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彼方からの風  作者: 杉本敬
第2章
23/53

23.復職

 沙也夏はサンダルに履き替えると、まるで時を巻き戻すかのよう

に、衝動的に浜辺へと駆け出した。海から吹く潮風が、髪を撫で、

肌をかすめ、彼女の内側の記憶までをも優しく掻き起こす。塩気を

含んだ風が鼻をくすぐり、ほんのり潮の香りが懐かしさを伴って胸

に満ちていく。


「帰ってきた…!」

 心の奥で叫びながら、彼女は足音を砂に刻み続けた。裸足のよう

な軽やかさで、波音と風の音が混ざり合う風景の中を、夢中で駆け

抜ける。遠くに見えていたコバルトブルーの帯が、みるみるうちに

大きく、そして色濃く迫ってくる。


 やがて、息が乱れ、胸が上下に波打つのを感じながら、彼女は足

を止めた。心臓の鼓動と波のリズムが、どこかで交差する。前屈み

になって数秒、荒い息を整えると、彼女はゆっくり顔を上げた。

 そしてその瞬間、視界いっぱいに広がるのは、光を吸い込んだよ

うに澄んだコバルトブルーの海だった。その色は、彼女の記憶のな

かで何度も思い出されてきた、あの「はじまり」の色――


「変わっていない…ここに初めて来た時の海の色だわ」

 思わず口をついて出た言葉は、誰かに伝えるためではなく、自分

の心の奥底に届くための呟きだった。

 そして彼女は少し背筋を伸ばし、まるで海と対話するかのように、

両手を広げて叫んだ。

「ありがとう!美しい色のままでいてくれて!」


 言葉は風に乗って、海へと届く。波はやさしく砂をなぞり、まる

で応えるかのように、太陽の反射を煌めかせながら、あの時と同じ

音色を奏でていた。


 沙也夏は静かに砂浜に腰を下ろした。まだ夏の名残を引きずる陽

射しが、肌にやわらかく触れていた。空は少し霞んだ淡い水色で、

遠くの入道雲はその輪郭を曖昧にしながら、ゆっくりと形を変えて

いた。季節は確かに秋へ向かっていたが、残暑のぬくもりが潮風に

交じって漂い、時間がどこか止まっているようにも感じられる。


「数日前まで、ここに来ようなんて思っていなかったのに…」

 海を見つめながら、沙也夏はつぶやいた。

 そのきっかけは――久しぶりに見た、夢の中のエディだった。

 夢の中で、エディは、懐かしい笑みを浮かべながら立っていた。


 風になびくシャツ、遠くを見つめるまなざし、そして何も言わず

に手を差し伸べる仕草。まるで彼は、どこかへ導こうとしているよ

うだった。言葉こそなかったが、その沈黙には何かが込められてい

たようで、それが沙也夏の心を揺らした。

「何かを伝えたかったの? それとも、ただ会いに来てくれたの?」


 海の向こうを見ながら、問いかけるように思考が浮かんでは消え

ていく。エディ――その名を心の中で呼ぶのも、どれくらいぶりだ

ろう。

 彼は、まるで燃え尽きるようにして人生を駆け抜け、ある日突然

ふっと消えてしまった。それでも、あの季節、あの時間、二人で過

ごした日々は、沙也夏にとってまぎれもなく「青春」と呼べる最も

鮮やかな記憶だった。

 波の音が、途切れることなく耳に届く。寄せては返すそのリズム

は、まるで彼との会話の余韻のようにも思える。

 沙也夏はそっと目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、笑いながら風

に髪を遊ばせるエディの横顔。今はもう届かないその姿が、時間の

向こう側から優しく微笑んでいるようだった。


やがて彼女は目を開け、また海を見つめた。どこまでも続く水平線。

 彼が示そうとしていたものは、思い出ではなくこれからの答えな

のだろうか。


「須藤じゃないか。おーい、須藤!」

 突然の大声が、寄せては返す波の音に混じって響いた。沙也夏は

