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彼方からの風  作者: 杉本敬
第3章
32/53

32.渡りに船

 ドアを開けると、そこには確かにバーがあった。

 小さな空間。カウンター席が四つ、奥にテーブル席が二つほど。

 照明は控えめで、琉球ガラスのランプが淡く揺れていた。壁には

島の写真が数枚飾られていて、どれも昼間の眩しさとは違う、夕暮

れや夜の静けさを切り取っていた。


 カウンターの中には佐藤がいた。

 白いタオルでグラスを丁寧に拭きながら、健太に気づくと顔を上

げた。

「いらっしゃい」

 その声は、居酒屋での佐藤とは少し違っていた。

 どこか落ち着いていて、迎える側の人間としての温度があった。


「ここ、いいですか?」

 健太はカウンター席のひとつを指さしながら尋ねる。

「ええ。どうぞ」

 健太はゆっくりと腰を下ろした。


 カウンターの木目は使い込まれていて、手のひらに馴染むような

温もりがあった。

 目の前には、泡盛のボトルがずらりと並んでいた。銘柄はさまざ

まで、ラベルには「八重泉」「瑞泉」「久米仙」など、沖縄の地酒

が並んでいる。その並びが、まるで島の時間の層を見せているよう

だった。


「ここ、佐藤さんがやってるんですか?」

「ええ。居酒屋の女将さんに頼まれて、時々ね」

 健太は頷きながら、グラスの縁に指を添えた。

 この空間は、島の“裏側”というより、“深部”に近い気がした。


「何にします?」

 佐藤がそう言ってメニュー表を差し出すと、健太は手に取り、ペ

ージをめくった。そこには、驚くほど多くの泡盛の銘柄が並んでい

た。「久米仙」「瑞泉」「八重泉」――見慣れた名前もあれば、初

めて目にするものもある。その中に、ひときわ目を引く名前があっ

た。


「泡波……」

 幻の泡盛と呼ばれるその銘柄は、波照間島でしか製造されていな

い。本土では高値で取引されることもあるが、ここでは地元の酒と

して、静かに棚に並んでいた。

「泡波って、頼めるんですか?」

 健太が尋ねると、佐藤は笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、大丈夫ですよ。地元ですからね。観光客には人気だけど、

