30.里桜
翌朝。目覚めた健太の耳に、遠くから微かに波の音が届いていた。
薄く開けた窓からは、潮の香りと、ハイビスカスが揺れるやわら
かな風が入り込む。まだ空は優しい青さを残し、鳥の鳴き声がぽつ
ぽつと響いていた。
カーテン越しに差し込む光が部屋の畳の縁を照らし、健太はその
光の筋を眺めながらベッドから体を起こした。
「……早起きなんて、いつぶりだろう」
そんな独り言を漏らす。
居酒屋に足を運ぶと、店内にはほんのりと出汁の香りが漂ってい
る。席につくと、小鉢がいくつか並べられ、焼き鮭と玉子焼き、漬
物、そして白米と味噌汁が置かれていた。
「沖縄に来たのに、なんだか家庭的だな」と思いつつ、箸を取る。
味噌汁の湯気が鼻をくすぐり、白米のやわらかな甘みが口の中に
広がっていく。
それは、自宅で食べるような味なのに、どこか違う。目の前に広
がる木の器たちに、時間が緩やかに流れているようだった。健太は、
いつの間にか丁寧に箸を進めていた。
食後、軽く伸びをしてから外へ出ると、島の空気が肌に吸い付く
ようだった。朝の陽射しは少しずつ強くなりはじめ、雲は薄く、ど
こまでも広がる空が迎えてくれている。
自転車置き場へ向かい、サドルに手をかけたところで、背中越し
に柔らかな声が届いた。
「おはようございます。出かけられるなら、飲み物持参のほうがい
いですよ」
振り返ると、さんぴん茶のペットボトルを差し出す女性が立って
いた。昨日、受付で道順を教えてくれたあの穏やかな人――白いシ
ャツが風になびき、その笑顔が朝の光に溶け込んでいた。
「あ、ありがとうございます」
ペットボトルを受け取ると、ほんのりとジャスミンの香りが指先
に残った。
「色々回る予定ですか?」
「そのつもりです」
「それなら、飲み物は必須ですよ。今日は晴れそうですしね。暑く
なりますよ、きっと。気をつけてくださいね」
その言葉には、島で暮らす人ならではの温度感があった。観光案
内でもなく、ただの気遣いでもない。自然な優しさ。
健太は礼を言いそびれた気がしながら、彼女の後ろ姿を見送った。
『お金……渡すタイミング、逃したな』
思いつつ、昼に戻ったときでいいかと心の中で呟く。
バッグの横ポケットにペットボトルを差し込み、自転車にまたが
ると、サドルの感触が心地よかった。少しこぎ出すと、風が足元を
くすぐる。さんぴん茶の冷たさが、まるでその優しさを象徴するよ
うに感じられた。
旅が始まっている。知らない景色の中で、人と触れ、いつもの自
分と少し違う感覚で朝を過ごす――それが、ほんの少し嬉しかった。
島の中心にほど近い集落を抜けると、空が広がり、道がゆるやか
に伸びていた。ペダルを踏むたび、島の風が身体を抜けるように流
れていく。潮の香りとサトウキビの甘い匂いが混ざり合い、健太は
思わず笑みをこぼした。
『風って、こんなに気持ちいいんだな』
普段はビル風や雑踏の風しか知らない健太にとって、その風は、
身体の疲れだけでなく心のざらつきまで撫でてくれるようだった。
やがて「コート盛」に到着する。
緑の中にひっそりと佇むその場所は、外界から少し離れた時間が
流れているように感じられた。サンゴ石を螺旋状に積み上げた見晴
台は、どこか手作業のぬくもりを残しており、健太は一段ずつ、石
の感触を確かめながら登っていった。
頂に立つと、視界が大きく開けた。目の前にはサトウキビ畑が波
のように広がり、その先には水平線がゆるやかに伸びていた。遠く
に西表島の輪郭が霞んで見える。
ここが、かつて不審船を監視する火番所だったという事実が、風
の静けさのなかに違和感のような緊張感を残していた。
『旅って……こういう場所に立つことで、先人たちの働きや思いに触
れることなんだな』
健太はそう思いながら、ひと呼吸だけ深く空気を吸い込んだ。
次に向かったのは「波照間島灯台」。
自転車をこぎ進めると、畑の中にぽつんと白く立つ灯台が見えて
くる。岬でも海沿いでもない、島の中心部に建てられた灯台。周囲
には遮るものが何もなく、白い塔が空に向かってまっすぐ立ってい
た。
『島全体を見守っているみたいだな……』
高さは16メートル。眩しさと美しさのバランスが絶妙だった。
人の気配はなく、風だけが緩やかに吹き抜ける。なぜこの場所に