驚いて振り返った。背後の土手の上に、逆光に霞む人影が立ってい

る。太陽を背にしていたせいで、その輪郭はぼんやりとしていたが、

大きな体を揺らすように手を振っているのがわかった。


「……誰だろう?」

 思わず口をついて出た呟きに、風が答えるように吹き抜けた。

「俺だよ!渡辺だぁ!」

 その声を聞いた瞬間、記憶の奥底に眠っていた名前が鮮明に

よみがえった。

「えっ、渡辺課長!?」


 信じられないものを見るように、彼女は目を細めて土手を見上げ

た。そこにいたのはまぎれもなく、かつての上司――沙也夏が結婚

するまで勤めていた絵画販売会社で、営業部門を取り仕切っていた

頼もしく、ちょっとした豪快さも持ち合わせた渡辺課長だった。

 まるで時間が逆戻りしたかのようなその姿に、一瞬、今がいつな

のかを見失いそうになる。彼の存在は、仕事の厳しさとやりがいの

両方を教えてくれた存在だった。あの頃の自分がまだ「須藤」とし

て呼ばれていたことも、懐かしさとともに胸に響く。


 土手の向こうから駆け下りてくる渡辺課長を見ながら、沙也夏は

立ち上がった。この再会が、あの夢に現れたエディの導きなのだろ

うか――そんな思いがふと胸をよぎる。


 渡辺は土手の上から駆け降りると、砂を跳ね上げながら小走りに

近づいてきた。身体は以前より少しだけ丸みを帯びていたが、その

動きや表情には変わらぬ勢いがあった。近くまで来ると、肩を上下

にさせながら息を整え、沙也夏をまっすぐ見つめた。


「何で…何で須藤がここにいるんだ?」

 声には驚きと戸惑い、そしてどこか懐かしさがにじんでいた。

 沙也夏は少し目を見開いて、しかしすぐに笑みをこぼした。

「課長こそ、なんでここに?」

 お互い、質問に質問で返すばかりで、どちらもまだ答えにたどり

着けない。

それがなんともおかしくて、同時にふわりと笑いがこみ上げた。

「あははっ」

「ははっ、まいったな」


 波の音がふたりの背後で穏やかに響き続ける中、その場にだけ時

間がゆっくりと流れていた。かつての日々を思い起こさせるような

やりとりに、記憶の中の社内の風景や昼休みに交わした何気ない会

話、打ち上げでの笑顔が、一斉に蘇ってくるようだった。


               *


 テーブルの上には、氷がきらめくレモン水のグラスが置かれてい

た。ほんのりと光が差し込む店内で、そのグラスは穏やかな時間の

象徴のように揺れている。

 ビーチでの再会から少しだけ時間が経って――沙也夏と渡辺は、

あのとき目に留まった店「西風」に足を運んでいた。


 店内には、流れる空気にも音楽の気配があった。カウンターの向

こうには、ゆったりとした動きでグラスを磨く店主の姿。木目調の

テーブルと椅子が並び、壁にはヴィンテージ感のあるポスターや、

所狭しと飾られたアーティストの写真。ジャズ、フォーク、ロック

――時代を超えた音楽たちが、ここに集まっているようだった。


 店の奥には小さなステージがあり、照明が下りたまま眠っている。

 ふたりが座ったテーブルのすぐ先に、それは控えめな存在感を放

っていて、「ここでは、夜が来ると物語が始まるのかもしれない」

と沙也夏は思った。


「そうか……離婚したのか。せっかくの寿退社だったのにな」

 渡辺は、グラスをそっとテーブルに置きながら、目を細めた。レ

モンの輪切りがゆらりと揺れて、光を受けながら沈黙の空気を照ら

すようだった。

 沙也夏は、その言葉に苦笑しそうになりながらも、黙ってうなず

いた。親のために選んだ結婚だったと、心の奥でははっきりわかっ

ていた。だが、さすがに口にはできなかった。ただ、離婚に至るま

での経緯は、隠さずに話した――たとえ話すことで少し胸が痛んで

も。渡辺はそれ以上深入りせず、どこか懐かしげに言った。


「須藤も、色々大変だったんだな……いや、でも会社も大変だった

よ」

