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彼方からの風  作者: 杉本敬
第3章
33/53

33.里桜の助言

 佐藤と話した翌日。健太は、またバーのカウンターに座っていた。

 グラスには泡盛が静かに揺れている。今日はひとり。

 カウンターの内側には、里桜がいた。彼女はグラスを磨きながら、

時折健太の様子を気にするように目を向けていた。


 いよいよ、波照間島での宿泊期限が明後日に迫っていた。

 明日には、帰るか、ここでアルバイトを始めるか――決断しなけ

ればならない。

 午前中、健太は秘密のビーチへ向かった。誰もいない砂浜を歩き

ながら、波の音に耳を澄ませていた。海は、今日も青かった。けれ

ど、昨日とは少し違う青だった。

 雲の形、風の向き、光の角度――それらが、海の表情を変えてい

た。


『ここでアルバイトすることは、チャンスだ』

 健太はそう思っていた。

 今は無職。先のことも、自分では決められない。佐藤からの申し

出は、まさに渡りに船だった。思いがけず舞い込んできたこの話は、

健太にとって“選ばれた時間”のようにも感じられた。


 ここで働けば、毎日この海を見ることができる。

 波照間島の海――健太は、すっかりこの海に魅了されていた。

 朝の静けさ、昼のきらめき、夕暮れの余韻。海は、毎日違う顔を

見せてくれる。そして、夕陽に映える水平線は、見る者の心をそっ

とほどいてくれる。


 けれど、迷いもあった。

 ここは沖縄。ここで仕事をするということは、波照間島に“住む”

