24.【西風】
風が吹いていた。海面には白いさざ波が立ち、風に追われるよう
に、ひとつまたひとつと砕けては消えてゆく。空は淡く曇り、陽の
光は雲の隙間から控えめに差し込んでいた。
ビーチの砂は湿り気を帯びていて、足元にさらさらとまとわりつ
く。潮の香りは濃く、風は思いのほか強く吹きつけてくる。それで
も、どこか懐かしさに満ちた風だった。浜辺にはまだ人影がなかっ
た。
シーズンの終わりを迎えた海辺は、誰かを待っているような気配を
纏って、静かに広がっていた。その風の中、沙也夏は一人、シーウィ
ンドギャラリーの前に立っていた。
青を基調とした建物は、遠目には以前と変わらぬ姿に見えたが、近
くに寄ると、リフォームされた外壁の質感や新たに塗り直されたペン
キの香りがかすかに漂っていた。
半年前――渡辺との再会は、まるで偶然の再接続だった。
あのとき、壱岐の海辺で声をかけられた瞬間のことを今も鮮明に思
い出せる。たった一言が、止まっていた自分の時間に火を灯した。
「復帰」という言葉が心に落ちてきたとき、喜びよりも先に押し寄
せてきたのは不安だった。
仕事は決めなければならない。でも、自分が本当に何をしたいのか
――何度考えても、答えは出なかった。やりたいことより、今できる
こと。それが現実だった。ブランクのことをあれこれ考える余裕は、
生活にはなかった。だからこそ、もう一度この扉をくぐってみること
にした。あの頃の自分とは違う自分でも、きっとこの場所は受け入れ
てくれる――そんな予感がした。
風が、髪をやさしく揺らす。海の向こうから聞こえてくる波の音が、
まるでギャラリーの空間に吸い込まれていくように感じた。
この場所で始まる新たな季節は、どんな絵と、どんな人々と出会う
のだろう。そして自分は、どんな物語をこの空間に紡いでいけるのだ
ろう。
沙也夏は、そっと息を吸い込んだ。
懐かしさと緊張が入り混じる心を抱えて、もう一度、この扉の前に
立っていることの意味を静かに噛みしめた。
青く染まった外壁に、朝の光がやわらかく反射している。海風はほ
んの少し冷たく、ギャラリーのガラス扉をさわさわと撫でていた。シ
ーウィンドギャラリーは、リフォームを終えてすっかり姿を変えてい
た。
半年前、初めて渡辺と共に訪れた時のあの荒れ果てた空間は、もは
や記憶の彼方だった。潮風にやられた外壁は、剥げ落ちた塗装が哀れ
に風に揺れ、カウンターの中では床に落ちたグラスが無惨に散らばり、
かつて客をもてなした飲み物も長い年月を経て、見るだけで時の重み
が分かるほどだった。壁には絵を外した跡がそのまま残り、照明のな
い空間はまるで人の記憶に取り残されたような暗さを湛えていた。
それでも――その姿に、沙也夏は不思議な懐かしさと痛みを感じた。
まるで一度命を失った場所に、自分の手で息を吹き込んでいくよう
な感覚だった。
リフォーム会議では、何度も何度も色について話し合った。壁は淡
いイエローとグリーンのグラデーション。控えめでやさしい色合いが
絵を引き立てるように設計され、訪れた人が自然に呼吸できる空間を
目指した。外壁は海との連続性を意識して、深みのあるブルーで統一
された。
カウンターや棚は一度すべて取り払われ、新しくデザイナーが考案
した家具に置き換えられた。曲線が美しいカウンターは、木目とガラ
スの質感が融合したもので、ギャラリーに品のある親しみを与えてい
た。
かつて提供していたアルコール類は、今回の再出発に際して思い切
って廃止された。一部の客が絵よりも酒を目的に訪れていたという事
実――その痛みと教訓を活かし、ノンアルコールに統一。代わりに選
んだカップ類は、上質でありながらも絵の空気感を損なわない高級ブ
ランド品だった。
「飲むこと」もまた、空間の一部になるような配慮だった。
そして、最も大切な「絵」。以前は海をテーマにした作品ばかりだ
ったが、常設展示となった今はその枠を取り払い、風景画、抽象画、
人物画、モダンアート……ジャンルを超えた幅広い作品が並ぶように
なった。