 彼はグラスを手にして一口飲むと、目線を窓の外へ移した。

 店の外では、少し湿った潮風が街路樹の葉を揺らしている。夕暮

れが近づくにつれ、光の色も柔らかくなっていった。


「そうなんですか。社長はお元気なんでしょ?」

 沙也夏の問いかけに、渡辺は苦笑しながら答えた。

「まあ、なんとかね。でも、ずいぶん年をとられたよ。髪の毛なん

か、もう真っ白さ」

「あの社長が……ですか」


 かつての社長――沙耶夏が入社したころの彼は、エネルギッシュ

で、体の奥からみなぎるものを感じさせる人だった。プレゼンの最

前列で自ら商品説明をし、社員一人ひとりに声をかけるその姿は、

会社の象徴でもあった。もちろん、黒々とした髪がその活力を物語

っていた。


「絵がな、さっぱり売れなくなったんだ。節約志向ってやつか……

絵ってのは、生活必需品じゃないからな。なくても支障はない――

そういう風潮になってきたんだよ」

 渡辺の言葉には、諦めと少しの悔しさがにじんでいた。


「課長。シーウィンドギャラリーは今どうなっているんですか?」

 テーブルの上でレモン水の氷が静かに音を立てる。渡辺は少し顔

を曇らせて、グラスの輪郭を指先でなぞるように触れた。

「ああ、あそこか……今は、閑古鳥が鳴いている状態だよ」

 言葉に含まれた重みが、潮風よりも深く沙也夏の胸に染みていく。

「えっ……じゃあ、今営業していないんですか?でも、専用駐車場

はありましたよね」

「そうだな。あれはな、先を見込んで作ったんだ。でも今は、ギャ

ラリー自体が休業している状態だ」


 渡辺は言葉の後に、わずかに肩を落とすような仕草を見せた。沈

痛な面持ちでグラスに視線を落としながら、その言葉を絞り出すよ

うに静かに語った。


 沙也夏の視線は、グラスの透明な輪郭を通して、遠い過去へと吸

い込まれていった。シーウィンドギャラリー――それは彼女がまだ

情熱と若さを胸に抱えていた頃、担当していたプロジェクトだった。

 展示のプランを練るのに何度も夜遅くまで残業したこと。色の配

置に心を砕き、来場者にとって居心地の良い動線を考え続けたこと。

 そのすべてが、心のどこかで宝物のように光っていた。


『あの頃は、毎日が意味をもっていた気がした。ひとつひとつの絵

に、誰かの心を乗せられるかもしれないって、そう信じていた――』

 記憶の中でギャラリーの窓辺に飾られた絵の数々が、風に揺れるよ

うに浮かび上がる。


「お待たせしました」

 店員の声とともに、白い陶器の皿がそっとテーブルに置かれた。

 湯気を立てるカルボナーラが沙也夏の前に、ラザニアが渡辺の前

に運ばれてくる。チーズの香りがふわりと立ち上り、空腹の実感が

改めて胸に届いた。

「続きの話は食べた後にしよう。さっ、食べよう。お腹空いたろ?」

 渡辺が肩の力を抜いたような表情で笑うと、沙也夏も自然に笑み

を浮かべた。

「そうですね」


 店内の壁掛け時計は、午後一時を少し回っていた。

 潮風にさらされ、会話を交わしてきたふたりの胃も、やっと食事

を求めている。フォークを手に、沙也夏はゆっくりとパスタをひと

口含んだ。ソースの濃厚さは、舌の上でふわりと広がる――クリー

ムと卵とチーズが絡み合ったまろやかな旨み。でも、その後味は驚

くほど軽やかで、口の中にくどさを残さない。「懐かしさ」と「洗

練」が同居しているような味だった。


「美味しい……」

 ぽつりと漏らした言葉は、思考の隙間に溶け込んでいった。

「そうだろ?この店の料理は、なかなかイケるんだ」

 渡辺はニヤリと笑い、フォークを手にラザニアをすくう。とろけ

たチーズの層の下から、香ばしく焼けたトマトソースの香りが立ち

上り、彼も満足げにうなずく。


 ふたりはしばらく黙々と食べた。皿の音、グラスの氷が揺れる音、

遠くで鳴るBGM――それだけが静かに店内に流れていた。沈黙は気