建てられたのか。その理由はわからなくても、この灯台が今もなお
島を包み込んでいるような気がした。
午前中最後の目的地は「高那崎」。
先ほどの穏やかな灯台とは対照的に、この場所は圧倒的な“厳しさ”
を持っていた。断崖絶壁の上に立つと、下から荒波が絶え間なく岩
肌を叩きつけていた。白波がしぶきを上げ、遠くから潮騒が轟く。
『ここは……自然の威厳そのものだ』
健太は柵越しに、静かに海を見つめていた。そのはるか先にフィ
リピンがあるという事実が、何かしら時間の連なりを感じさせた。
サトウキビ畑の優しさ、灯台の静けさ、そして高那崎の荒々しさ
――同じ島のなかで、これほどまでに異なる表情があるとは思わな
かった。
気温は昼に近づくにつれ、ぐんぐん上がっていた。自転車のハン
ドルも少し熱を帯びはじめていた。健太はポケットからペットボト
ルを取り出し、一口含んだ。
さんぴん茶の香りが、喉の奥からやさしく広がる。
昨日、宿の女性が差し出してくれたペットボトル――何気ないや
りとりが、今こうして健太を支えてくれている。
『あの時、もらっておいてよかったな……』
水分補給とともに、健太の旅は午後へと進んでいく。
宿へ向かう帰り道。昼の光が高く、舗装された道の照り返しがじ
わりと足元に広がる。健太はゆっくりとペダルを踏みながら、島の
穏やかな気配を感じていた。
ふと視線を横にやると、草むらにヤギの群れがいた。
白い毛並みのヤギが一心不乱に草を食んでいる。中には道ばたを
気ままに歩いている子ヤギもいて、その歩き方がなんとも愛らしい。
健太が自転車を止めると、一頭のヤギがふと顔を上げ、じっとこ
ちらを見つめた。
その目は黒く澄んでいて、どこか人懐っこい。
健太は思わず笑ってしまう。言葉が交わされたわけでもないのに、
何か温かなものが伝わってきた。
『こういう瞬間が、旅の中ではいちばん記憶に残るんだよな……』
昼近くなっていた。陽射しも強くなってきたので、健太は宿へ戻
ることにした。部屋に着くなり、シャワーを浴びる。水の冷たさが
肌に心地よく、汗と疲れがすっと流れていく。
髪をタオルで拭きながら、健太はふとペットボトルのことを思い
出した。宿の売店で女性スタッフから受け取ったさんぴん茶。代金
はまだ渡していない。
『百円だけど……こういうのはちゃんとしておかなきゃ』
健太は売店へ向かった。ガラス戸をくぐると、土産品が棚いっぱ
いに並んでいた。貝を使ったアクセサリー、色とりどりの手ぬぐい、
そしてヤギを模した素朴な置き物たち。
店の奥では、女将さんが一人、帳簿を見ていた。
健太は少し遠慮がちに声をかけた。
「すみません、今日こちらでペットボトルをもらったんですが……
名前はわからないんですけど、女性のスタッフの方って、いらっし
ゃいますか?」
女将さんは顔を上げ、優しく微笑んだ。
「ああ、里桜ちゃんね。里桜ちゃ〜ん」
女将さんの声は、どこか安心感を含んでいて、店の奥に静かに響
いた。健太は、「里桜」という名前を心の中で繰り返した。
「は〜い」
店の奥から出てきた女性は、エプロンの裾に少し粉がついていて、
どうやら何か調理をしていたようだった。
里桜が健太の姿を見て、ふわりと笑った。
「もう帰ってきたんですか?」
「いえ、昼ごはん食べたら、また出かけます。あ、それから……さ
んぴん茶、ありがとうございました。助かりました。代金返してな
かったので、これ」
健太は、百円玉をそっと差し出した。その指先に、少しだけ汗が
にじんでいた。
「いえいえ、そんなのいいんですよ」
里桜は、手を軽く振って受け取ろうとしない。
「でも……」
健太は食い下がるでもなく、ただその思いを伝えようとしていた。
「それじゃ、私からのウェルカム・ドリンクということにしましょ
う」
にこっと笑ったその顔は、太陽よりも少しだけやさしい光を宿し
ていた。健太は、引き下がるしかなかった。だが、そのやりとりに、
どこか心がゆるむのを感じていた。
「わかりました。いろいろありがとうございます」
小さく頭を下げて売店を後にする健太。その背中には、まだ島の
風が静かにまとわりついていた。
居酒屋の扉をくぐると、エアコンの涼しさが汗ばんだ身体に心地