そのひとつひとつに、選んだ理由があった。
「誰かの時間と、ここが響き合う瞬間をつくる」――そんな思いが、
今ではこの空間全体に満ちていた。
復帰してすぐは、正直苦しかった。勘も、動き方も、接客も、全部
忘れかけていた。でも、絵の前に立つうちに少しずつ感覚が戻り、人
の足音に耳を傾けるたびに心が回復していった。
そして今日も。
沙也夏は、予約客が来る時間を頭に浮かべながら、カウンターに手
を置いた。透明なグラスが並ぶ棚の奥、穏やかな光が波のように揺れ
ている。
『さあ、今日も予約客が来る予定だ。頑張らなくては』
彼女は小さく深呼吸した。
この空間に、人と絵と時間がまたひとつ集まろうとしている。そし
てその中心に、自分がいる――それが、今の生き方なのだと、静かに
確かめるように。
*
乾いたエレクトリックギターの音色が、店内を撫でるように広がっ
ていた。軽やかなリズムの上に乗る女性ボーカルの声は、どこか懐か
しさを孕みながらも透明感があり、夜の空気とよくなじんでいた。壁
にかけられたスピーカーから流れるその音楽は、まるで店そのものの
鼓動のように響き、訪れる人々の会話や食器の音にやさしく寄り添っ
ていた。
【西風】は、今日もにぎわっている。
ランチタイムを過ぎた店内には、地元の常連と観光客が程よく混じ
り、風通しの良い空間に笑い声と料理の香りが満ちていた。窓の外に
は、すこし遠くに海の白波がちらりと見え、夕暮れの潮風がカーテン
をふわりと揺らしていた。
沙也夏は、カウンター席の端に腰を下ろしていた。
仕事終わりのひとときをこの場所で過ごすのがすっかり習慣になっ
ていて、週に二度ほどはここに来る。スタッフにも顔を覚えられてい
て、「今日もお疲れさまです」と声をかけられると、なんとなく安心
する。彼女にとって【西風】は、ただの食事処ではなく、ひと息つけ
る「居場所」のひとつだった。
壱岐に常駐してから半年――会社が復帰祝いとして用意してくれた
のは、賃貸の一軒家だった。当初は低家賃のマンションで十分だと思
っていたが、一軒家の静かさと庭に差し込む光の心地よさは、日々の
疲れを優しく洗い流してくれた。会社が家賃を負担してくれるおかげ
で、プライベートな時間にも余裕があり、暮らしは充実していた。
自炊をする日は、ほとんどが魚料理だ。壱岐は対馬と並んで、魚介
類がとびきり美味しい。刺身はもちろん、煮魚や焼き魚、そして島の
レシピでつくる海藻の和え物など、少しずつレパートリーも増えてき
た。料理をすると、どこかギャラリーで絵を配置する感覚と似ていて、
味のバランスを考えるのが楽しい。
壱岐という島は、夏になれば美しい海を求めて多くの観光客で賑わ
う。だが、沙也夏が好きなのは――むしろ、季節の境目だ。
秋風が吹き始めるころや、冬の静けさが増す頃にこの島を訪れる人
々は、海ではなく“味”を求めてやって来る。漁港の朝市で買った魚で
作った料理は、島の空気をそのまま吸い込んだような滋味があり、都
会では出会えない“記憶に残る一皿”になる。
今日も、そんな人たちが【西風】に集まり、料理と音楽をゆったり
と楽しんでいた。そして沙也夏もまた、その一部として、自分だけの
静かな夜に身を委ねていた。
【西風】も、壱岐の豊かな海の幸を活かしたイタリアン料理が楽し
める。パスタやピザも人気だが、とりわけ魚介たっぷりのパエリアは、
リピーターを惹きつけてやまない看板メニューのひとつだ。
「いらっしゃいませ」
ドアを開けた沙也夏を、オーナーの高井がにこやかな笑顔で迎えた。
「こんばんは。また来ちゃいました」
沙也夏も、常連らしい気軽さで笑みを返す。
「大歓迎ですよ。今日は何にします?」
「そうですね……お腹ぺこぺこだから、トマトクリームパスタをお願い
します」
このパスタは、帆立と海老がたっぷり入ったボリューム満点の一皿
で、ほんのり甘みのあるトマトソースにクリームのコクが加わった贅
沢な味わいだ。
「はい、承知しました。帆立、多めでお持ちしますね」
「いつもすみません。ありがとうございます」