まずさではなく、「一緒に食べる」という何よりの会話になってい

た。


 やがて食事が終わり、空になった皿が静かに下げられた。代わり

に、香ばしい香りを纏ったコーヒーカップがテーブルに並べられる。

 グラスの中の氷とは違う、湯気の立ちのぼる温もりが、会話の温

度も優しく変えていった。


 沙也夏はカップに手を添え、ふうっと息を吹きかけてから、口を

開いた。

「会社は今、大変な状況なんですか?」

 その問いには、食事中に交わした話の続きと、少しばかりの期待

が込められていた。渡辺は一瞬まじめな顔を見せたが、すぐに口元

に笑みを浮かべた。

「それがな。そうでもなくてな。少しずつではあるが、持ち直して

きたんだ」

 その表情の柔らかさに、沙也夏も少し肩の力が抜けたようだった。


「本当ですか?何か打開策があったわけですね」

「かなり苦労したが、ようやく軌道にのってきたよ。まず、コラボ

を始めた」

 少し興味を引かれながらも、沙也夏は怪訝そうに眉を寄せる。

「コラボ?」

 渡辺は頷きながら、コーヒーをひと口啜った。


「不動産業界とのコラボさ。ほら、よく家具付きのマンションとか

あるだろう?家具じゃなくて、絵を飾ってみようって提案したんだ

よ。モデルルームや、現地販売のマンションに絵を飾って、分譲の

空間そのものに彩りと物語を与えるっていうアイデアだった」

 沙也夏は、少し驚いたように目を見開いた。

 なるほど――「絵を飾る」ことに、生活の魅力や価値を添える。

 それは展示会場とは違い、実際の暮らしの延長線にある空間でこ

そ絵の力を感じてもらえる、そんな発想だった。


「最初はなかなかうまくいかなかったけどな。何度も断られたよ。

でも、粘り強く交渉して、少しずつ、受け入れてくれる不動産会社

が出てきたんだ」

 渡辺の語り口からは、情熱というより“試行錯誤を重ねた末に見え

た光”のような静かな熱量が感じられた。

 沙也夏は、コーヒーをそっと口に含みながら思った。

『絵が、再び誰かの生活の中に生き始めている――それは、ただの

販売ではなく、暮らしに感性を届ける営みなんだ』


 渡辺は、香り立つコーヒーを口に運んだ。深煎りらしい苦味が広

がり、その余韻とともに、言葉もゆっくりと紡がれていく。

「新築のマンションはな……中に入ると真っ白な壁しかない。家具

もなにもなくて、無機質な空間だ。だけど、そこに一枚絵があるだ

けで、印象ってぐっと変わるもんなんだよ」

 渡辺は、語るというより“思い返している”ようだった。手元のカッ

プを軽く揺らしながら、視線は遠くの壁に飾られたアーティストの

写真に向けられていた。


「試験的にな、やってみたんだ。絵画に興味がある人なら、モデル

ルームに飾られた絵がきっかけで心に残るかもしれない。口コミで

広がるんじゃないかって……ほら、絵って、言葉のいらないコミュ

ニケーションみたいなもんだから」

 沙也夏も、コーヒーをそっと口に運んだ。苦味の中にある穏やか

な酸味が口の中に広がり、渡辺の言葉を受け止める心も少しほぐれ

ていく。


「もちろん、絵に興味がない客もいる。無理に押し付けるようなこ

とはしないよ。でもな、ひとりでも“この絵、いいな”って思ってく

れたら、そのままマンションと一緒に絵を買ってくれる。そういう

事例が、ほんの少しずつだけど出てきたんだ」

 渡辺は、指で卓上のカップをそっと回しながら続けた。

「それでさ、そういう絵付きのマンションの話が購入者の口から他

の人に伝わる。少しずつ、問い合わせも出てくるようになって――

でも、簡単にはいかなかった。それと初期投資がとにかく重くてな」

 その言葉のあと、渡辺は少しだけ言葉を止め、コーヒーを静かに

飲み干した。


 店内のスピーカーからは、ジャズピアノがゆったりと流れていて、

それがふたりの間の空気をさらに柔らかく包み込んだ。


