22.壱岐へ
午後の光が、デスクの上にゆるやかに差し込んでいた。 パソコ
ンの画面には、オンラインの観光サイトが開かれている。小さな島
の写真が次々と切り替わって、穏やかな海や入り江の岩場、灯台の
シルエットが静かに流れていく。
沙也夏は、画面の中に映るその風景に、じっと目を留めた。
――壱岐。何年も前に訪れたあの場所。潮風の匂いと、乾いた空の
色が、記憶の奥からゆっくりと立ち上がってくる。
「まず……壱岐のあのビーチに行ってみよう」
自分でも驚くほど自然に、その言葉は口をついて出た。あの日の
白い砂浜。誰もいない午後の海辺。静けさの中で、自分が“何か”を
思い出しそうになった瞬間。
その場所から、今の自分を再び始めてみたい。そんな気持ちが胸
に広がっていく。画面をスクロールすると、海沿いのギャラリーの
写真が目に入った。古びた白壁と、木の看板。その看板の文字が、
記憶の奥からひらがなとアルファベットを混ぜて浮かび上がってく
る。
「えーと……なんて名前だったっけ……そう……! シーウィンド
・ギャラリーだ」
名前を思い出した瞬間、なにかの扉が静かに開いたような気がし
た。もう一度、あの場所に行ってみたい。海風の通る通路を歩いて、
過去と向き合ってみたい。そんな確かな衝動が、沙也夏の胸の奥で
そっと火を灯していた。
思い立った途端、沙也夏は静かに席を立った。弁当の容器が机の
端に置かれている。
「まず……叔母に連絡しないとね」
声に出してみると、少し気が引き締まった。携帯電話を手に取り
ながら、ごみ箱に向かって足を動かす。容器を生ゴミ用の袋に落と
したとき、カサリと乾いた音がした。それだけでも少しだけ“日常
に戻った”気がして、深呼吸する。
電話をかける前、沙也夏はひとつ息を整えた。実家のキッチンに
差し込む陽射しが、シンクのステンレスに反射している。静かな午
後だった。
携帯電話を持つ手の指先が、ほんの少し冷たくなっている。叔母
に話すとなれば――驚かれるだろう。けれど、言わなければ進めな
い。離婚して戻ってきたことを、きちんと伝えなければならない。
通話がつながった瞬間、叔母の声が軽やかに響いた。
「もしもし? 沙也夏? どうしたの急に? えっ、今どこなの?」
少し戸惑いながら、沙也夏は口を開いた。
「……実家に戻ってきたの。一郎さんと離婚したの」
言い終えたあと、電話の向こうが一瞬だけ凍りついたように静か
になった。
「……え? な、何言ってるの。離婚? 一郎さんと? ちょっと、
急すぎてびっくりするわよ。何があったの? 喧嘩? まさか不倫?