沙也夏は、上着を脱ぎながらカウンター席の椅子に腰掛けた。
ふと耳に届く音楽は、店内の空気にふわりと溶けていて――どこか
伸びやかで乾いたエレクトリックギターに女性ボーカルが寄り添うよ
うな、心地よい一曲だった。
店内に漂うガーリックとトマトの香りが、エレクトリックギターの
音色に重なりながら、ゆるやかに心をほどいていった。ガラスの扉の
向こうには、夜の潮風がささやくように吹いていて、灯りに照らされ
た店名【西風】がゆらりと揺れていた。
沙也夏がカウンターに腰掛けた時、背中に柔らかいレザーの椅子の
感触と、木のカウンターに染み込んだ年月の温もりが伝わった。
トマトクリームの香りは、記憶とともに身体の奥に染み込んでいく。
帆立と海老がふんだんに使われたパスタは、皿の上で湯気を立てな
がら、ほんの少し音楽のリズムに呼応するように見えた。
音楽は、乾いた音の隙間を縫って、女性ボーカルの柔らかな声がふ
わりと届く。言葉は聞き取れないのに、なぜか情景だけが胸に広がっ
てくるようだった。
『健ちゃん、元気にしてるかな……』
ふとよぎった名前に、胸が静かに波打つ。
この頃は本当に忙しくて、あの人のことを思い出す余裕すらなかっ
た。だけど――音楽が、香りが、今日という夜が、どこか遠い時間と
つながっているように感じられる。
『人って、こうやって誰かを忘れていくのかもしれない。静かに、痛
みもなく。でも……それはきっと、生きている証なのかも』
センチメンタルな気持ちに身を任せていたそのとき、オーナーの高
井が微笑みながら料理を運んできた。白い皿の縁には、綺麗に盛り付
けられたパスタが輝いていた。
「お待たせしました。帆立、ちょっと贅沢に入れちゃいました」
「うわ……すごい。ありがとうございます」
沙也夏は、小さく息を整えた。目の前の料理に、現実がそっと戻っ
てくる。懐かしさと温かさが、ひとくちに込められているようだった。
「食後のコーヒーはどうします?」
高井がカウンター越しに声をかけてくる。トマトクリームパスタの
余韻が残る中、沙也夏は柔らかくうなずいた。
「お願いします。それと、ちょっとお聞きしたいんですけど」
高井は手を止めて、軽く身を乗り出した。
「なんでしょうか?」
「今、流れている曲――誰ですか?」
音楽は変わらず、乾いたギターのリズムに、女性ボーカルの穏やか
な声が乗っている。言葉はところどころしか拾えないのに、不思議と
情景が頭に浮かぶような音色だった。
「ああ、これね。カーラ・ボノフですよ。なかなかいいでしょう?気
に入りましたか?」
「ええ」
沙也夏は、遠くを見るように目を細めて応えた。旋律が波の音と溶け
合うように、胸の奥に染み込んでいく感覚があった。
「それは良かった」
高井はそう言うと、奥から注文のベルが鳴り、軽やかに厨房へと歩い
ていった。カウンターにはコーヒーの香りが漂い始め、音楽はそのまま
やさしく続いていた。
カーラ・ボノフ――彼女の歌声は、沙也夏の心に、忘れかけていた季
節の記憶をそっと呼び戻すようだった。
沙也夏は、口に広がる海老の旨みと帆立の甘みに微笑みながら、ふと
視線を店内に巡らせた。カウンター越しに見える厨房では、高井が丁寧
にソースを煮詰めている。その横で、男性スタッフの石田が器を並べな
がら、軽く高井と言葉を交わしていた。奥のテーブルでは、女性スタッ
フの花井が料理を運んでいる。制服の胸元にはそれぞれの名札が光って
いた。
『石田さんと花井さん……なるほど、いつも手際がいいと思っていた
けれど、今日は特に連携がスムーズね』
厨房から漂ってくる香りが、会話よりも先に五感を満たしていく。
トマトクリームのコク深さ、帆立の焼き目の香ばしさ。ひと口ごと
に心がほぐれていく。そして、その味の余韻に包まれながら、自然と
思い浮かんだのは、高井のことだった。
『あの柔らかい物腰、程よい距離感で接してくれる会話の仕方……こう
いう人が店をやっているから、女性ひとりでも気楽に来られるんだろ
うな。』
いつもさりげなく気遣ってくれる高井の姿が、料理を通して心に残
