27.波照間島へ (後)
飛行機は滑走路に静かに着地すると、機内に軽い安堵の空気が流
れた。機体が誘導路をゆっくりと進むあいだ、健太は窓の外に広が
る南国の景色を眺めていた。ターミナルの屋根が近づくにつれて、
いよいよ“旅が始まった”という実感が胸の奥にじんわりと広がって
いく。
機内アナウンスに促されるまま立ち上がると、彼はバッグを肩に
掛け、空港内を歩きはじめた。手荷物は大きめのバッグがひとつだ
け。荷物が軽いぶん足取りも軽かった。大きなガラス窓越しに差し
込む日差しが強く、視界を白く染めている。
ロビーを抜けて外に出た瞬間、熱気を含んだ空気が全身を包み込
んだ。南国特有の濃密な陽射しが肌にまとわりつき、健太は思わず
手を額の前にかざした。
『さてと、ここから石垣港離島ターミナルへ移動するんだな。まず
バス停を探さないと』
路面の熱がジリジリと靴底を通して伝わってくる。遠くで軽快に
通り過ぎるタクシーの姿を眺めながら、彼は移動の段取りを思い出
していた。
石垣島には電車は通っていない。公共交通は基本的にバスかタク
シー。レンタカーやバイクも選択肢にはあるが、観光地らしい土地
勘のない者には、まずは“地元のリズム”に沿った移動が良さそうだ
と思った。
バス停を探す途中、島独特の風――潮風と植物の香りが混ざった
ような香りが、健太の記憶にない匂いとなって静かに鼻をくすぐっ
ていた。
『波照間島まで、あともうひと息だな』
旅の輪郭が、目に見える景色へと近づいてくる。その一歩一歩を、
健太は確かめるように歩き出した。
周囲を見回すと、空港前の道路の向こう側、右斜め前に路線バス
の停留所が見えた。小さな標識が陽射しを反射して、ちらりと光っ
ている。目の前にはタクシー乗り場があり、すでに何台かが待機し
ていた。乗り場の係員が帽子を押さえながら乗客を案内している姿
が見える。
健太は一瞬、タクシーで行ってしまおうかと思った。確かに時間
は短縮できる。空港から石垣港離島ターミナルまでは、およそ三千
円ほどだと事前に調べていた。だが、失業中の身としては、その額
は決して軽くない。対して路線バスなら五百円代で済む。
『まあ、時間はあるしな。ここはバスで行こう』
その決断は、旅のスタイルを自然に形作っていく。せっかくの島
旅だから、なるべく地元のリズムに身を委ねたい――そんな思いも
心の片隅にあった。
さっそくバス停に向かおうと足を踏み出したところで、ふと時計
に目をやる。11時30分近くになっていた。南国の太陽はすでに
空を高く昇り、昼の熱気をしっかりと帯び始めている。
『あ、そういえば昼飯だ。波照間島の港には売店があるにはあるけ
ど、土産物ばかりだってどこかで読んだな。食べるものは期待でき
ないかもな』
健太は踵を返し、再び石垣島空港の中へと足を運んだ。冷房の風
が肌を撫でると、少しだけ背筋が伸びた。フードコーナーを見て回
ると、琉球そばやソーキ定食など、軽食コーナーのメニューが並ん
でいた。だが、乗り継ぎの時間やバスの発車時刻を考えると、持ち
運べるもののほうが便利だ。
そんなとき、目に留まったのが「石垣牛のおにぎり」と「かまぼ
こおにぎり」だった。ワゴンのガラスケースに並んだそれは、丸み
のあるフォルムと手作り感のある包装が印象的だった。
「かまぼこおにぎり――ジューシーをかまぼこで包んでるんだって。
なるほど、炊き込みご飯ってことか」
健太は声には出さず心の中でうなずきながら、迷うことなく手に
取った。外側のかまぼこは厚みがあってふわりとしており、包装越
しにもだしの香りがほのかに漂っていた。石垣牛のおにぎりも一緒
に購入した。
『よし、これで準備完了だ。あとは波照間まで行くだけだな』
空港のロビーを出ると、太陽はさらに強くなっていた。健太は、
おにぎりの袋をしっかり握りしめながら、バス停へ向かって歩き出
した。
食料の準備を終え、健太はバス停へ向かった。
空港から出た瞬間に感じる南国の光は、昼が近づくにつれ濃さを
増している。目の前に走る道路の向こう、右斜め前にはバス停の標
識が揺れていて、タイミングよく12時発のバスがやってきた。
