28.ハテルマブルー
部屋の一番奥にある窓へ歩み寄ると、健太はゆっくりと半分ほど
ガラス戸を開けた。その途端、南の島らしい温かい風がふわりと吹
き込み、肌を撫でていった。空気はさらりとしていて、ほんのり潮
の香りを含んでいる。
外を見ると、高い空にぽっかりと浮かんだ雲がいくつか見えた。
どれも丸みを帯びて、のんびりと浮かんでいるようだった。
その青さと白さのコントラストは、まるで水彩画のようで、健太
は思わず見入ってしまった。
『沖縄らしい空だな……』
そんな言葉が自然と心に浮かぶ。けれどそれは、ただの感想では
なく、空気に染み込むような実感だった。
窓をそのまま開け放ち、健太はベッドに腰を下ろした。背中に伝
わるマットの柔らかさが、今日一日の移動の疲れをそっと受け止め
てくれる。風はときおりカーテンを揺らし、遠くで鳥の鳴き声が響
いた。
波照間の部屋。島の午後。何もないはずなのに、ここには言葉に
ならない“何か”が、確かに満ちている。
壁際に梱包されたまま静かに立て掛けられていたギター。
健太はベッドから立ち上がると、包みをほどき始めた。段ボール
には「取扱注意」の赤いラベルが貼られており、ガムテープの端を
めくるたびに、少しずつ空気の温度が変わっていくようだった。
ギターをここまで送ったのには、理由がある。
麗子から「波照間島は景色も海も文句なしだけど、三日もいると
ちょっと飽きるかもよ」と言われていたのだ。
海が好きな健太は「そんなことあるかな」と半信半疑だったが、
それでも、何か自分らしい過ごし方ができれば――そう思って、ギ
ターの弾き語りをするのもいいかもと考えた。
梱包を解くと、ハードケースが現れた。手にしたとたん、健太は
その重みが懐かしくも心地よく感じられた。留め具を外してそっと
開けると、ギターが静かに姿を現した。
光沢のある木肌に傷はなく、ペグも弦も無事。運送中に揺れた気
配もなく、きちんとこの島までやって来てくれた。
『やっぱりハードケースにしてよかったな……』
健太はギターを抱えると、指先が自然とネックに触れた。
「さて、チューニングでもしようか……」
そう思った瞬間、ふと、何かを思い出したように「あっ」と声が
漏れた。何か忘れてる――そんな感覚が、今まで風に溶けていた思
考を引き戻した。
「そうだ、ニシハマだ。ニシハマを見に行くんだった!」
思わず声を上げると、健太はギターをそっと壁に立てかけ、机の
上にあった部屋の鍵を掴んで部屋を飛び出した。心の中に波がひと
つ打ち寄せるように、胸がじわじわと弾み始めていた。
フロントへ向かうと、カウンターには女将ではなく、若い女性が
座っていた。素朴な柄のシャツに、島らしい落ち着いた笑顔。その
雰囲気が島時間の柔らかさを伝えてくるようだった。
「ニシハマですね」
声はハキハキしていて、迷いがなく、教え慣れている様子だった。
「売店の前を右に進むと大きな道に出ます。そこを左に曲がって、
しばらく直進。案内板が見えたら、右折してください。その道沿い
を進んでいただければ、ニシハマに着きますよ」
「ありがとうございます!」
健太は礼を言って、足早に宿を出ようとした――そのとき、女性
が慌てて声をかけてきた。
「お客さん、歩いて行かれるんですか?」
「えっ?」
「歩きじゃちょっと無理ですよ。自転車かバイクじゃないと遠いで
す」
「あ、そうか……すっかり忘れてた」
健太は自転車を借りようと思っていたことをようやく思い出す。
「レンタルサイクル、ありますか?」
「あります。こちらへどうぞ」
女性は外へ出ると、裏手のほうへ歩き出した。健太もその後を追
う。居酒屋の前を通ると、日差しが暖簾の影をゆらしていた。その
奥、庇の下には数台の自転車が並んでいた。
「手前がノーマル、奥が電動です。料金は、ノーマルが一日300
円、電動は500円です。三日以上なら割引もありますよ。ご滞在
は何日ですか?」
「えっと、一週間です」
「けっこう長いですね。あ……麗ちゃんの知り合いの谷川さんですよ
ね?」
「あ、はい。そうです」
「それなら、滞在中の乗り放題で1000円で大丈夫です。女将さんか
ら言われてます」
麗子の名前が、ここでも柔らかく通じていた。人づてに広がる優
しさが、島にはある。
「島内をいろいろ巡るなら、電動がいいですよ。楽ですし、ニシハ