ということだ。それは、旅人ではなく、島の一部になるということ。

 住む場所はどうするか。生活用品はどう揃えるか。一度は帰って、

準備を整えなければならないだろう。


 健太はグラスを傾けながら、静かに天井を見上げた。

 琉球ガラスのランプが、淡く揺れている。その光は、まるで彼の

心の揺れを映しているようだった。


 里桜が、そっと声をかけた。

「今日は、少し飲みすぎじゃないですか?」

 健太は笑って答えた。

「考え事が多くてね」

 里桜は、グラスを磨く手を止めて、健太の目を見た。

「悩むってことは、ちゃんと向き合ってるってことですよ」

その言葉は、泡盛よりも深く、健太の胸に染み込んだ。


 午後の陽射しが少し傾きかけた頃、健太は宿の縁側に腰を下ろし

ていた。目の前には、ゆるやかに揺れるハイビスカスの赤。潮風が、

ほんのりと甘い香りを運んでくる。


 女将さんとの会話が、まだ耳に残っていた。

「うちは、ぜひお願いしたいさぁ」

 その言葉には、島の人らしい温かさと、現実的な期待が込められ

ていた。


 健太は、正直にすべてを話した。前職を辞めた理由も、迷いも、

今の気持ちも。それでも女将さんは笑顔だった。その笑顔が、健

太の心を少しだけ軽くした。

「明日までに決めてもらうと、助かるさぁ」

 その言葉が、健太の背中をそっと押した。


 仕事の内容は、運転が中心。お客の送迎、港での荷物の受け取り。

 繁忙期には居酒屋の手伝いもある。仕事内容に不安はなかった。

 むしろ、やってみたいと思った。

 問題は、生活だった。住む場所はどうするか。布団はあるのか。

 洗濯はどこでするのか。食事はどうするか。そんな細々としたこ

とが、健太の頭をぐるぐると巡っていた。


 けれど、心の奥ではもう決まりかけていた。

 この島に、もう少しだけいたい。この海を、もう少しだけ見てい

たい。この静かな時間の中で、自分を見つめ直したい。

 健太は、縁側から立ち上がった。


 空には、夕焼けが広がり始めていた。雲が、淡いオレンジに染ま

っている。その色は、まるで健太の心の中の迷いを、そっと包み込

むようだった。


 そして夜。最後の最後で決めかねて、バーに足を運んだ。

 バーの夜は、静かに更けていた。カウンターの上には、泡盛のグ

ラスがひとつ。健太はそれを手に、ゆっくりと揺らしていた。

 グラスの中の琥珀色の液体が、淡い光を反射している。店内には、

心地よい三線の音が流れていた。観光客の姿はまばらで、今夜は静

かな時間が流れている。


 健太は、ひとり考え込んでいた。

『どうしようか。思い切ってやってみるか。いや、でも……これが福

岡でバイトというなら、すぐ決められるんだが……』

 心の中で、何度も同じ言葉が巡っていた。


 そんな健太の心を見透かすように、カウンターの向こうから声が

かかった。

「だいぶ、アルバイトのこと悩んでいるようですね」

 里桜だった。

 彼女はグラスを磨きながら、健太の様子を静かに見守っていた。

「え、ああ」

 健太は少し驚いて顔を上げた。

「なかなか決められなくて」

「まあ、そうですよね。旅行のつもりで来たのが、バイトしないか

と言われたわけですからね」

 その言葉に、健太は苦笑した。まさかこんな展開になるとは思っ

ていなかった。


「谷川さん、聞いていいですか?」

「はい」

「いちばんのネックは何ですか?」

「う~ん。バイトするということは、ここで住むということですか

ら、うまく生活できるのかなというのが」

「やはり、そこですよね。でも、逆に考えたらいいんじゃないです

か?」

「逆?」


「沖縄というか、この最南端の離島で、仕事するチャンスはなかな

かないと思います。けっこういるんですよね。アルバイトできない

かという人。佐藤さんもそうだったけど」

「そうなんですか」

「ええ。佐藤さんの場合は、タイミングよく、ちょうど空きがあっ

たから働けたけど。旅行に来て、ニシハマが気に入ってしばらくい

たいという人が、けっこういるんですよ。だから、バイトできませ

んかっていうことですね。でも、なかなかタイミングが合わないの

が、ほとんどです」


 健太は、グラスの中の泡盛を見つめながら、静かにうなずいた。

「それはわかります。俺もここの海が好きになりました。だから、

このまま帰るのは、名残惜しいなとも思っています」

「でしょ。だったら、思いきってやってみたら。こんなチャンスは

ありませんよ」

「なるほど」


「あと生活は、そのうち慣れると思います。ただね、ここのんびり

している島だから、いつまでもバイトするっていうのはしないほう

がいいと思います。佐藤さんから聞いたけど、谷川さんは何かを見

つけたくて、ここに来たんでしょ?」

「まあ、そうですね」

「その何かを見つけることを、常に頭に入れておいたほうがいいと

思います。私もそうですから」

「そうなんですか」

「はい、私も会社を辞め、プライベートでもいろいろあって、この

島にやって来ました。ここで仕事しながら、これからどうするかを

考えていました。それで、ようやく目標が見えてきました」


 健太は、里桜の話を聞きながら、心の奥が少しずつほどけていく

のを感じていた。

 みんな、自分の生きる道を探している。この島に来る人は、ただ

の観光客ではなく、何かを求めている人が多いのかもしれない。

 そして、自分も――探せるかもしれない。


 店の外では、波の音が静かに響いていた。その音は、まるで健太

の心の揺れを包み込むようだった。


「ところで住む所は、女将さんから説明受けました?」

 里桜がグラスを拭きながら、ふと健太に尋ねた。

「ええ。佐藤さんが今使っている所を、使っていいということでし

た」

 佐藤が住んでいるのは、宿に併設された従業員用のアパート。

 部屋は簡素だが、寝るには十分。健太もそれでいいと思っていた。