車内は、観光客や地元の人々が混ざり合い、ざわめきもなく穏や
かだった。健太は窓際の席に腰を下ろすと、静かに車窓へ視線を向
けた。
道路沿いには平屋の建物が並び、ところどころに南国特有の濃い
緑が咲いている。赤瓦の屋根が眩しく、風の匂いにも島の湿度が混
じっていた。
『これから旅が始まるんだな……』
車窓の風景は、どこか映画のワンシーンのようで、健太の心に“始
まり”という言葉の実感をゆっくり沁み込ませていった。
バスはやがて石垣港離島ターミナルに到着した。
ここは竹富島、西表島、小浜島、波照間島、黒島、鳩間島など、
八重山諸島へと旅立つ人々の出発点であり、まさに“島を渡る者たち”
が集まる場所だった。
健太はまず、波照間島行きのチケットを求めて、安栄観光のデス
クへ向かった。複数の船舶会社の窓口が並ぶ中、波照間島だけは安
栄観光が唯一の運航となっている。係員の応対は落ち着いていて、
慣れた手つきで手続きが進む。
『便数が少なくて、天候次第で欠航もあるって聞いてたけど、今日
は大丈夫みたいだな』
実際、外の海は穏やかに波を打ち、空も雲ひとつない。
健太はチケットを財布にしまうと、ふらりと売店に立ち寄り、さ
んぴん茶のペットボトルを手に取った。南国独特のジャスミンの香
りが喉を潤す気がした。
そして、波止場のベンチに腰を下ろす。
石垣空港で買った石垣牛のおにぎりと、かまぼこおにぎりを広げ
る。潮風が頬を撫で、海の音が遠くから届く。
『久しぶりだな……海を見ながら食べるなんて』
ひと口ごとに、旅の味が少しずつ胸に沁み込んでくる。食べ終え
たあとは、静かに海を眺めていた。船がゆっくり行き来する姿が、
まるで“人の時間”を運んでいるようだった。
ターミナルの海ですら、青く澄んでいる。
『ここでこんなに青いなら、“ハテルマブルー”って……どんな色な
んだろうな』
空と海が溶け合うような静けさの中、健太は物思いにふけってい
た。やがて、フェリーの出航20分前となり、港に一隻の船が入っ
てきた。船体の白が太陽を受けて輝いている。
健太はゆっくり立ち上がり、バッグを肩にかけて、フェリー乗り
場へと歩き出した。
潮風に混ざるエンジン音――これから波照間島へ向かう旅が、い
よいよ動き始めようとしていた。
さすがに連休明けということもあって、波照間島行きのフェリー
乗り場には人影がまばらだった。健太は並ぶことなくすんなり乗船
でき、船内の柔らかな空気にほっと息をついた。
座席は中型船らしいカジュアルな造りながら、クッションが思い
のほかしっかりしていて、健太は体を預けながら窓の外へと目を向
けた。今回乗る船は大型ではなく中型。機体が小さい分、海の表情
をダイレクトに感じられるのだろうという期待もあったが、同時に
揺れへの不安も少しだけ胸に浮かんでいた。
出航の合図が鳴ると、フェリーは港をゆっくり離れ始めた。船体
が静かに波を分けながら進むうち、速度は徐々に上がっていった。
『ちょっと飛ばしすぎじゃないか……』
健太は窓に映る波のラインが細かく砕けていく様子を眺めながら
そう思った。
そういえば、以前この航路のフェリーは「海の暴走族」と呼ばれ
ていたらしい。冗談だと思っていたが、その加速感に思わず背筋を
伸ばした。
やがて、進行方向に小さな島が見えてきた。これが小浜島だ。
かつてドラマの舞台にも使われたその島は、静かな佇まいで遠く
に浮かんでいた。それに続いて西表島が姿を現し、健太は外の景色
に身を預けるようにして、潮の匂いと風の音に心を委ねていた。
しかし、その穏やかな時間は突然に崩れる。
船体がぐらりと揺れ始めた。
『結構揺れるな……』
そう思っていた矢先、船が一段と大きく跳ねるように上下し、健
太の体がふわりと浮いた。まるでジェットコースターの急降下に乗
っているかのような感覚。
『嘘だろ! こんなに揺れるのか……』
船内には観光客たちの悲鳴が響き始めていた。一方で、島の人ら
しき乗客たちは平然とした様子で座っており、むしろ船が揺れるの
は当然といった風情で、まるで揺れと共に呼吸しているようだった。
健太は手すりに軽くつかまりながら、『早く収まってくれ……』と
