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彼方からの風  作者: 杉本敬
第3章
31/53

31.Over Again for you

 波照間島に来て三日目以降——健太の生活には、ひとつのリズム

が生まれていた。朝、宿で食事を摂り、自転車でニシハマへ向かう。

 ギターを携えて砂浜に降り、波音を背景に詞を書く。


 その繰り返しが、不思議と心地よい充足感を与えてくれていた。

 ニシハマの海は、毎日少しずつ表情を変えていた。

 陽射しの角度、雲の動き、風の温度——そういった細やかな変化

が、健太の言葉を少しずつ形づくっていく。


 ギターをそっと抱えて、砂浜に座りながら旋律を弾く。すると、

その音に引き寄せられるように、詞の断片が浮かぶ。かつてバンド

で培った感覚が、音の隙間に戻ってきていた。


 ある日の午後、宿の売店前でさんぴん茶を買っていた時のことだ

った。

「谷川さんって、もしかして……ニシハマでギター弾いてる方です

よね?」

 顔見知りになった観光客の一人が、軽い調子で声をかけてきた。

 健太は一瞬驚きながらも、「ええ、まあ……」と曖昧に返した。


 その話が、いつの間にか里桜の耳にも入っていたらしい。

「谷川さん、けっこう有名になってきてますよ」

 そう言って、彼女は笑った。

「有名って……」

 健太は照れたように顔をそらした。


「ニシハマに行った観光客が、“いつも海辺でギター弾いてる男の人

がいる”って話してて、それがあちこちの宿で話題になったらしいで

す。公民館の人まで知ってるって」

「えぇ……恥ずかしいな……」

 健太は思わず肩をすくめた。

「島は狭いですからね。噂はすぐ広まっちゃいますよ」

 里桜はくすくす笑いながら言った。


 それから数日が経ち、健太の「ニシハマ通い」はすっかり日常に

なっていた。朝の空気のなか、自転車で海へ向かうと、まるで誰か

が迎えてくれているような気さえした。


 そして一週間が過ぎる頃——

 詞は、ついに完成した。書き上げた用紙には、滲むように重ねら

れた言葉が並んでいた。沙也夏への決別。それは悲しみだけではな

く、未来への再起という意味を持っていた。


 ギターを弾きながら詞を書いていたため、旋律も自然に形になっ

ていた。その曲は、どこか波音を含んだような、静かで強いリズム

を持っていた。


 健太は、弦を爪弾きながらそっと呟いた。

『……俺、もう、前を向けてるのかもしれないな』


 今、健太はニシハマ近くのカフェ 『カジ』に来ていた。

『カジ』——その名が示すとおり、風が主役のカフェだった。

 ニシハマから吹き抜ける潮風が、店内のすだれをふわりと揺らし、

さとうきび畑のざわめきとともに、どこか懐かしい調べを奏でてい

る。


 健太は外側のテーブル席に腰を下ろし、琥珀色のオリオンビール

を口に含んだ。ひんやりとした苦みが喉を通ると、潮風がそれを祝

福するかのように、そっと頬を撫でる。


 目の前には、一枚の紙。自らの手で清書した詞——

【Over Again for you】というタイトルが、柔らかい筆跡で刻まれて

いた。



♪あの頃のような恋は できるはずもない

 傷つき 傷つけあった

 出会いから 終わりを 何度も思い出す

  君に会いたいと 心で叫んでいる


 Thinking of you

  誰もいない海辺にたたずむ

 二人で歩いた日々も波に消えていく

  いつか君と会える日がくるとしても

  遅すぎる後悔 Over Again for you


 君と結ばれる日はくることはない

  二人で行った店に 一人立ち寄る

 君の笑い声が 心に響いてくる

  忘れられない 僕がここにいる


 Thinking of you

  これから一人で強く生きていくとしても

 君は僕の心の中にいるだろう

  そして二人 違う道を歩き始める

  遅すぎる後悔 Over Again for you


 Thinking of you

 夜更けに目覚めて 君がいないことを知る

 それでも明日はきて 人生は続いていく

 君のことを想いながら 一人もがいて生きる

 遅すぎる後悔 Over Again for you♪




 詞を読み返すたびに、ひとつひとつの言葉が心の奥を静かに揺ら

した。「Thinking of you」――そのフレーズが繰り返されるたび、

健太は胸の内に住み着いていた想いと、真正面から向き合っていた。


 紙面に視線を落としながら、健太はふと考える。

『未練がましいかな……』

 素直な言葉だった。けれど、それこそが今の自分の輪郭なのだと

思い直す。


 詞を書いていたとき、沙也夏との記憶はまるで映画のワンシーン

のように、風景として流れていた。海辺の散歩道、笑い合った夕暮

れ、あのレストランの灯り――そしてプロポーズの後に訪れた、静

かな崩れ。涙が落ちた夜のことは、今でも音のない記憶として心の

底に眠っている。


『沙也夏、幸せに暮らしてるだろうか……』

 ふと想いを馳せる。あの結婚が“事情のある選択”だったことを思

い出すと、心のどこかがまだ疼いていた。それでも、いま彼女が穏

やかな生活を送っていることを、ただ祈ることしかできなかった。


 紙の上には、そんな思いが言葉として刻まれている。

 切なさだけでなく、後悔。

 それでも――“一人もがいて生きる”という一節には、自分なりの

肯定が滲んでいた。