よく染み込んだ。木の柱やメニュー表には、どこか手作りのぬくも
りが漂っていた。観光客向けではあるが、島の日常と観光が自然に
共存している空間だった。
席についた健太は、テーブルの端に置かれたメニュー表に目を通
した。どれも美味しそうで迷ったが、ふと目を引いたのは写真付き
で紹介されていた「ジューシーおにぎり」。彩り豊かな具材と、ほ
どよい艶をもったおにぎりの写真が目を引いた。
『これ……気になるな』
健太はそれを二個注文した。やがて届いたおにぎりは、想像以上
に大きかった。一個で両手のひらにちょうど収まるほど。
炊き込みご飯の香りが湯気とともにふわりと広がる。米の間には、
細かく刻まれた豚肉、ニンジン、ひじき、カマボコがぎっしり詰ま
っていた。
一口食べると、豚のだし汁が具材全体をやわらかく包み込み、米
の一粒一粒がじゅわっと口の中でほぐれていく。
『なるほど……これはジューシーって名乗るだけのことはある』
健太は、次の一口をゆっくりと味わった。ニンジンの甘みとひじ
きの香りが追いかけてくるようで、食べるたびに違った顔を見せて
くれた。
二個食べ終える頃には、すっかり満腹だった。
身体の内側から温まるような満足感と、島の素材が生きた食事に、
健太の顔には自然と笑みが浮かんでいた。
昼食を終え、ゆるやかな満腹感に包まれながら居酒屋を後にする
と、健太は売店前の自動販売機でさんぴん茶を買い足した。午前中
にもらった一本は、すでに空になっていた。ペットボトルを手に取
り、しっかりと冷えていることを確認すると、健太は再び自転車に
またがった。
向かうのは——佐藤が教えてくれた“秘密のビーチ”。
ニシハマの南側に位置するその浜辺は、一般にはあまり知られて
おらず、静かな時が流れる場所だという。ニシハマから歩いても行
けると聞いたが、砂に足を取られ、暑さに負けてしまうらしい。
実際、佐藤も「よほどの健脚じゃないと辛い」と笑っていた。
そこで教えてもらったルートを辿ることにした。
まず目指すのは、浜シタン群落。
常緑高木ミズガンピ——琉球名「ハマシタン」——が生い茂るそ
の群落は、竹富町指定の天然記念物。樹齢数百年の大木たちが、島
の原風景を今なお守り続けていた。
健太は自転車を止め、木立の入り口に掲げられた【浜シタン】の
看板を見上げた。その脇の小路は、陽射しが樹々の隙間から差し込
み、落ち葉の上でキラキラと踊っていた。
“秘密のビーチへの道案内”のようにも見えた。
七十メートルほどの細道を歩いていくと、耳に波音が混じりはじ
めた。最初は遠くから小さく聞こえるだけだったのが、足を進める
ごとにだんだんと強まっていく。
まるで海が、「もうすぐだよ」と健太を呼んでいるかのようだっ
た。
やがて視界が開けた。風がいっきに抜け、白い砂浜と透明な海が
広がった。ニシハマに劣らぬ美しさ——むしろ、誰もいないという
点では、こちらの方が健太にとっては“完成された静けさ”があった。
『まさに……プライベートビーチ』
そう思った瞬間、胸の奥にある何かが、静かに揺れた。
砂浜を歩く。足元はさらさらとしているが、陽射しの強さに容赦
はない。影はなく、ベンチもシャワー施設もない。
健太はペットボトルのキャップをひねり、一気に三分の一ほどを
喉に流し込んだ。ジャスミンの香りが、強烈な太陽光の中でもやわ
らかく口内に広がっていく。
しばらく歩いたものの、太陽の圧力にじわじわと体力が削られて
いく。海は美しいが、あまりに完璧すぎて、今はまだ“触れられる距
離”ではないような気がした。
『次は朝に来よう。もしくは、サンセット・タイムに……』
そのとき風が少しだけ向きを変え、木々の間から陽の角度が差し
替わる。健太は、少し名残惜しさを感じながら、静かにその場を離
れた。
宿への帰り道、健太はふとペダルを止め、ニシハマの手前にある
小さな坂の上で視線を海へ向けた。午後の陽射しは容赦なく、空と
海の境界を白くぼかしていた。
ビーチに降りようかと思ったが、額ににじむ汗がその意欲をため
らわせた。それでも、なぜか引き寄せられるように足を向けた。
屋根付きの木製ベンチに腰を下ろすと、背中に熱い空気が絡みつ
く。それでも、ここにはわずかな日陰があった。
さんぴん茶のボトルを置き、息を整えるようにゆっくりと深呼吸
