を思い描いていた。


 マスターや麗子に連絡をとった後、ヒロシに連絡をした。

 夜の部屋に、携帯の通話音が静かに響いた。三回目のコールで、

ヒロシが出た。

「おう、健太か。帰ってきたのか?」

「ああ、一時的にな」

「なんだよ、その“一時的”っていうのは?」

 健太は、少し笑いながら答えた。

「実はな、沖縄で働くことにした」

「えっ!沖縄で……なんで沖縄なんだよ」

 驚きの声が、電話越しに響いた。


 健太は、波照間島での出来事を、ゆっくりと話し始めた。

 ニシハマの海、里桜との出会い、離れの縁側、そして【みーふぁ

いゆ】での仕事の話。

 ヒロシは最初こそ驚いていたが、話を聞くうちに、少しずつ理解

を示してくれた。


「そうか。波照間……だったけ。気に入ったということか」

「まあ、そういうことだ。あんな青い海見たのは初めてだったしな。

気に入ったというより、一目惚れという感じかな」

「しかし、あくまでバイトなんだよな」

「ああ」

「場所が気に入ったからって、バイト生活を続けるってことはする

なよ」


 健太は、里桜にも同じことを言われたことを思い出し、少し苦笑

した。

「わかってるよ。このまま仕事をしないのはいけないことは、ずっ

と思っていたから、バイトしながら考えてみるよ」

「それならいいが。もし健太が福岡から離れるなんてことになった

ら、バンドがほんと解散なんてことになりかねないからな」

「ヒロシ……悪いけど、今はバンドのことは考えられないかな。仕事

のことが優先事項だから」

「悪い、悪い。余計なことだった」


 会話が少し落ち着いたところで、ヒロシがふと思い出したように

言った。

「そういえば仕事で思い出したんだが、健太の前職の会社の課長の

ことなんだが」

「課長?ああ、あの課長か。どうかしたのか?」

「会社を辞めたらしいぞ。心の病みたいだ」

「うつ病か何かということか?」

「そうだろうな」

「やはり、コンビニの業務が原因か……」

「たぶん…コンビニ業界は厳しいからな」

「健太も辞めて正解だったかもな。ま、いずれにせよバイトでも仕事

が決まったのは良かったな」

「ありがとう。あ、長電話になってしまったな。圭子にもよろしく言

っておいてくれ」

「わかった。純子たちにも連絡しておく。じゃ、またな」


 通話が切れたあと、健太はしばらく携帯を見つめていた。

 課長がうつ病で退職したという話は、少なからずショックだった。

『課長が……うつ病って……』

 在職中は、課長に対して不満ばかりを抱いていた。けれど、こう

して病気で辞めたと聞くと、同情せざるを得なかった。健太の前職

の会社は、ヒロシの会社と取引があった。だからこそ、こうした情

報も耳に入ってくる。


 健太は、窓の外を見つめながら、静かに思った。

「次に選ぶ会社は、慎重にならないとな……」

 夜の福岡は、しとしとと雨が降っていた。その音が、健太の心の

奥に、静かに染み込んでいった。


 翌日、スーツケースが届いたので、着替えなど波照間島に持って

行く荷物をスーツケースに詰め込んだ。

 荷造りは、ただの作業ではなく、心の整理でもあった。

 Tシャツ、短パン、サンダル、そして里桜にもらった小さな貝殻

のキーホルダー。それらを丁寧に詰めながら、健太は少しずつ「戻

る」準備をした。そして、スーツケースのファスナーを閉じた瞬間、

健太は小さく息を吐いた。


 ベッドに横になり、イヤホンから流れてくる『島人ぬ宝』の旋律

に身を委ねる。三線の音が、波の音に重なって聞こえるような気が

した。

 目を閉じると、波照間の海が広がる。ニシハマの白い砂、透き通

る青、風に揺れるサトウキビ畑。あの島の空気は、福岡の夜とはま

るで違っていた。


「島人ぬ宝」という言葉が、胸の奥に静かに響く。

 それは、島に生きる人々の誇りであり、健太にとっては、これか

らの生き方への問いかけでもあった。

 音楽が終わる頃には、まぶたが重くなっていた。


 寝落ち寸前の意識の中で、健太はふと思った。

——あの海に、もう一度会えるんだ。

 その想いが、夢と現実の境界をやさしく溶かしていった。


 その静寂な時間を突き破るように、インターフォンが鳴った。

 健太は、音楽の余韻に包まれていた身体を、反射的に跳ね起こし

た。

『誰かな……』

 胸の奥に、少しだけざわつくものを感じながら、スピーカーに向

かう。

「はい」

「私……圭子」


 その声を聞いた瞬間、健太の心臓が一拍、強く打った。

 思いがけない名前だった。

「え、今開けるよ」