 苦しみながらでも、踏み出す。後ろを振り返りながらでも、進ん

でいく。それが今の自分の足取りなのだと、健太はギターのネック

を握りながら思った。


 曲の構成は、自然と整っていた。詞を生んだときと同じ風の中で、

メロディーも育っていた。そして今、健太は清書した紙の隣に、新

しい紙を広げ、そこにコードを書き入れていた。


 A→F#m→D→E7……と並んでいく文字たち。

それは、どこか物語の設計図のようでもあった。風が、ゆるやかに

頬を撫でる。

 波照間島の“Over Again for you”は、健太にとっての一章の終わ

りであり、始まりだった。


 完成した曲を胸に、健太は細く息を吐いた。その音は、潮騒にす

ぐ吸い込まれていく。充実感と並んで背中に貼りついていたのは、

旅の終わりを告げる小さな焦燥だった。


 波照間島の滞在も、あと三日。十日間と決めていた宿の予約が、

ひと区切りの印をつけている。島に来てからというもの、心は穏や

かだった。まるで濁った湖が時間をかけて澄み渡っていくように、

自分を取り戻せていた気がする。


 けれど、肝心の「これから」がまだ見えない。

 帰るべきか、それとも――延ばすか。

 延ばしたところで、自分は何をするのか。


 そんな疑問を抱えながら、いつものように夕暮れの居酒屋へ向か

っていた。暖簾の向こうに差し込む橙色の光と、漂ってくるゴーヤ

チャンプルーの香り。


 店内に入ると、カウンター席の左端で佐藤が一人、静かに食事を

していた。テーブルの上には、泡の消えかけたビールと、皿に盛ら

れたチャンプルー。見慣れた光景だったが、今日の佐藤にはどこか

沈み込むような空気があった。


「お疲れ様です」

 健太が声をかけると、佐藤は少し間を置いてから、ゆっくりと顔

をあげた。

「あ、谷川さん。お疲れ様です」

 その言葉の端に、何か言いかけた余韻を感じた。


 健太は彼の正面に座り、ビールといつものタコライスを頼もうと

したちょうどその時、里桜が現れた。エプロン姿の彼女はもう、す

っかり健太にとって“島の夕飯の時間”を象徴する存在になっていた。


「今日は何にしますか?」

 微笑みながら聞かれるその声に、健太は「いつもで」と答える。

 ここ数日は、タコライスばかりを食べている。具沢山で、ひと皿

に小さな満足が詰まっていて、どこか孤独と折り合いをつけられる

料理だった。


「好きですねぇ、タコライス」

 里桜はそう言って笑い、注文票と一緒に去っていった。

 佐藤はその明るさとは対照的に、グラスの縁に指を添えたまま口

を開いた。


「こっちには、いつまでいるんですか」

「あと三日ですね」

 佐藤は小さく頷きながら、言葉を続けた。

「三日ですか……その後は決まってるんですか?」

 健太は、言葉の糸口を探した。


「その後というのは?」

「言ってましたよね。就活する気になれないって。帰ったら、どう

するんですか?」

 予想よりも直球で投げ込まれた質問に、健太は一瞬、飲み込まれ

そうになった。


 目の前の皿ではなく、空いたグラスの底をぼんやりと見ながら答

える。

「うーん……それは……」

 そして、佐藤は真正面から続けた。

「もし、まだ決まっていないなら――僕の後をやりませんか?」


 言葉が落ちた瞬間、時間が止まったように感じた。意味がすぐに

理解できず、ただ佐藤の顔を見つめたまま動けずにいた。

 そのとき、厨房の扉が開いて、里桜がビールとタコライスを持っ

てきた。ふたりの間の沈黙をほどくように、笑顔を添えて器を並べ

る。


「話は、食事の後にしましょう」

 佐藤はそう言い、軽くグラスを持ち上げた。けれどその瞳には、

何か大きな決意が揺らいでいた。


 タコライスのスプーンを動かしながら、健太は佐藤の沈黙を横目

で追った。互いに言葉は交わさず、食事の音だけが店内に静かに響

いていた。この沈黙の時間にこそ、何か大きなものが準備されてい

る気がした。


「谷川さん。この後、時間あります?」

 佐藤の言葉が、ふたりの間にぽつりと落ちた。

 健太は、咄嗟に応えながらも内心で構える。

「ええ」

「それじゃ、バーで話しましょうか?」


 バー。それは、この島の中でまだ訪れていない空間だった。

売店の横にあるというその場所は、これまでの旅路になかった交差

点かもしれない。

「三十分後でいいですか?」

「ええ。構いません」


 バーが通用口の先にあるという説明を聞いて、健太は頷いたもの

の、心の中では釈然としない思いが少し渦を巻いていた。まるで、

何かを決めるように話の場を設定された気がしてならなかった。


 佐藤が食器類を重ねて、お盆を持ち、厨房の奥に消えていく。

 その後ろ姿を見送りながら、健太はビールを飲み干し、残された

氷の音に耳を傾けた。


 部屋に戻り、時間までの静かな待機。けれど、じっとしていられ

る気分ではなかった。

 約束の5分前。健太は、そっと部屋を出る。静かな廊下を抜けて、

受付を通る。すでにスタッフの姿もなく、辺りは夜の気配に包まれ

ていた。


 通用口。

 そこに掲げられた「バー連絡口」の文字と、【宿泊者及び従業員以

外の方はご遠慮ください】の注意書き。


 扉の向こうには、何が待っているのだろう。それは、選択なのか。

 それとも、島に残るための“もうひとつの入り口”なのか。

 健太は深く息を吸い、手をドアノブに伸ばした。



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