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彼方からの風  作者: 杉本敬
第3章
29/53

29.身の上話

 居酒屋の引き戸をゆっくり開けた瞬間、健太の耳に誰かの声が飛

び込んできた。

「谷川さん。こっち、こっち」


 暖色の照明に照らされた店内は、小さな島の夜にしては賑やかで、

笑い声と食器の鳴る音が入り混じっていた。

 視線を向けると、店の奥のテーブル席で佐藤がビアジョッキを片

手に、口の端を上げていた。


 健太は軽くうなずき、奥へ歩いていった。畳敷きの床に膝を落と

すと、すでにジョッキの泡は少し消えかけていて、露がきらきらと

輝いていた。


「一緒にどうです? イケる口でしょ?」

 佐藤は楽しげにジョッキを掲げながら言った。その言葉は形式ば

った誘いではなく、どこか“仲間”としての空気を帯びていた。

 むろん健太も酒は嫌いではない。むしろビールは大好物だった。


 ただ、どこか律儀に社交辞令を通したくなって言った。

「いいんですか?」

「ええ、もちろん。いつもひとりで飲んでたんですよ。一緒に誰か

と飲みたかったんですよ」

 その言葉に、健太の肩の力がすっと抜けた。

「じゃあ……お言葉に甘えて」


 席に着くと、佐藤が手書きのメニュー表を健太に手渡してくれた。

 色褪せた表紙には、島の空気が染みついているようで、端々にほ

んの少し滲んだビールの跡も見えた。


 開いてみると、そこには沖縄らしい料理の名が並んでいた。

 らふてぃ豚角煮、ゴーヤーチャンプルー、ジーマーミ豆腐、海ぶ

どう、島らっきょう、もずくの酢の物――

 どれも素朴な文字で書かれていて、ひと皿ずつが店の“顔”として

丁寧に紹介されているようだった。

 タコライス丼にあぐー餃子、そして沖縄そば定食も数種類。島で

過ごす人々の空腹と会話を支える定番たち。


 健太は迷いながらも、やはり王道のゴーヤーチャンプルーと生ビ

ールを頼もうと口を開きかけた――そのとき、佐藤が軽く手をあげ

て制した。


「ちょっと待っててください」

 そう言うと、佐藤はすっと立ち上がり、厨房の奥へ入っていった。

 すぐに、冷えた生ビールをジョッキに注いだ佐藤が戻ってきた。

 その手には、陽の光を通したような黄金色の液体がゆっくりと揺

れていた。


「すいません。わざわざ持ってきてもらって」

 健太は、ちょっと恐縮したように言った。

「いや、僕もスタッフの一員なんで」

 佐藤は肩の力を抜き、ジョッキを軽く持ち上げて言った。

「では、乾杯」


 ジョッキ同士が軽く合わさる音が響いた。店内のざわめきのなか

で、その音だけが静かに際立つ。

 オリオンビール――と、ジョッキの印字が目に入った。


 南国の夜に似合う、あの軽やかなのど越し。健太はグラスに口を

つけ、一口飲んだ。冷たさと炭酸の細かさが喉をくすぐり、するす

ると胃に落ちる。重たさがなく、それでいて麦の香りがほんのり残

る。


『これなら……何杯でもいけるな』

 そんな思いが、あえて言葉にせずとも頬のゆるみから滲んでいた。

 島の夜――はじまりの一杯。

 波照間の時間が、少しずつ健太の体の中にも流れ始めていた。


 ジョッキの縁に指をかけ、喉に流す冷えたビールの軽さにほっと

していた健太は、ふと疑問を口にした。

「佐藤さん、いつもここで食べてるんですか?」


 佐藤はジョッキをゆるく傾けながら答える。

「シーズンオフの時はね。繁盛期になると、観光客でいっぱいにな

るから、家で済ませるんです。今は連休明けだから、しばらくはこ

こでゆっくりできそうですね」

 波照間の季節感。観光と暮らしが交錯する島のリズム。健太はそ

の言葉の奥に、島時間の柔らかなうねりを感じていた。


 ジョッキに手を伸ばしたところで、厨房から女性の声が届いた。

「お待たせいたしました。ゴーヤーチャンプルーです」

 顔を上げると、先ほどニシハマの道順を教えてくれた女性だった。

 皿から立ちのぼる香ばしい香りに、健太は自然と笑みをこぼした。

「あ、さっきはありがとうございました」

「いえいえ。ニシハマ、無事に着けました?」

「はい。おかげさまで」

「それは良かったです。では、ごゆっくり」


 そう言って、女性は柔らかく微笑んでから厨房へと戻っていった。

 その横顔を目で追いながら、健太はふと、思った。

“あんなに笑顔が綺麗な人だったかな”