っている。言葉選び、話す速度、ほんの少しの微笑。
そして、ふと浮かんだ思いが、自分の中に芽生え始めていることに
気づいた。
『結婚してるのかな……』
自分でもその瞬間、驚いた。これまで壱岐での生活や仕事に夢中で、
誰かを意識するような時間などなかったはずなのに。
それでも――料理の味や音楽の中に浮かび上がる高井の姿は、どこ
か心の奥の小さな隙間にすっと入り込んできていた。それは、特別な
感情かどうかはまだわからない。ただ、今日のこのひとときが、少し
だけ柔らかい風を運んできたことは間違いなかった。
食事を終えた頃、ふわりと香ばしい香りが漂ってきた。高井が丁寧
に淹れたコーヒーをトレーに乗せて近づいてくる。カップの揺らぎに
は、まるで時間の穏やかな流れが映っているようだった。
「はい、コーヒーです。それと……」
高井はそっと、もうひとつ手に持っていたものを沙也夏に差し出し
た。銀色のケースに入ったCD――表紙には、控えめな光沢のロゴと
女性の横顔があった。
【Restless Nights / Karla Bonoff】と書かれている。
「カーラ・ボノフのCDです。良かったら、聞いてみてください」
その口調は、特別なものを差し出すというより、心の片隅をそっと
差し出すような柔らかさだった。
「えっ……いいんですか?でも私、CDプレイヤーを持っていないんで
すよね」
沙也夏は、遠慮と残念さを混ぜた声で答えた。だが、高井はすぐに
軽やかに言った。
「あっ、そしたらちょうどよかった。須藤さん、今のお住まいって、
空いてる部屋とかあります?」
「ええ、一戸建てなので。正直、ひとりだと広すぎるくらいで……余
ってる部屋、いくつかあります」
高井はふっと笑って言った。
「それなら、僕の家にあるオーディオ・コンポ、差し上げましょうか」
「そ、そんな……とんでもないです。高井さんだって、まだ使われる
んじゃ……?」
「いえいえ、これは前に使ってたやつです。今は店にいる時間がほと
んどだし、家にあるコンポはもう処分しようかなって思っていたとこ
ろなんです」
「はあ……でも、コンポって大きいですよね? うち、そこまで広いっ
てわけでもないし……」
高井は首を振りながら笑みを深めた。
「大きさは心配しなくて大丈夫ですよ。小さめのタイプなので、棚に
も収まりますよ」
「なるほど……そういうことですか。どうしようかな……」
沙也夏は、コーヒーをひと口飲みながら、静かに考え込んだ。
目の前のCDジャケットは、まるで何かを問いかけてくるように輝い
て見えた。
『でも音楽が家で聴けるのも素敵だな……それに、自分で買いに行って
も何がいいのかわからないし。だったら――お願いしてみようかな』
そう決断すると、カップを置いて、柔らかく口を開いた。
「では……お言葉に甘えさせてもらいます。本当にいいんですか?」
高井は少し笑って、力強くうなずいた。
「もちろん。必要としてくれる方に譲る方が、ずっと嬉しいです」
沙也夏は、そのやさしい申し出に、もう一度小さくうなずいて言っ
た。
「そんなに言っていただけるなら……お言葉に甘えようかな」
高井は、その返答を待っていたかのように、明るい声で応えた。
「よし!それじゃ須藤さんの気持ちが変わらないうちに、持っていく
段取りを決めましょう。いつがいいですか?」
「えっと……そうですね……来週の水曜の午前中なら空いてると思いま
すけど」
「いいですよ」
「でも……お店は大丈夫なんですか?」
「たぶん問題ないです。スタッフと調整しますから。もし無理なら、
連絡しますので……携帯電話の番号、教えてもらってもいいですか?」
沙也夏は、少しためらいながらも、自然な流れに逆らえず――いや、
むしろ心地よく導かれるように――高井に番号を伝えた。
『知らず知らずのうちに、日常の輪郭に音楽が溶けて、そこに人の気
配が重なっていく。それも、悪くないかもしれない――』
カウンターに置かれたCDと香るコーヒーの間に、ひとつの物語が静
かに息づきはじめていた。