心の中で願っていた。
大きな揺れは、おそらく十分ほど続いただろうか。船の進行が少
しずつ安定し始めると、前方に小さな港の輪郭が見えてきた。
波照間島だ。白い波の向こうに、朱の屋根がちらりと見える。そ
の一瞬だけ、健太は胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。
やがてフェリーはスピードを落とし、波の音もゆっくりと静かに
なった。着岸の合図があり、船はそっとターミナルに寄り添うよう
に止まった。
甲板から地上に降りると、目の前には赤瓦の建物が迎えてくれた。
潮風は静かに吹いていて、空の青さが一段と深い気がした。建物
の中はこじんまりとしており、売店とそば店が並ぶだけだった。
それでも、島時間は確かにここに流れていた。
健太はその空気を感じながら、ふと心の中でつぶやいた。
『ようやく離島に来たんだな……』
都会の速度から遠く離れた場所。言葉にできない静けさが、ゆっ
くりと彼の心に入り込んでいた。
ターミナルを出ると、いきなり太陽が真正面から照りつけてきた。
眩しさに目を細めながら視線を上げると、広い駐車場が広がって
いた。軽トラックやワンボックス・カーがぽつぽつと止まっており、
どこか時間の止まったような穏やかな空気が漂っている。
ワンボックス・カーの車体には、色とりどりの宿の名前が貼られ
ている。彼はバッグから携帯電話を取り出し、予約時のメモを確認
する。
『えっと……たしか送迎車が来てる予定だったよな。宿名は……【み
ーふぁいゆ】だったな』
みーふぁいゆ――八重山方言で「ありがとうございます」
その響きが、不思議と島の風に溶けて、健太の胸にやさしく届い
た。
目を凝らしながら車を探していると、一台のワンボックス・カー
のドアが開き、若い男性が降りてきた。彼は周囲をぐるりと見渡し
たあと、健太を見つけたらしく、大きく手を振ってきた。
『あれかもしれない……』
健太は小走りでその車へと向かう。小さな石が靴裏で転がる音を
聞きながら、旅の高揚感が少しずつ胸に広がっていく。
近づくと、その青年が爽やかな笑顔を向けて言った。
「谷川さんですか?」
「ええ、そうです」
「おーりとーり。ようこそ、波照間島へ」
「はあ……」
健太は面食らったような顔をしながらも、どこか受け入れるよう
にうなずいた。
「“おーりとーり”っていうのはですね、“いらっしゃいませ”の意味な
んです。八重山の言葉で」
そう言って、青年はスライドドアを開けた。
「どうぞ、お乗りください」
健太は軽く息をついて車に乗り込んだ。窓の外には、次々と出発
していく他の送迎車の姿が見えた。その車体に記された宿名が、旅
人一人ひとりを運んでいく“小さな船”のようにも感じられた。
車は駐車場を出ると、海沿いをしばらく走り、途中で右折した。
途端に道幅がぐっと狭くなり、健太はハンドルを握る青年の手つ
きをちらりと見た。
『慣れてるな……』
運転はぶれず、スピードも乱れない。この島のリズムを身体で覚
えている感じだった。
窓の外には赤瓦の屋根がぽつぽつと現れ始めた。低い塀に囲まれ
た家々は、どこか昔の記憶をくすぐるような懐かしさがあった。
郵便局、公民館といった公共施設も見えて、島の暮らしがゆるや
かに流れているのが伝わってくる。
「お客さん、波照間は初めて?」
「ええ。というか、沖縄に来たのも初めてです」
「そうですか。たしか……麗子さんの知り合いなんですよね?」
健太はその言葉に少し戸惑ったが、「知り合い」というほどでは
ないと思いながら、軽く笑って別のことを口にした。
「さっき言われた“おーりとーり”って……何でしたっけ?」
「“おーりとーり”ですか? 八重山方言で“いらっしゃいませ”って意
味ですよ。でも波照間島では、“んぎしたおーりょー”って言い方が本
式らしいです。俺、島生まれじゃないんで詳しくは知らないですけど
ね」
「そうなんですか。じゃあ、移住されたんですか?」
青年は、肩の力を抜いたように笑った。
「移住っていうか……ひとり旅で来て、気づいたら居着いちゃってた
んですよ。この送迎のバイトもたまたま。ま、そろそろちゃんと考