 昼間、受付で見たときには気づかなかった。あの場所では案内が

“言葉”だった。でも今は、彼女の表情が“気持ち”として届いていた。


「美人でしょ。彼女」

 佐藤が、ジョッキの上に目線を残したまま、健太の心を見透かす

ように言った。

「そうですね。地元の方なんですか?」

「いや、移住してきたらしいです。よくある話で、波照間の海に惹

かれて……ってね。暮らすうちに、この島の時間が心地よくなった

みたいですよ」

「なるほど……」

 健太は、彼女の笑顔が島に根ざしているように思えたことに、妙

に納得していた。


「ところで、皆さんここで働いている方って、いろんなことされて

ますよね?彼女も昼間は受付にいましたし……」

「そうですね。一応、メインの担当はあります。僕は送迎が中心。

彼女は売店の対応。でも、繁盛期になるとスタッフみんながいろん

なポジションを跨いで動くんです。居酒屋の手伝いとか、受付とか

ね」

「じゃあ彼女も……?」

「ええ。彼女はこの仕事自体が好きで、手伝える場面があれば率先

して動いてくれるんですよ。繫盛期以外でも、今日みたいに普通に

厨房に立ってるし。あの人らしいって感じです」


 島に“居る”ということは、ただ暮らしているだけじゃない。島の

営みに触れて、自分の居場所を育てていくことなのだと、健太はそ

の会話から静かに感じ取っていた。

 ゴーヤーチャンプルーの湯気が、二人の会話をやわらかく包んで

いた。


 健太は箸の先で炒められたゴーヤの輪を持ち上げ、その鮮やかな

緑に島の光が宿っているように感じた。噛むと、ほどよい苦みと豚

肉の旨味がじんわり広がり、まさに“島の味”だった。


「ゴーヤーチャンプルー、さすがですね……味も量も、なんか豪快

で」

 そう漏らすと、佐藤はグラスを置いて笑った。

「観光向けに少しマイルドにはしてるけど、ちゃんと島の味は残し

てると思いますよ」

 ふたりの会話は料理の香りに包まれながら、自然と旅の話へと移

っていった。


「ニシハマはどうでした?」

 唐突な問いだったが、健太はすぐに答えられた。

「感動しました。まるで絵葉書の中に入ってしまったようでした。

エメラルドグリーンとハテルマブルーが、目の前で広がってて……

現実感がなかったです」

「それが波照間の凄さですね。僕も八重山の島いろいろ回ったけど、

この海の透明度と色は……別格だと思います」


「全部の島、行ったんですか?」

「いや、だいたいは。竹富、小浜、黒島、西表、由布島あたりはね。

でも新城島と鳩間島はまだ。どちらも観光の手があまり入ってなく

て、ほんとの“島の姿”が残ってるらしいですよ」

「鳩間島って、そんなに開発されてないんですか?」

「ええ。人は住んでるけど、観光目当てで行くと拍子抜けするかも。

でも、静けさや自然が好きな人にはたまらないと思います」


 箸を休め、グラスに手を伸ばす健太の視線が、佐藤へ向いた。

「なんか詳しいですね。そもそも、なんで沖縄に?」

 佐藤はひと呼吸おいて、ちょっと苦笑しながらビールを煽った。

「長くなるけど……要は逃げてきたって感じです」

「大阪で働いてたって言ってましたよね?」


「ええ。サラリーマン。でも、上司と衝突してね。あとは……関西

弁が苦手で、なんか自分が溶け込めてない感覚が強かった」

「じゃあ、東京から大阪に行ったんですか?」

「そう。東京も窮屈で大阪も馴染めず、八方塞がりみたいな気分で」

 ジョッキを傾ける佐藤の表情は、どこかふっきれたようだった。


「そんなときに、テレビで八重山諸島の特集を見て。波照間の海が

映ってた。なんか直感で“ここだ”って思ったんですよ。それから辞

表出して、即承諾。で、三日後には沖縄の空気吸ってました」

「大胆な行動を取りましたねぇ」


 健太の声には、羨望と少しの敬意が混じっていた。グラスを傾け、