 沙也夏は、渡辺が言おうとしたことが理解できた。

「それは会社が、先生たちから作品を買い取らなければならなかっ

たということですね」

 彼女は、ゆっくりと渡辺の目を見つめながら言った。その声は、

かつて自分もその“買い取り”という壁に何度も向き合った記憶から

生まれていた。


 渡辺は頷いた。

「そう。レンタルじゃない。買い取りだよ。絵はただの装飾品じゃ

ない。本物を置くって決めたら、それなりの覚悟がいる。もちろん、

資金もな」

 沙也夏は、そっとうなずいた。

 ふたりの間には、同じ業界で時間を重ねてきた者同士にしかわか

らない“絵を扱う責任”のようなものが、静かに流れていた。


 渡辺はコーヒーを飲み干すと、静かにカップをソーサーに戻した。

その仕草には、少し疲れが滲んでいた。

「もともとこの戦略は、社長の発案だったんだよ。あの人らしいだ

ろ?」

渡辺の口調には、諦めとも敬意ともつかない複雑な色が混じってい

た。

「幹部会議では、何度も何度も熟慮を重ねた。だがな、現況のまま

じゃ会社はジリ貧で……社員の給料も遅配寸前までいったこともあ

った」


 その言葉は静かだったが、テーブルの上の空気を重くした。沙也

夏は、カップに指を添えたまま、言葉を飲み込むように聞いていた。

「社長はさ……見た目は豪快だけど、裏ではものすごく地道に動く

タイプでな。数十社もの不動産企業に根回ししてたんだよ。何度も足

を運んで、話をして、説得して……そのあとようやく先生たちにも相

談して、最終的に“やってみよう”ってゴーサインが出たんだ」

 そこまで聞いて、沙也夏の胸には懐かしさと苦笑いが同時にこみ上

げていた。

『やっぱり社長の仕掛けだったんだ……あの人は本当に常識にとらわ

れない。いつも“前例は関係ない”って言ってたな』


 渡辺がため息をつきながら言葉を続ける。

「でも、現実は厳しかったよ。いざマンションを売り出してみても、

“絵なんかいらない”“外してくれ”って言う購入希望者ばかりでさ。

絵に興味がない人には、ただの壁のノイズでしかないんだよな」


 作品を買い取る際にかかった費用は、まるで底のない穴に流れ込

んでいくかのようだった。

「先生たちの作品は、当然それなりの価格だしな。一点ずつ大事に

買い取ったけど、それが売り上げには直結しない。会社は毎月赤字

が続いて……このままじゃ、リストラが避けられないところまで追

い詰められてた」

「そんなに……ですか」

 沙也夏は、こみあげる胸の痛みを押し殺すように言った。


 目の前のコーヒーがゆらゆらと揺れているのは、彼女の揺れる感

情と同じだった。

『私が社長の元で仕事している時もそうだった。いつも誰もが思い

つかないことを考える。社員の誰もが、“そんなことして大丈夫なの

か”って不安になった。シーウィンドギャラリーだってそうだ。あの

とき、いきなり壱岐に展示会場を作るって言い出した時には、驚い

たけど……でも、ギャラリーは、まあまあうまくいったほうだった

な』


 彼女の胸の奥で、過去の鼓動が静かに鳴っていた。挑戦に満ちた

日々。戸惑いながらも、絵と向き合い、空間を作り上げた日々。そ

の一つひとつが、今ふたたび息を吹き返してくるようだった。


「でも、最終的にはうまくいったんですよね?」

 沙也夏の問いは、コーヒーの湯気と共に静かに流れ、目の前の物

語の節目を促すようだった。渡辺は一瞬だけ遠くを見るような目を

しながら、カップを口に運び、苦味を含ませた余韻と共に言葉を綴

った。

「なんとかな。ほんのごく僅かだけど、絵に興味をもってくれたマ

ンション希望者がいた。しかもな……その中のひとりが、人気のイ

ンフルエンサーだった。ユーチューブのね。投稿してくれたんだよ。

動画で」

「ユーチューブで拡散…それはすごいですね」


 沙也夏の目がふと輝く。絵が、言葉以上の力を持って誰かの心に