えようかなって思ってますけどね……あ、もう着きますよ」
車は少しカーブを曲がると、海風がふっと車内に入り込んできた。
その風の匂いは、健太にとって“旅が本格的に始まった”ことを、
何も言わずに知らせてくれていた。
車窓の向こうに【みーふぁいゆ】の文字が見えたとき、健太はほ
んの少し、胸がふわっとゆるんだ気がした。旅の終点ではない。け
れど確かに「着いた」と思える場所。白い壁に刻まれた宿名が、波
照間の空と見事に馴染んでいた。
佐藤は車を宿の横にそっと停め、運転席から降りてスライドドア
を開けてくれた。健太もバッグを片手に、陽射しの中へと足を踏み
出す。
「谷川さんでしたっけ。これから宿で時々お会いすると思うので、
自己紹介しておきます。佐藤と言います、よろしくお願いします」
佐藤はぺこりと丁寧に頭を下げた。
健太も慌てて姿勢を正し、礼を返す。
「こちらこそ、お世話になります」
そのやりとりの空気はどこかゆるやかで、都会の無機質な感じと
はまるで違っていた。
「この宿、少し変わってましてね。前方が土産店、後方が宿泊施設
になってます。食事は裏手にある居酒屋でできますよ。料理、なか
なかいいですよ」
そう言いながら佐藤が開けたガラス戸から、ガラガラと心地いい
音が響いた。中に入ると、すぐ目の前に受付があり、年配の女性が
穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「谷川さんですかぁ」
沖縄特有のイントネーションが、空気をくすぐるように響いた。
その言葉だけで、島の人のやわらかさが伝わってくる。
「そうです。今日からお世話になります」
「お疲れでしょう。まぁ、遠くからよく来てくれましたねぇ。麗子
から話は聞いとります。一応、こちらにお名前を書いてくださいね
ぇ」
受付のカウンターには手書きの文字が並ぶ【宿泊受付簿】が置か
れていて、健太はペンを取りながら、思った。
“昔ながらって感じだな……”
「あ、それから荷物はもう到着してますから、安心してくださいね
ぇ」
「ありがとうございます」
荷物といっても――それはギターのことだった。
波照間まで持ってくるのは大変だったので、事前に宅配便で送っ
ていた。石垣島で新しいものを探すことも考えていたが、ギターを
扱っている店は見つからず、三線の店ばかりということだった。
女性は、「玉城と言います」と自己紹介し、にこやかに続けた。
「宿のことでわからないことがあったら、いつでも私に聞いてくだ
さいねぇ」
佐藤が横から補足するように言う。
「ここの女将さんです」
「いやぁ、女将というほどじゃないですよぉ。家族でやってる宿で
すから。あ、麗子は娘です。いつも麗子がお世話になっております」
その一言に、健太は少し驚きながらも「紹介された」という立場
を改めて感じた。
「いえいえ、今回は麗子さんに波照間島を紹介されて……それで来た
んです」
「はい、すべて麗子から聞いてますよ。佐藤くん、宿の説明は?」
「簡単にはしましたけど」
女将さんはうなずいて、宿の案内を丁寧にしてくれた。鍵を手渡
しながら「二階ですからねぇ」と言い、佐藤に案内を頼んだ。
階段を上がると、静かな縦長の通路があり、左側に5つの部屋。
健太が泊まるのはその一番奥だった。部屋に入ると、右手にベッ
ド、左手にシンプルな机――窓から差し込む光に、木目調の壁がほ
のかに温もりを返してくる。
右側にはドアがあり、開けるとトイレとシャワーだけのバスルー
ム。必要最低限、けれど不思議と居心地のよさがあった。
「食事は裏の居酒屋を使うのが便利です。島にも飲食店ありますけ
ど、件数が少ないですしね。ここの居酒屋は量も多いし、味もいい
です。特にゴーヤチャンプルー、おすすめですよ」
その言葉に、健太はふっと【ロコ】で食べた料理の記憶がよみが
えった。夕暮れのカウンター、照明の暖かさ、そして……麗子の声。
「それでは、ごゆっくり」
佐藤は静かに退室した。
「ありがとうございました」
健太は深く頭を下げ、ドアが閉まる音が響くと――ようやく、一
人の時間が始まった。