生ビールの冷たさがのどを滑っていく。それは、日々の迷いを押し

流してくれるようだった。


 佐藤はにこやかに笑いながら言葉を返す。

「思い立ったらすぐ行動——それが僕の癖みたいなものでして。で

も波照間まで来たときには、さすがにもう財布が空でね。ダメ元で

ここの女将さんに“バイト募集してませんか?”って聞いたら、即答

で“いいよ”って。驚きましたよ、ほんと」

 健太は、どこか信じられないような目で佐藤を見た。


「それで今に至ってるんですね」

「ええ、もう感謝しかないですよ。それに波照間には、人の温かさ

が残ってる気がするんです。ところで、谷川さんは、どうして波照

間に?」


 柔らかい問いかけだった。しかし、健太の胸にはずしりと届いた。

 健太は一瞬黙った。話すべきかどうか迷ったが、自分が尋ねたの

だから、今度は自分が答える番だと感じ、少しずつ麗子とのいきさ

つを語り始めた。話しているうちに、言葉にならなかった感情が、

自分の中で整理されていく感覚があった。


 佐藤ははじめ冗談めかして笑っていたが、だんだんと表情が真剣

になっていった。

「わかりますよ、その気持ち。僕も就活に前向きじゃなかったです

しね」

 健太は思わず聞き返した。

「そうですか……佐藤さんもそうだったんですね」

「働いてる人から見ると、“仕事してない人間”の気持ちはなかなか

理解できないもんですよ。僕も大阪の会社でうまくいかなくて。だ

からこそ慎重になって、結局、“頭を空っぽにする場所”を探してこ

こまで来ました」

 佐藤の言葉が、島の風と混ざり合って健太の胸に染み込んだ。


「でも、佐藤さんは自分で動いた。俺は、人に背中を押されて、よ

うやく旅に出ただけです」

 健太は自嘲気味に言った。

「それでもいいと思いますよ。大事なのは、動いたことです。背中

を押されても、自分の足でここまで来た。それは大きいですよ。で

もなんで、ギターとか持ってきたんですか?」

 佐藤が、グラスの縁を指先でなぞりながら問いかける。


「あ、それは……恥ずかしい話ですけど、以前バンドをやってたん

ですよ」

 言葉の隅に照れが滲んでいた。

「バンド!それはいいですね」

 佐藤は嬉しそうに目を見開いた。


「音楽って、島とすごく相性いいと思いますよ。風の音とか、波の

リズムとか、島全体が楽器みたいなものですし」

「今は、まあ……休止中ですけどね。でもギターはできるから、海

を見ながら曲でも作ってみようかなぁって」

「ニシハマで?」


 佐藤は身を乗り出す。

「ええ。あそこなら静かですし」

「それもいいけど、もっと静かな場所ありますよ。僕が“秘密のビー

チ”って呼んでるところなんです。ほとんど人がいなくて、ハテルマ

ブルーに包まれる場所。ただし潮の流れが速いので、泳いだりする

のは禁止なんですけどね」

 健太は思わず箸を止めた。

「そんな場所があるんですか……」

「あります。行ったら、たぶん詞を作らずにはいられなくなります

よ」


 その後も、佐藤は地図を指しながら、島の見どころや風景の話を

重ねた。北浜の夕日、星空の観測所、満月の晩の夜道の静けさ――

すべてが、ここでしか味わえない時間のかけらだった。


 テーブルの上では、島料理が賑やかに並んでいた。ぷちぷちとし

た海ぶどうの食感、天ぷらになった島らっきょうの香ばしさ、そし

て濃厚な風味のゴーヤーチャンプルー。

 それぞれの味が、ふたりの会話にぴたりと重なっていた。


 健太はグラスを傾け、ビールの苦みと旨味を深く感じた。

「久々に、美味いと思えるビールですね……」

 その言葉に佐藤は笑い、静かにグラスを掲げた。ふたりのあいだ

に、音楽のように流れる沈黙があった。そしてその沈黙すら、心地

よかった。










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