触れた瞬間――それを誰かが多くの人に届けてくれたという、奇跡

のような連鎖。

「時代も変わったもんだな。でも、正直言って運があったと思う。

ほんの一握りの購入希望者の中にインフルエンサーがいたなんてな。

こっちが狙ったわけでもなかったし」

 そう語る渡辺の表情には、予測不能な時代の波を泳ぎながら、奇

跡をつかんだ人の静かな感慨があった。


「その動画をきっかけに、絵に興味を持った人たちから少しずつ問

い合わせが来るようになって……今じゃ、日本国内より、アジア系

の富裕層からの需要の方が多いんだよ。別荘感覚でマンションを探

す人たちが、“絵付き”という付加価値に惹かれて問い合わせてくる。

結果的に、業績は右肩上がりさ」

 渡辺は、その言葉に微笑みを添えて、肩の力を抜いたように息を

吐いた。

「良かったですね。結局、社長の発案があってこそ――なんですね」


 沙也夏の言葉は、懐かしさと敬意を含んでいた。あの型破りで、

時に無鉄砲とも思える社長のひらめきは、いつも現実をかき乱しな

がら、新しい可能性を引き寄せていた。

「まぁ、結果的にはそうなったな。でも……もしインフルエンサー

がいなかったらと思うと、ゾッとするよ。俺も会社に残れていたか

わからない。こうやって、須藤とゆっくり話してる余裕もなかった

かもしれない」


 コーヒーを飲み干した渡辺は、店員に手を上げておかわりを頼む。

 その背中には、責任を背負ってきた年月が静かに刻まれていた。

「須藤、コーヒーおかわりどうだ?」

「いえ、もうけっこうです」

 沙也夏は、空になったカップを軽く撫でながら答えた。その指先

には、過去に触れた記憶と、これからの何かへの予感がそっと宿っ

ていた。

 沙也夏は、柔らかく笑顔を浮かべながら、カップを静かにテーブ

ルに戻した。時計を見ると、針はすでに午後2時を過ぎている。


「もうこんな時間か……」と、少し寂しげに思った。そろそろ店を

後にする頃合いだろう。

 そのときだった。渡辺の声が、急に温度を変えて届いた。

「今、話しながら思いついたんだが――須藤、おまえ、復帰するつ

もりはないか?仕事はもう決まってるのか?」

 思いがけない言葉に、沙也夏は小さく目を見開いた。

「えっ……!?」


 その驚きの声を聞いて、渡辺は口角を上げてニヤリと笑った。

「どうだ、驚いたか?」

 沙也夏は言葉に詰まりながらも、真剣な目を渡辺に向けて答えた。

「それは……もう。たしかに、仕事はこれから探すつもりですけど、

復帰となると……ブランクがあるし……」

 少し自嘲気味に言葉を濁した彼女に対して、渡辺は力強く言い切っ

た。


「ブランクを感じるのはほんの少しの間だけだよ。お前には経験が

ある。そのうち自然に取り戻せるさ」

 その言葉には、単なる励まし以上のものがあった。過去を知って

いる人間としての信頼――そして、その先を共に見ている者の声だ

った。


 沙也夏は、胸の奥にかすかな戸惑いを抱えながらも、深く息を吸

った。そして、静かに問い返した。

「でも、復帰したとして、どういう仕事をすればいいんですか?」

 渡辺は、どこか待っていたようにうなずきながら言った。

「実はな。このギャラリーをもう一度、復活させることが決定した

んだ」

「シーウィンドギャラリーを……ですか?」

 その名前を聞いた瞬間、彼女の胸の奥が強く波打った。まるで、

忘れかけていた記憶が一斉に息を吹き返していくように。

「ああ、そうだ」

 渡辺の言葉には、確信と少しの誇らしさが込められていた。


 ギャラリーの話を聞きながら、沙也夏の頭には次々とあの頃の記

憶が浮かび上がっていた。白い外壁に光が差し込む午前の展示室、

額縁を磨いていたスタッフの姿、開館前に流していたBGM、そして

来場者の言葉に耳を傾けていた自分――それはすべて、走馬灯のよ

うに鮮明だった。