ここでは普通に飲めます」

「じゃ、ロックでお願いします」

「おっ、イケますね。了解しました」


 佐藤は棚の奥から泡波のボトルを取り出した。ラベルは素朴で、

どこか手作りの温もりがあった。グラスに透明な液体を注ぎ、冷蔵

庫から取り出した氷を丁寧に浮かべる。氷がグラスの中でカランと

音を立てた瞬間、健太はその音に、島の風の気配を感じた。


「はい。どうぞ」

 佐藤は、カウンター越しにグラスを差し出した。

 グラスの中には、澄み切った泡盛が静かに揺れている。氷が一粒、

透明な液体の中でカランと音を立てた。健太はその音に、どこか遠

い記憶のようなものを感じた。


 佐藤とグラスを軽く合わせる。

「乾杯」と言う代わりに、互いの目が一瞬だけ交差した。

 健太はグラスを口に運び、ひと口含む。キリッとした味わいが舌

の上に広がり、鼻腔には芳醇な香りがふわりと立ちのぼった。


「美味しいですね」

 健太がそう言うと、佐藤は満足げに頷いた。

「それは良かった。谷川さんも、酒のほうはイケるくちですね」

 その言葉に、健太は少し照れたように苦笑した。

「まあ、嫌いじゃないですけど……」と、言葉を濁すように返す。

「バーも手伝っているんですか?」


 健太は、カウンターの内側で手際よく動く佐藤の姿を見ながら尋

ねた。佐藤はグラスを磨きながら、肩をすくめるように答えた。

「まあね。人手が足りない時は。今夜は手伝いっていうより、気分

でカウンターに入ってる感じかな。もうすぐ、里桜さんが来ると思

います。今から話すことは、彼女も関係あることだから」


 健太は「話すこと」という言葉に、少し身構えた。泡盛の香りが、

急に遠くなったような気がした。

「話というのは、谷川さんと僕のこれからのことです」

「これからのこと?」

 健太はグラスを持ったまま、佐藤の顔を見つめた。

 佐藤は一呼吸置いてから、静かに言葉を続けた。


「ええ。実は僕、近々ここのバイト辞めようかと思っています」

 その言葉は、泡盛の余韻の中に、ぽつりと落ちた。

 健太は思わずグラスを置き、佐藤の顔を見返した。

「そうなんですか。なんでまた……」


 驚きと戸惑いが、健太の声に滲んでいた。

 佐藤は少し笑って、グラスを口に運んだ。飲んでいるのは、健太

と同じ泡波だった。

「理由はいろいろあるけど……一番は、次の場所に進みたいって思

ったからでしょうか。ここでの時間はすごく濃かったです。でも、

そろそろ自分の足で歩き出したいと思っています」


 その言葉には、迷いよりも静かな決意が感じられた。

 健太は、佐藤の言葉の奥にある何かを探ろうとした。

 この島に来てから、出会う人々はみな、何かを背負っていた。何

かを手放し、何かを見つけようとしていた。

 そして今、佐藤もまた――


「ここで働かせてもらって、約二年になるんですが……そろそろ潮

時かなと思って」

 佐藤の言葉は、泡盛のグラスの向こうから静かに届いた。

 健太は無言で頷いた。グラスの中の氷が、カランと音を立てた。

 その音が、どこか寂しげに響いた。


「半年ぐらい前から、定職に就くことを考え始めたんです。ここで

バイトするのは気楽だし、仕事も慣れているから居心地はいい。で

も、先のことを考えると、やはり……」

 佐藤の声には、迷いと決意が入り混じっていた。


 健太は「なるほど」とだけ返したが、心の中では何かがざわつい

ていた。

「バイトって、景気が悪くなると真っ先に切られる対象になります

からね。まあ、ここは大丈夫かもしれないけど、それでも、いつま

でも続けられるものじゃない」

 その言葉に、健太は思わずグラスを見つめた。

 泡盛の透明な液体が、まるで自分の未来の不確かさを映している

ようだった。


 健太は、サラリーマン生活が長かった。

 だからこそ、バイトという働き方に対して、そこまで深く考えた

ことはなかった。だが今、無職という状態を思い浮かべると、急に

胸の奥に不安が広がってきた。それでも、就職活動を始めようとい

う気には、なかなかなれない。

 島の風、泡盛の香り、そしてこの穏やかな時間――それらが、健

太の足を止めていた。


「それで、今やっているようなこと……いわゆる旅行に携わる仕事

がないかなと思ったんです。そのことを女将さんに相談したら、耳

よりな情報を教えてくれたんですよ」

 佐藤の声が、少しだけ明るくなった。


 健太は顔を上げて、佐藤の目を見た。

「谷川さん、小浜島って知ってますか?」

「ええ。ドラマで有名になった島ですよね」

「そうです。その小浜島に、リゾートホテルができるんです。それ

で正社員を募集しているって、女将さんから聞いたんですよ。これ

はチャンスだと思って、応募してみたんです。面接も受けました。

正直、半分諦めてたんですけど……なんと、受かっちゃいました」


 佐藤は、少し照れくさそうに笑った。

 その笑顔には、未来への期待と、島への名残が入り混じっていた。

「おそらく、波照間島の宿で接客の仕事をしていたっていうのが、

経験者として評価されたのかもしれません」

「それは……良かったですね」


 健太はそう言いながら、胸の奥に小さな焦りを感じていた。

 佐藤が次の一歩を踏み出した今、自分はどうするのか。

 この島に残るのか、それとも――


 そう言いながら、健太はグラスを持ち上げ、泡盛を一口煽った。

 喉を通る感触は、さっきよりも少し熱を帯びていた。

 佐藤の話を聞いているうちに、自分も“うかうかしていられない”

という思いが、じわじわと胸の奥に広がっていた。


「ただ、ここでバイトしてよかったこともあります」

 佐藤がぽつりと続けた言葉に、健太は耳を傾けた。

「それはどういう?」

「いろいろ先のことを、落ち着いて考えることができたことです。

ここでバイトしていなければ、旅行に携わる仕事をしようなんて思

っていなかったですしね。ほんと、女将さんには感謝しきれません」


 佐藤の言葉は、どこか過去を振り返るような、そして未来を見据

えるような響きを持っていた。この島で過ごした時間が、彼の中で

確かな意味を持っていたことが、言葉の端々から伝わってくる。


「ただ、いざ辞めるとなると、後任をどうするかです」

 そう言って、佐藤はグラスに残っていた泡盛をグッと飲み干した。

 そして、健太の方を見て、ニヤッと笑った。

 その笑顔は、冗談めいているようでいて、どこか本気の色を含ん

でいた。健太はその表情を見て、すぐに察した。

『そういうことか』


 佐藤の話は、ただの報告ではなかった。それは、健太への“提案”