した。ニシハマには数人の観光客の姿があり、透明な海の中で笑い
声を交えながら泳いでいた。
その光景が、健太には少し不思議に思えた。
『この暑さでよく泳ぐもんだ』
目の前の海は、まるで絵に描いたような青さだった。
だが健太の目は、海の色の中に、別の色を探していた。
やがて視線を伏せ、胸の奥からふとした思いがこみ上げてくる。
『そろそろ、区切りをつけなければならない。沙也夏のことは——』
今日一日、島を巡るうちに、健太の中の何かが静かに変わりつつ
あった。景色が優しく語りかけてくるような気がして、波音が心の
内側をなぞっていく。
今までは、沙也夏を思い出さないようにすることでしか、前に進
む術を持っていなかった。けれど今は違う。彼女との記憶に向き合
うことで、自分自身を手放す準備ができてきた。
『環境を変えるって、こういうことだったのか……』
風が少し強くなり、海辺の草が揺れた。
麗子の言葉がよみがえる。
『環境が変われば、考え方も変わる』——たぶんそれを伝えたかっ
たのだろう。
何かを終わらせるためには、新しい何かが必要なのかもしれない。
区切りをつけるには、何をすべきか——健太の頭にいくつかの案
が浮かんでは消える。就職活動、バンドの再始動。どれも、すぐに
は現実味を帯びてこなかった。
そして、ギター。
麗子の冗談交じりの言葉を思い出す——
「波照間島は景色最高だけど、三日もいたら飽きちゃうかもね」
だからこそ、健太はギターを持ってきたのだった。
『曲を作るか。沙也夏への決別に……メッセージソングを』
そう思った瞬間、胸の奥が微かに震えた。
それは、悲しみの余韻ではなかった。
音楽に対して、久しぶりに自分が前を向けることへの、ほのかな
嬉しさだった。
健太は立ち上がった。
夕暮れへと傾きかける陽射しの中、遠く波照間の海が、まるで新
しい旋律を待っているように、静かにその存在を主張していた。
それから健太はニシハマをあとにし、自転車のペダルをゆるやか
に漕ぎながら宿へと向かった。熱い陽射しの中、心には妙に静けさ
があった。大切な何かを決意した後のような、ゆるやかな凪の時間。
宿に着くと、まっすぐ部屋へ戻った。
畳に置いたギターケースの横には、旅の荷物がまだ半分ほど解か
れたままだった。ギターはすでに梱包を解かれていたが、弦の張り
は明らかに緩んでいた。時計は午後4時過ぎを示している。夕飯ま
ではまだ時間がある。
健太はギターを膝にのせ、入念にチューニングを始めた。
ペグを少しずつ調整しながら、狂った音にひとつずつ向き合って
いくその手は、どこか儀式のようだった。まるで心の中の歪みを、
音で整えようとしているようにも見えた。
音が整うと、健太はギターを抱えて部屋を出た。
向かったのは、売店前の屋根付きベンチ。観光シーズンには常に
誰かが座っているらしいが、今はオフシーズン。連休も過ぎ、人影
はなかった。
なぜこの場所なのか——佐藤の言葉が思い出された。
オンシーズンに部屋でギターを弾いていたら、隣室から苦情が来
たらしい。だから、静かに音を鳴らしたいときはこのベンチ。思い
きり弾きたいなら、ビーチへ。
そう言って佐藤は、まるで自分の秘密を打ち明けるように教えて
くれたのだ。
健太はベンチに座ると、静かに弦を爪弾き始めた。
バンド時代に演奏していたオリジナル曲を、アコースティックバ
ージョンで奏でてみる。久しぶりのギターは指が少し戸惑っていた
が、やがて音が指先になじんできた。
数曲を弾き終えたころ、健太の目がぼんやりと空を見上げた。
空は次第に色を変えはじめていて、青がわずかに薄くなり、夕暮
れへの助走を始めていた。
『曲を作るなら、やっぱ詞からだよな……』
言葉の断片が心に浮かび、それが音へとつながっていく道を探し
ていた。
バンドをやっていた頃は、詞を担当することが多かった。
曲はいつもヒロシの領域だった——だからこそ、曲作りには少し
不安がある。けれど今回ばかりは違った。
沙也夏への決別を、自分自身の手で完成させなければならない。
誰にも譲れない感情。誰にも託せない旋律。その思いが、今、健
太の胸の中で、静かに燃えはじめていた。
ベンチから立ち上がる頃には、空が薄く紫がかり、島の一日がゆ