「今、ギャラリーは正直言って空き家状態だ。かつての見る影もな

い」

 渡辺の言葉は、現実の厳しさを真っすぐに伝えていた。

「でもな、会社の業績も上向き始めた。そこで、ギャラリーを常設

展示場にしようって計画を俺が提案した。社長もすぐに承諾してく

れてな。建て替えも考えたが、予算が合わなくて……だから全面リ

フォームということになった。外装も内装もほぼ決まったところで、

困った問題が起こったんだ」

「……担当者だ」

「はあ」

「誰を担当にするか。やっぱり、展示空間に女性らしい感性を生か

したくて、女性スタッフに絞って面談をした。だけど、みんな自信

がないっていうんだ。ギャラリーの担当ってことは、運営のすべて

を担うってことだからな。総責任者は俺だが、常駐はできないし、

壱岐に住んでもらう必要もある。住居の手配は会社でサポートする

つもりだけど、それでもみんな尻込みしてしまってな……そのまま

空席状態が続いていた」

 語りながら、渡辺の表情には少し寂しげな影がよぎった。


 沙也夏は、その話に思わず引き込まれ、少し息を止めた。壱岐に

住むこと。ギャラリーに常駐すること。絵に囲まれる日々――

 それらは現実的な課題であると同時に、彼女にとっては過去への

回帰と未来への可能性が重なり合う場所でもあった。


「だった? “だった”というのは過去形ですよね。ということは……

もう、決まったってことですか?」

 その問いに、渡辺は再び口角を上げ、ニヤリと笑った。その笑み

には確信めいたものと、少しの“仕掛け”の予感があった。沙也夏は、

その表情を見て、胸の奥がそっと高鳴るのを感じていた。


「そう。今日な」

 渡辺がそう口にした瞬間、空気がふと静まったように感じられた。

「今日?……あ、まさか……」

「そう、須藤さ。まさかこんな形で再会するとはな。今日も壱岐に

来て、ギャラリーの担当を誰にするか、ずっと悩んでたんだよ。ふ

と気分転換にビーチへ出てな――そこで、須藤の姿を見つけた」

 その言葉に、沙也夏は驚きと、何かが胸に灯るような不思議な感

覚に包まれていた。渡辺の目には、偶然以上の意味が宿っているよ

うに見えた。


「須藤なら、ギャラリーの経験もあるし、空間を作る力もある。う

ってつけじゃないかって、そう思ったんだ」

 胸の奥に広がるのは、嬉しさと戸惑いが混ざった複雑な余韻。

 何かが動き出した――そんな予感が、ゆっくりと身体に沁み込ん

でいった。

「どうだ、考えてみてくれないか。今日の今日だし、すぐに返事を

くれとは言わん。ただな……こっちも悠長にはしてられない。一週

間ぐらいで、返事をもらえると助かる」

「はぁ……ん〜……正直言って、復帰は不安のほうが大きいです。

でも……仕事をしなければ、これからの生活も立ち行かなくなるの

は事実ですし……」


 言葉を探しながらも、沙也夏は、自分の足元にある現実と、今目

の前に差し出された可能性を見つめていた。

「わかりました。そこまで言っていただけるのなら、考えてみます」

「そうか。良かった……」


 渡辺の表情が、ふっと緩み、安堵に満ちた微笑みが浮かぶ。それ

は、ひとつの光が見えた者の顔だった。沙也夏は、その笑顔を見つ

めながら、心の奥にふと浮かぶ疑念のような確信を抱いた。

『突然、壱岐へ行こうと思った――それは気まぐれのようでいて、

何かに導かれていた気がする。夢の中で現れたエディの仕草、手招

き―あれはもしかして、私に“ここへ来なさい”って言っていたのか

もしれない』

 潮風の中に、記憶の中の笑顔が揺らぎ、波音に混ざって耳元に囁

くように聞こえた。まるで、すべてが意味のある偶然で繋がってい

るように――この島に、ギャラリーに、そして未来に。





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