 慌てて玄関のドアを開けると、そこには圭子が立っていた。

 少しだけ髪が伸びていて、表情にはどこか迷いが浮かんでいた。

 けれど、その目はまっすぐに健太を見ていた。


「健太……久しぶり」

 圭子は、ぎこちない笑顔を浮かべながら言った。

 その笑顔には、懐かしさと、少しの緊張が混ざっていた。

「久しぶりだな。どうしたんだよ急に」

 健太の声も、どこか硬かった。


“あれ以来”の再会。言葉にできない空白が、ふたりの間に流れてい

た。

「ヒロシから、帰ってきてるって聞いて……」

「そうか。まあ、上がれよ」

「うん」

 圭子は、少し遠慮がちに玄関をくぐった。

 健太は、彼女の背中を見ながら、胸の奥に小さな波が立つのを感

じていた。テーブルの上に置いてあったイヤホンを外し、音楽を止

めた。


「うわぁ、さすが焼けたね」

 玄関で靴を脱ぎながら、圭子が健太の顔を見て言った。

 その声には、驚きと少しの照れが混ざっていた。

 健太は、少し笑って答えた。

「まあな。沖縄はもう初夏みたいだったから。それに、こっちとは

陽射しが違うからな。海ばかり行っていたよ。あ、適当に座って」

 圭子は持っていた紙袋をテーブルに置き、そっと腰を下ろした。


 紙袋の口を開けると、ふわりとパンの香りが広がった。

「お昼食べた?」

 健太は置時計に目をやった。針は、もうすぐ12時を指そうとして

いた。

「もうそんな時間か。まだ、食べてないよ」

「良かった。ベーグル買って来たの。食べない?」

「ありがとう」

「え~と。コーヒーはどこかな。あ、冷蔵庫だね」

 圭子は立ち上がり、冷蔵庫からインスタントコーヒーの瓶を取り

出した。やかんに水を入れ、火をつける。その手際は、まるで以前

と変わらない。


 圭子は前に純子と供に、健太の家に頻繁に出入りしていたので、

何がどこにあるかを把握していた。その頃と、あまり変わっていな

い。家具の配置も、棚の上の小物も、どこか懐かしいままだった。

 圭子は、棚の上のマグカップを手に取りながら、ふと口にした。

「なんか……懐かしいね」

 健太は、彼女の動きを見ながら、思わず苦笑した。

「圭子、なんかその様子なつかしいな」


「え、何が?あ、私ったら……つい前の癖で勝手にやっちゃった。

ごめん」

 圭子は少し慌てて言ったが、その表情にはどこか安心したような

色があった。

「気にしなくていいよ。俺も手伝うから」

 健太も立ち上がり、昼食の準備に加わった。

 電子レンジでベーグルを温め、湯気の立つコーヒーをマグに注ぐ。

 ベーグルを電子レンジで温め、コーヒーを淹れ終えると、ふたり

は向かい合って座った。三種類のベーグルと、湯気の立つホットコ

ーヒー。部屋の空気は、どこか懐かしく、そして少しだけ緊張して

いた。


「家の近くにベーグルの美味しい店があるの。時々買いに行くんだ

けどね。今日買って来たのはプレーン、ブルーベリー、もちむぎか

な。もちむぎは初めて買ったんだけど、健太が好きかなぁと思って」

 圭子の言葉に、健太は少し驚いたように笑った。

「うん、ありがとう。食べるよ」

 ベーグルを手に取り、ひと口かじると、香ばしさともちむぎの素

朴な甘みが口に広がった。


 昼食が進むにつれて、ふたりの間にあった緊張感は、少しずつほ

どけていった。

 健太は、波照間島に行くきっかけ、島の様子、そしてアルバイト

をすることになった経緯を語った。圭子は、真剣な眼差しで聞いた

り、時折笑みを浮かべながら相槌を打った。


 食事を終えると、圭子は姿勢を正し、静かに言った。

「健太、改めて謝ります。“あの日”以来、ずっと連絡を取ってなか

った。正直に言うと、私は健太に腹がたっていた。私が言ったこと

に対して、考えもしてくれないと思って。でも、健太はそれどころ

じゃなかったのよね。ほんとにごめんなさい」


 健太は、やはりその話になるかと思いながらも、真顔で答えた。

「もう、そのことはいいって。俺の事情なんか、圭子にはわからな

いのが当然なんだから」

 圭子は、少しだけ目を伏せてから、再び健太を見つめた。

「ヒロシから聞いた。“あの日”の健太の気持を」

「そうか……」

「健太が断ったのはふたつ理由があったのね。仕事とヒロシでしょ?」


 圭子の言葉は、まっすぐだった。

 健太は、少しだけ目を伏せてから答えた。

「理由が何だったのかと問われれば、そうとしか言えない。ただ……

ヒロシのことより仕事の方が……大きかったよ」

 その言葉には、過去の苦しみが静かに滲んでいた。