「それもいいですけど、よかったら紹介しましょうか?」

「はあ……でも寝れる所さえあればいいので、そこでいいですよ」

 健太は、そこまで世話になるのは申し訳ないと思い、やんわりと

断った。それに、まだ正式にバイトすると返事もしていない。住む

場所の話を進めるには、少し早い気がしていた。


 しかし、里桜はそのまま話を続けた。

「でも晩御飯とか、困るでしょ?」

「それは、ここの居酒屋で食べればいいし……」

「だめだめ。居酒屋で食べてると、ついついアルコールと一緒に食

べちゃうんですよ。佐藤さんがそうだから。あの人、ここに来てか

らかなり太りましたからね」


 健太は思わず笑ってしまった。

 確かに、佐藤のビールの飲みっぷりは見事だった。

「実は、谷川さんに紹介するのは、元民宿をやっていた所なんです。

今そこは、おばぁが住んでいて、相談受けてたんですよ」

「はあ……」


 健太は返事をしようとしたが、里桜は聞く耳を持たず、どんどん

話を進めていく。

「おばぁから、誰か離れに住んでくれないかって。おばぁの住んで

る家の隣に離れがあって、今空き部屋なんですよ。民宿やってたか

ら、おばぁは人の世話するのが大好きでね。だから、谷川さんが住

んでくれるって言ったら、おばぁも喜ぶと思うなぁ」


 健太は、里桜の勢いに圧倒されながらも、どこか心がほぐれてい

くのを感じていた。

 “島の人って、こういう距離感なんだな”と、少しだけ微笑んだ。

「明日見に行きません?おばぁの家の離れ。そこを見て、働くかど

うか決めたら?」

 健太は、グラスの泡盛を見つめながら、静かに考えた。


 ひとりで悩んでも、結論は出そうにない。 それなら、里桜の話

に乗ってみるのも悪くない。

「……じゃあ、明日見に行ってみます」

 その言葉に、里桜はぱっと笑顔を見せた。

「よかった。おばぁ、きっと喜ぶと思うなぁ」

 その笑顔は、島の夕陽のように、健太の心をやさしく照らした。


 翌日の昼過ぎ。居酒屋のテーブル席には、穏やかな昼の光が差し

込んでいた。

 健太は、女将さんと向かい合って座っていた。その横には、佐

藤がにこやかに同席している。


「返事を聞かせてもらえるんですねぇ」

 女将さんの声は、柔らかくも、どこか期待を含んでいた。

 健太は、少し背筋を伸ばして、静かに言った。

「はい。こちらで……お世話になります。働かせてください」

 その言葉に、女将さんはふっと表情をゆるめた。

「良かったさぁ。これで、人を探さなくて、いいからねぇ」

 佐藤は満面の笑みを浮かべて、「良かった」と言った。

 その笑顔は、まるで島の空気そのもののように、健太の緊

張をほどいていく。


「では、明日までは谷川さんはお客さんだから、のんびりしてくだ

さいねぇ。その後は仕事してもらいたいんだけど、今はオフシーズ

ンだからねぇ。それに、梅雨の時期に入るから、そんなに忙しくな

いから」

 女将さんの言葉は、島の時間の流れそのものだった。急がず、焦

らず、ゆっくりと。


「一度家に帰ったらいいんじゃないかねぇ。いろいろこっちに持っ

てくるのもあるだろうし。それから、一応履歴書持ってきてくるか

ねぇ」

 健太は、少し笑ってうなずいた。

「そうですね。そうします。よろしくお願いします」

「こちらこそ。よろしくお願いします」

 その言葉のやりとりは、契約書よりもずっと重みがあった。

 言葉と気持ちで結ばれる、島の“約束”。


 とうとう健太は、ここ“みーふぁいゆ”で働くことを決意した。

 昨日までの迷いは、風に吹かれて消えていったようだった。

 その背中を押してくれたのは、里桜が紹介してくれた“離れ”だっ

た。


 ふたりで訪れたその場所は、元民宿だったというだけあって、ど

こか懐かしさと温もりが漂っていた。

 赤瓦の屋根が、沖縄らしい風情を醸し出している。建物の構造は

鉄筋コンクリート。台風の多いこの地では、耐風性が重視されてい

るという。それでも、外観には柔らかな曲線と、島の色がしっかり

と息づいていた。


 内部は、十五畳ほどの居間が一部屋。バスとトイレは別々で、清

潔感があり、使い勝手も良さそうだった。

 何よりも驚いたのは、風通しの良さだった。大きな引き戸を開け

放つと、南風がふわりと吹き込んできて、居間の空気をやさしく撫

でていく。


 健太は、その縁側に腰を下ろしてみた。目の前には、庭の緑と、

遠くにちらりと見える海の青。引き戸から吹き込む風が、肌に心地

よく、まるで島そのものが「ようこそ」と言ってくれているようだ

った。


「この引き戸を開けて、居間に寝るのが最高なんですよ」

 里桜の言葉に、健太は笑ってうなずいた。

 確かに、この居間は、ただの部屋ではない。風と光と静けさが、

健太の心を包み込んでくれる場所だった。


 そして、もうひとつ気がかりだったのが、おばぁの存在だった。

 どんな人なのか、少しだけ不安だった。けれど、対面した瞬間、

 その不安はすぐに消えた。

 おばぁは、よく笑う気さくな人だった。言葉の端々に、島の人ら

しい優しさと、長年の経験が滲んでいた。


 家賃の話になると、さらに驚かされた。

「家賃なんていらないさぁ。空き部屋に人が住んでくれるだけで、

ありがたいさぁ」

 拍子抜けするほどの言葉だった。

 健太はさすがに申し訳なく思い、何度も申し出たが、おばぁは頑

として譲らない。結局、里桜とふたりで説得して、ようやく「一万

円」で落ち着いた。破格の家賃だった。


 けれど、それ以上に、ここには“人の温度”があった。健太は、縁側

に座りながら、静かに思った。

「ここで暮らしてみたい」

 その思いは、もう迷いではなかった。それは、確かな決意だった。

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