マまでならなおさらです」
健太は頷いた。
『この距離感とこの気温なら、たしかに電動が正解だな』
「じゃあ、電動にします」
女性は奥に並んだ自転車の中から一台を選び、手押しで持ってき
てくれた。ハンドルはぴかぴかに磨かれていて、ペダルの感触も軽
やかだった。
「ありがとうございます。一週間、お借りします」
「料金はチェックアウトのときで大丈夫です。お気をつけて、行っ
てらっしゃいませ」
健太は自転車のハンドルを握りながら、深く頭を下げた。雲はい
くつか浮かび、空の色はどこまでも青かった。
窓辺で浮かんだ風が、今、自分の背中を押してくれている気がし
た。
女性の案内を胸に刻みながら、健太は自転車のサドルに跨った。
ペダルを踏むと、タイヤが小さく音を立てて動き出す。ハンドル
越しに吹く風は、どこか甘い潮の匂いを含んでいて、陽射しに包ま
れた道は想像以上に眩しかった。
店の前を抜け、教えられたとおりに少し広めの通りを右折する。
道路は舗装されているが、車通りは少なく、民家の塀には南国ら
しい植物が絡まりながら咲いていた。赤瓦の屋根がちらほらと顔を
出し、空とのコントラストが島時間を印象づけている。
しばらく走っていると、郵便局の文字が目に入った。
白い壁に赤い看板。小さな建物ではあるが、この島での金融の要
所だ。
健太は一旦自転車を停め、スタンドを立てて、軽く息を整えた。
「ここが郵便局か。現金が必要になったら、ここで下ろせばいいん
だな」
そう独り言のように呟く。
波照間島には銀行がない。唯一の金融機関は、この郵便局と農協
だけ。麗子から「通帳かキャッシュカードは持って行ったほうがい
い」と事前に聞いていたため、通帳は持参せず、財布にキャッシュ
カードを入れてきた。
島の風が静かに吹き抜けていく。ポストの赤が、空の青さを吸い
込むように鮮やかだった。
再びサドルにまたがり、ペダルを踏む。今度は酒造所が見えてき
た。白壁に堂々と掲げられた「泡波酒造所」の看板。工場と呼ぶに
はあまりに静かで素朴な建物だったが、こここそが、幻の酒「泡波」
を生む場所だった。
泡波――その名を知る者は、知る。
生産量が極端に少なく、島外ではまず手に入らない。島内でも、
一般販売は極小ボトルに限られ、フルボトルは幻のような存在だ。
運が良ければ、宿の棚にそっと置かれていることもあるが、それ
もまた一期一会のようなもの。
健太は興味深げに横目で酒造所を眺めながら、そのまま自転車を
進めた。風の匂いが変わってきた。少し塩気を帯びている――潮風
だった。前方に「ニシハマ」と書かれた案内板が見えてきた。木製
の素朴な板に、白い文字が浮かんでいる。
ここを右折するのか。案内通りにハンドルを切ると、道はやや細
くなり、片側には背の低い草木が並んでいた。その隙間から、微か
に海の色がのぞいている。風が頬を撫でていく。
健太は、その風が「ようこそ」と言っているような気がした。
『……もうすぐ、ニシハマだ』
ペダルに込めた力が、静かに期待を押し上げていた。
坂道を下るときの風は、肌を切ることなく、やさしく背中を押す
ようだった。ペダルを踏まずとも自転車が滑り落ちていく。スピー
ドにまかせて走るうち、前方が開け、視界の先に鮮烈な光景が広が
った。
健太は、自然とブレーキをかけた。坂を下りきる手前で自転車を
止めたのは、そこがニシハマを一望できる“定点”だったからだ。
――誰もがここで立ち止まる。
風が頬にあたり、島の匂いを含んだ潮の香りが健太の鼻をくすぐ
った。目の前には、見たことのないほど澄んだ青が広がっていた。
空と海。その境界線すら曖昧になるほどのグラデーション。
手前は柔らかく光るエメラルドグリーン。その奥には、深く、静
かなブルーが静かに横たわっていた。
健太は空を見上げて、海を見た。そしてもう一度、空を――
交互に見比べながら、心の奥にある“青”の定義がゆっくりと塗り
替えられていくのを感じていた。
『これが……本物の青か』
声には出さなかったが、確信だけは強く胸に刻まれた。言葉が出
ないほど美しいという感覚は、いつだって呼吸を奪っていく。
健太はそっと自転車を土手に停め、砂の上に足を下ろした。
足裏に伝わる感触は、さらりとした白砂。波の音が、耳元で静か
にさざめいていた。視界のすべてが“広がる”というより、“包まれる”