 圭子は、健太の顔を見つめながら、ゆっくりと頷いた。


「そんなに仕事が大変だったの?」

 圭子の声は、責めるというより、ただ知りたかったという響きだ

った。

 健太は、少しだけ目を伏せてから、静かに言葉を継いだ。

「はっきりと言わせてもらえれば、大変というより、苦しかったと

いう表現になる。苦しさと不安、それがストレスになって、押し潰

されそうだった。だから圭子からの申し出を、考える余裕がなかっ

た」

 その言葉には、あの日の健太の心の重さが滲んでいた。


 圭子は、そっと頷いた。

「そうだったの……じゃ、ヒロシのことは?」

 健太は少しだけ苦笑した。

「それもあったさ。ヒロシの圭子に対する気持は知っていたし」

「そっか。でも披露宴には出席してほしかった」

「それは謝る。申し訳なかった」

 健太は、深々と頭を下げた。

 その姿に、圭子は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに表情

を和らげた。


「ねえ、出席しなかった理由を聞いていい?」

 健太は、少しだけ間を置いてから、言葉を探すように話し始めた。

「う~ん。うまく言えないんだけど……会社で大きいクレームが続

出して、結局会社を辞めてしまった。そして、就活もせず酒浸りの

日々を送っていた。そのうち、考えたんだよ。ああ、俺は結局ひと

りなんだなって」


「ひとりって?」

「淳之介と純子も結婚。そしてヒロシと圭子も結婚。バンドでひと

りなのは俺ひとりだって。それに、圭子とは“あの日”以来連絡を取

っていなかったしな。どの面下げて出席するんだっていう気持ちが

あったんだよ。純子ともやりあったしな」

 健太は、苦笑しながら言った。その笑いは、少しだけ自嘲気味だ

ったが、どこか吹っ切れたようでもあった。

「そんなに悩んでいたのね。そんなこと、みんな思っていなかった

のに」

「今はそんな気持ちはないけど、その当時は真剣に悩んでいた」


 圭子は、健太の言葉を静かに受け止めていた。

 そして、少しだけ姿勢を正して言った。

「今日、私が来たのは、その……健太の気持ちを知りたかったから

なの。これで、すっきりした」

 健太は、ふっと息を吐いた。

「俺も圭子には話さなくちゃと思っていた。良かったよ、話せて」

 ふたりの間に、ようやく静かな余白が生まれた。それは、過去を

責めるための時間ではなく、互いを理解するための時間だった。


「ところで、バンドの再開はまだ程遠いのよね?」

 圭子が、コーヒーの湯気越しに健太を見つめながら言った。

 その声には、少しだけ寂しさと、期待が混ざっていた。

「そうだな。仕事のめどがつくまではまだだな。現に沖縄でバイト

しようと思っているぐらいだから。いつになることやら」

 健太は、カップを手にしながら、少しだけ目を伏せた。その言葉

の奥には、まだ定まらない未来への不安が滲んでいた。


「あ、バンドで思い出したけど、ヒロシに渡してほしいものがある

んだ」

「え、何?」

 健太は立ち上がり、机の引き出しを開けた。中から一枚の紙を取

り出し、圭子にそっと差し出す。

 それは、波照間島で作った曲の歌詞とギターコードが書かれたも

のだった。紙には、健太の手書きの文字が並び、ところどころに修

正の跡があった。


 圭子はそれを見て、目を見開いた。

「これ、ひょっとして新しい曲……作ったの?」

 その途端、彼女の顔に笑顔が広がった。

 それは、驚きと喜びが混ざった、まっすぐな笑顔だった。


「いや、バンドでやるために作ったわけではなく、自分自身のため

に作ったんだ」

「自分自身?」

「うん。その……彼女との……別れの歌というか」

「あ、ああ。沙也夏さんのこと、やっぱりまだ……」

 健太は、少しだけ苦笑した。

「いつまで引きずってんだよって感じだよな。でも、そろそろ断ち

切らないといけないと思って、作ってみた。まあまあの感じだと思

って、バンドでやったらどんな感じになるかなと思ってな」

 圭子は、健太の言葉をかみしめるように聞いていた。


 そして、紙に目を落とし、歌詞とコードをゆっくりと追った。

 しばらく沈黙が流れたあと、圭子は静かに言った。

「うん。心情が言葉になっている感じがする。曲もいい感じじゃな

い」

「なら良かった」

「分かった。ヒロシに渡しとく。ところで、沖縄にはいつまでいる

の?」

「わからない。バイトしながら、自分の方向性を見つけようと思っ

ている」

「そうなんだ。でも少しは前向きに今後のことを考えようとしてい

るのね。良かった」