るやかに幕を引こうとしていた。夕食は今日も佐藤と共に摂ったが、
曲づくりのことが頭にあったせいか、ビールはグラス一杯でやめて
おいた。佐藤の陽気な笑い声が少し遠くに感じるほど、健太の心は
静かに熱を帯びていた。
部屋に戻ると、詞を作ろうとしたが、うまくいかない。詞が浮か
ばなかったのは、久しぶりだからというだけではなく、沙也夏に向
き合うことへの抵抗が、言葉の背中を押せずにいたせいかもしれな
い。
このまま部屋で閉じこもっていても、声にならない思いが散らか
っていくばかりな気がして——健太は、もう一度売店前のベンチへ
向かうことにした。
ベンチは夕方と変わらず、誰もいなかった。
波の音だけが遠くから届く。時折吹く夜風が、ギターの木目に触
れながら通り過ぎていく。健太は、軽く弦を爪弾いた。
ひとつのメロディーが浮かんできて、それに合わせて指が自然と
動いた。詞を書くとき、健太はよくこのスタイルをとる。
紙の上よりも、音に触れているほうが言葉が流れ出る——まるで
音が、言葉の鍵を開けてくれるようだった。
沙也夏との思い出が、ひとつ、またひとつと心に浮かんできた。
楽しかった瞬間、すれ違った夜、見送ったホテル……それらが音の
隙間に入り込んでくる。
夜風が心地よく吹いていた。売店前のベンチに座る健太は、ギタ
ーを抱え、ゆったりとしたテンポで弦を爪弾いていた。コードを探
るというよりは、音に触れること自体が、今の自分の気持ちとつな
がっているような気がしていた。
どこか懐かしいフレーズが指先から漏れ始めたころ、ふいに背後
から声がした。
「ギター、上手なんですね」
健太は一瞬手を止めて、声の方向へ顔を向けた。
暗がりの中に、見慣れた穏やかな表情があった——里桜だった。
「あ、いえいえ」
健太は少し照れ笑いしながら、ギターを軽く抱き直した。
「佐藤さんに聞いたんですけど、バンドされていたそうですね?」
「ええ……まあ。一応やってました。ボーカルを担当してました」
「そうなんですか。じゃあ、ライブとかもやられていたんですか?」
里桜の声は、興味と驚きが入り混じっていて、少し近づいたとこ
ろで立ち止まった。
「ライブは、けっこうやってました。ライブハウスが主でしたけど、
夏場には野外の会場でも。わりと大きいところでやったこともあり
ます」
「すごいですね……人前で歌うなんて、私にはとてもできそうにない
です」
その言葉を聞いて、健太は手でベンチを軽く叩きながら言った。
「立ち話じゃ、なんだし。よかったら、座ります?」
里桜は少し躊躇したが、促されるようにベンチの端に腰を下ろし
た。距離を保ちつつも、心の温度は少しずつ近づいているようだっ
た。
「人前で歌う時って、どんな気分ですか?緊張しないんですか?」
「もちろん緊張しますよ。ライブハウスは常連だったからそれほど
じゃなかったけど、大きい会場だと心臓バクバクですよ」
「やっぱりそうですよね……今は、もうされてないんですか?」
「今は……やってないです。いろいろ事情があって」
その言葉に、里桜は静かに頷いた。
「事情……私もある事情があって、波照間に来たんです」
声は風よりも静かで、島の夜の空気に溶けていった。
「そうなんですね」
「見つけに来たんです。これから進むべき方向を。仕事も含めて、
いろいろと……職場も、辞めなくちゃいけない状態になってしまっ
て」
一瞬だけ沈黙が流れた。
健太は、言葉にしづらい過去を抱えてやってきた里桜の思いが、
ほんの一瞬だけ垣間見えた気がした。
「……ごめんなさい。ギターを弾いているところ、邪魔しちゃいま
したね」
里桜は立ち上がり、深く頭を下げた。
「いえ。むしろ、話しかけてもらえてよかったです」
その言葉を聞いたのか聞かないのか、里桜はベンチの影へ静かに
歩いていった。健太は、去っていく背中を見ながら、ギターのネッ
クをゆるく握り直した。
みんな、それぞれの悩みを抱えて、この島で静かに過ごしている
——そのことが少し心に沁みた。
再び弦を鳴らそうとしたが、詞は浮かばなかった。
『今はまだ…早いな』
そう思いながら、ギターを抱えてベンチから立ち上がった。
『明日の朝、海を見ながら作ろう』
そう決めて、健太は夜の宿へ静かに戻っていった。