だった。この島での時間を、次に繋げるための、静かなバトンだっ

た。

 泡盛の余韻が、健太の胸の奥でじわりと広がっていく。島の夜は、

まだ静かだった。けれど、何かが確かに動き始めていた。


 通用口のドアが開いた瞬間、店内の空気が少し動いた。

 里桜が入ってきて、佐藤に声をかける。

「遅くなっちゃって。佐藤さん、替わるわよ」

 佐藤はグラスを持ってカウンターから出ると、健太の隣に腰を下

ろした。その動きに、どこか“場を整える”ような気遣いが感じられ

た。


「佐藤さん、作ろうか?」

 里桜が空のグラスに気づき、声をかける。

「あ、お願いします」

 佐藤はグラスを渡しながら、健太に向き直った。


「谷川さん。差し支えなければお聞きしたいのですが。前職は何を

されていましたか?」

 健太は少し戸惑いながらも答える。

「前職ですか……ルート営業です」

「具体的には?」

「弁当の容器の営業です。スーパーに弁当を卸している商社などが、

取引先です」

「なるほど。車で回っていたんですよね?」

「そうです」

「前職を辞めた理由は?」 


 佐藤の質問は、まるで履歴書を読み上げるように続いていく。

 健太の表情が徐々に曇っていくのを、里桜はすぐに察した。

「佐藤さん、それは失礼よ。あなたは面接官じゃないんだから」

 そう言って、里桜は泡盛のグラスを佐藤に差し出した。

 その声には、優しさと少しの苛立ちが混じっていた。


「あ、いやいや失礼しました。そうですね。たしかに、これじゃ面

接だな」

 佐藤は泡盛を一口飲み、少し肩の力を抜いたようだった。

 そして、静かに言葉を続けた。

「実は、僕の後任を谷川さんにやってもらえたらと思って、つい言

ってしまいました。後任をまかせる以上、前職のことを聞くべきか

なと思ったので。まだ、谷川さんはやるとも言われていませんよね。

ごめんなさい」


 その言葉には、真剣さと申し訳なさが滲んでいた。

 佐藤からそう謝られると、健太の胸に張りつめていたものが、少

しずつほどけていった。グラスの中の焼酎が、さっきよりも柔らか

く喉を通る。

「その……後任をなぜ俺に?」


 健太の問いは、素直な疑問だった。

 佐藤は、少し照れくさそうに笑って答えた。

「いや、谷川さんが就活する気になれないと言われていたから、そ

れならここでバイトしながら、先のことを考えたらいいんじゃない

かなと思って」

「そういうことでしたか。まあ、たしかに帰ってからどうするか決

めていませんが」


 健太の言葉には、どこか自嘲気味な響きがあった。

 でも、それは“迷い”ではなく、“まだ決めていない”という、宙ぶら

りんな状態を認める言葉だった。

「考えてもらえませんか?」

 佐藤の声は、静かで真っ直ぐだった。

 健太は無言で焼酎を飲み干すと、天井を仰いだ。

 店の天井には、島の夜の空気が静かに漂っていた。

「わかりました。せっかくの申し出ですし、考えてみます。実は俺

も先のことをどうするか、悩んでいましたし」


 その言葉に、佐藤の表情がぱっと明るくなった。

「よかった。で、最後にひとつ聞きたいのですが。ハイエースクラ

スの車は運転できますか?」

「ええ、大丈夫です。前職の営業の車がハイエースでしたから」

「そうですか。それなら、狭い道なんかも大丈夫ですか?」

「ああ、そういうのは日常茶飯事でした」

「それなら、ますます谷川さんにお願いしたいです」


 佐藤はほっとしたように、笑顔を見せた。その笑顔は、健太の心

にじんわりと染み込んでいく。カウンターの中で泡盛を注ぎながら、

里桜も笑っていた。

 その笑顔は、健太にとって“島の時間”そのもののように感じられ

た。


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