 ふたりの間に、少しだけ懐かしい空気が流れた。ベーグルの香ば

しさと、コーヒーの温もりが、記憶の奥にあるバンドの時間を呼び

起こしていた。そして、ふたりはバンドをやっていた頃の話に花を

咲かせた。音楽と記憶が、静かにふたりをつなぎ直していた。


 圭子が帰った後、健太は深く息を吐いた。

 胸の奥に長く沈んでいた重たい感情が、少しずつほどけていくの

を感じていた。けれど、まだ完全ではなかった。

 もうひとつ、触れなければならない“わだかまり”が残っていた。


 純子のことだ。

 ヒロシと圭子の披露宴に列席するかどうかで、言い合いになった

あの日。健太は感情的になり、純子も譲らなかった。それ以来、一

度も連絡を取っていない。

「さすがにこのままはまずいよな……」

 健太は、部屋の窓から差し込む午後の光をぼんやりと見つめなが

ら、そうつぶやいた。


 純子は今、子育ての真っ最中だ。電話をかけるにも、タイミング

がわからない。

 翌日、まず淳之介に連絡を取ることにした。電話をかけると、す

ぐに繋がった。声には驚きが混じっていた。

 健太は簡単に近況を伝え、純子と話したいことを告げた。

 仕事中だったのであまり長く話せなかったが、純子は子供が昼寝

ている時間、だいたい午後1時から2時の間だったら大丈夫らしか

った。


 電話を切ると、健太は携帯を握りしめたまま、しばらく動けなか

った。純子との会話は、いつも少し緊張する。嫌いではない。むし

ろ、信頼している。

 ただ、彼女の“しっかりしすぎる”性格が、健太には時に重たく感

じられるのだった。バンドを一緒にやっていた頃も、仕事を共にし

ていた頃も、純子は常に冷静で、的確だった。注意されたこともあ

った。でも、助けられたことも数えきれないほどあった。


「ヒロシの妹だから、当然か……」

 健太は、午後一時を少し過ぎた頃、意を決して純子の番号を押し

た。コール音が静かに部屋に響く。

 1回……2回……3回……

 健太は、指先にじんわり汗を感じていた。

 4回……そして、5回目のコールで、電話がつながった。


「はい」

 その声は、以前と変わらない。少しだけ疲れているようにも聞こ

えたが、しっかりとした口調だった。健太は、少しだけ声を整えて

言った。

「あ、谷川だけど。久しぶり」

「健太?……何、よそ行きの声出してるのよ」


 その言葉に、健太は思わず笑ってしまった。純子らしい反応だっ

た。変わっていない。それが、少しだけ嬉しかった。

「いや、久しぶりだったから」

「そうね、久しぶりね。元気にしてた?」

「まあ、なんとか。純子は子育て、大変だろ」

「大変だけど、子供がいると毎日変化があって、楽しい面もあるよ。

健太、兄貴から聞いたけど、沖縄で働くんだってね」

「成り行きで、働くことになった」

「健太も苦しんでたもんね。会社、大変だったらしいね。コンビニ

と取引することになって。まさか、あの課長が辞めるなんて、びっ

くりした」


 純子は、健太の仕事の状況をよく知っていた。だからこそ、言葉

に重みがあった。

 健太は、少しずつ肩の力が抜けていくのを感じていた。純子との

会話は、いつもテンポが早い。けれど、今はそのテンポが心地よか

った。

 そして、健太は思い切って言った。

「純子に謝らないといけない」

「何よ、急に」

「ヒロシと圭子の披露宴のことだよ。列席する、しないで言い合い

してしまった。当時の俺はどうかしていた。やっぱり列席するべき

だった。すまなかった」

 電話の向こうで、少しだけ沈黙が流れた。


そして、純子はあっさりと言った。

「ああ、あのことね。すっかり忘れてた。毎日、育児で忙しくって。

あの後、兄貴から健太の仕事のことや、辞めたことを聞いて、まあ

無理もなかったのかと思った。あの会社じゃね」

「そう言ってもらえば、助かる」

「うん。もう気にしてないから。それより、早く仕事見つけなさい

ね。まあ、バイトするなら、大きな一歩よね」

「そうだな」

「そろそろ、子供が起きる時間だから。また連絡してね」

「わかった。今日はありがとう」


 電話を切ったあと、健太は大きく息を吐いた。純子との会話は、

やはり少し緊張したが、励まされてしまった。母親になっても、純

子は変わっていない。

 健太は、ふっと笑った。

「やっぱり、純子は純子だな」

 そう思いながら、窓の外に目をやった。

 福岡の空は、少しだけ晴れ間が見えていた。

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