ようだった。
『……ハテルマブルー……』
その言葉は、彼の心にそっと沈んでいった。誰に向けたわけでも
ない、ただそこに満ちていた感情の輪郭だった。
海には数人の人がいた。泳いでいる者もいたが、ただ立ったまま
波に身を委ねている者もいた。その姿はまるで、風景の一部のよう
で、時間が止まっているようでもあった。
健太は思った。
『この気持ち、わかるな……。ただ、立っていたくなる海だ』
この光景を前にすれば、誰だって言葉を忘れる。美しさが、まる
で“沈黙そのもの”として存在している。その沈黙を、健太は今――
受け取っていた。
あまりにも美しい海に呆然としていた健太だったが、しばらく砂
浜に身を預けていると、ニシハマの景色が少しずつ目に馴染んでき
た。
ビーチへ降りる手前の高台には、公共施設がきちんと整備されて
いる。白い壁のトイレ棟、更衣室、シャワー室――観光地としての
最低限の機能は備わっていた。その横には、屋根付きのベンチもあ
り、海を望みながら腰を下ろせる空間が静かに広がっていた。
そして、砂浜と対比するように、南国の植物クサトベラが繁々と
生えている。緑の葉は分厚く艶があり、風に揺れるたびに太陽光を
返していた。この場所がただの“綺麗な海”ではなく、島の生命が息
づく空間であることを強く印象づけていた。
健太は砂浜に座り、膝を抱えて波を眺めていた。潮騒は一定のリ
ズムで耳に届き、そのたびに思考がほぐれていくのが分かる。何も
考えないことを“心地よい”と感じるのは、いつ以来だっただろう。
『麗子さんが波照間に行けって言った理由、わかる気がするな……』
その言葉に含まれる優しさと、距離のとり方が、今になって胸の
奥に染みてきた。忙しさや迷いに埋もれていた心が、ゆっくりと地
表へ浮かび上がってくるようだった。
気づけば、一時間以上が経っていた。スマホの画面を確認すると、
時刻はすでに午後四時を回っている。健太は名残惜しさを胸に、砂
を軽く払って立ち上がった。空はまだ明るいが、陽射しは少し斜め
になり始めている。
『帰りは……上り坂か』
自転車に近づくと、周囲には同じように坂道へ向かう観光客の姿
がちらほら見えた。その多くは、傾斜のきつさに負けて、自転車を
降りて手押ししていた。
健太も自転車に手を添えると、静かにペダルから足を外した。
『そうだな。急ぐ旅じゃない。この坂も、きっと思い出になる』
波照間の午後は、そんなふうにゆるやかに過ぎていく。
宿の横にある自転車置き場に電動自転車を停めると、健太はその
まま自分の部屋へと戻った。ドアを開けた瞬間、外の熱気を引きず
るような空気が部屋の中に入り込んできて、額に溜まった汗がじん
わりと意識された。
『やっぱり暑いな……』
Tシャツは肌に貼りつくように湿っていて、健太はすぐに着替え
ようと荷物に手を伸ばした。持参した数枚のTシャツのうち、青系
のものを選び、新しい生地の感触に胸の奥が少しだけスッとした。
それから窓に向かい、両手でガラス戸を勢いよく開け放った。
思っていた生暖かい空気とは違って、意外にも涼やかな風がふわ
りと室内へ吹き込んだ。肌を撫でるその風は、どこか海の匂いと植
物の気配を混ぜ込んでいて、心地よさの余韻を静かに残していく。
『そういえば……麗子さんが言ってたな。沖縄は海が近いから、夕方
の風は涼しいって』
ふと、その言葉が思い出されると、健太は静かにベッドに身をあず
けた。波照間の風と空気に包まれて、旅の疲れが少しずつ輪郭を解い
ていくような感覚だった。
夕食は午後六時からと聞いていたので、今はまだ余裕がある――そ
う思って目を閉じると、風の揺らぎと海の記憶がゆるやかに胸の内を
浸していった。
気づけば、浅い眠りに落ちていた。夢も見ないまま、ただひたす
ら静かな風に漂っていたその時間は、ある意味で一番遠くまで旅を
していたのかもしれない。
目が覚めた瞬間――外の空気が変わっていることに気づいた。
窓の外は暗く、空には星の光がほんのり滲んでいる。
健太はハッとしながら飛び起きた。時計を見ると、午後七時半。
夕食の時間はとうに過ぎていた。
『しまった……』
けれど、時計の音も風の音も、責めるような響きではなかった。
波照間の夜が、ただゆるやかに、彼の時間を包み込んでいただけ
だった。