本当に別れたの?」
語気が強くなった。驚きと混乱が交互に押し寄せてきているのが
分かる。
「もう、正式に手続きしてる。荷物も出して、実家に戻ってきたの。
今、部屋の片づけをしてるところ」
「ちょっと待ってよ……だって一郎さん、そんなに問題あるように
見えなかったじゃない。外では穏やかにしてたし、あんたもそんな
風には話してなかったでしょう?」
「うん。でも……二人でいる時間がだんだん重くなっていったの。
小さな価値観の違いとか、お互いの歩幅のずれとか、積み重なって
いく感じ。何かが壊れた感じになって、直せなくなったの」
沙也夏は、詳しく話さず適当にごまかした。叔母はあまり納得し
た様子はなかった。詳しく話せば、叔母は話好きだから、長くなる。
「……そうなの。夫婦の問題は当人しかわからないからねぇ……そ
れで、これからどうするつもりなの? 仕事は見つけるの? 何か
あてとかあるの?」
「うん。今はちょっと、頭を整理したい。それで、少し旅に出よう
と思ってる。壱岐に……昔行った海辺があって、そこにもう一度行
ってみたいの」
「……そうね。離婚したばかりなら、気分を変えた方がいいかもね。
何かあったら、また電話しなさいよ」
その言葉には、驚きだけでなく、深い優しさが滲んでいた。電話
越しに感じるその温度に、沙也夏はそっと目を閉じた。
電話を切ったあと、沙也夏は立ち上がった。部屋の空気が静かす
ぎて、呼吸の音さえ浮いている気がした。
「掃除しよう」
誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやく。頭を休ませるより、手を
動かしたほうがいい。じっとしていると、健太のことが、過去のこ
とが、気づけば胸の中に降りてきてしまう。
まずは浴室から。シャワーの蛇口をひねると水音が壁に広がって
いく。スポンジを握りしめ、浴槽のふちを丁寧に磨く。泡が弾ける
音が、頭の中のざわつきを少しずつ押し流していくようだった。
それからトイレへ。便座のまわりを布で拭きながら、思いがけず
深く集中していることに気づく。これまで見逃してきた汚れに向き
合うことは、どこか自分自身の内側にも繋がっている気がした。
トイレの掃除が終わったあとも、沙也夏は止まらなかった。手際
よく掃除機を押し出して、リビングの隅から寝室のカーペット、玄
関まで一気にかけていく。一度も休むことなく動き続けるうちに、
額にはうっすらと汗が浮いていた。背中もじっとりと湿っている。
けれど、奇妙なほど息は整っていた。思考は澄み渡り、心の中が
すこし軽くなった気がした。
掃除機を収納庫に戻し、冷たい麦茶を一口飲む。椅子に腰を下ろ
したとき、ふとあの名前が浮かんできた。
――シーウィンド・ギャラリー
壱岐の海辺にあった、小さな展示空間。風が通り抜けるような建
物だった。何を見たのか、どんな絵があったのか。記憶は曖昧なの
に、心だけがくっきりと反応する。
「行こう。今なら、きっと違う何かが見える気がする」
掃除のあとは、旅の準備。過去に触れるためではなく、新しい時
間を迎えるために。
『たしか……会社を辞める時、ちゃんと引き継ぎはしたはず』
窓辺の光が午後の空気をゆっくり揺らしていた。沙也夏は、ふと
遠くの海を思い出すように目を細めた。
壱岐――かつて月に二度、あの島へ通っていた。会社の業務とは
いえ、海辺のギャラリーを任されることは、彼女にとって特別な意
味があった。その頃の仕事には厳しさも静けさも混ざっていたが、
それでも、海と絵と光に囲まれた数時間は、都市の喧騒から離れて
自分自身と向き合う稀少な時間だった。
『引き継ぎしたのは……そうそう、遠藤くんだった。まだやってる
のかしら。正直、あそこの担当は仕事としては厳しいのよね』
客足は多くなかった。ギャラリー自体、道から少し奥まった場所
にあり、地元の人でも通りがかりでは見つけにくい。
それでも、夏が近づけば島には観光客が押し寄せてくる。透き通
るような海を目当てに来る人々。そのなかには、偶然ギャラリーの
前を通りかかる人もいる。
興味を持って中に入ってくれる。静かな空間に足を踏み入れて、
展示された絵をゆっくり眺める。けれど――ほとんどの人は、何も
言わずに立ち去る。感想も、購入の意志もなく、ただその場の空気
を吸って帰っていく。それは悪いことではなかった。むしろ、作品
と向き合う静かな時間が保たれているとも言えた。
でも、“仕事”としてみたとき、どうしても数字や評価がついてこ
ない。報告書に書けることが少ないのは、担当者にとって地味に厳
しかった。
壱岐の海のそば――シーウィンド・ギャラリーは、さながら風景
の一部のように静かに佇んでいた。白壁に細い窓、まわりを囲む青
緑の草木。観光客が賑わう中心地からは少し離れており、目的を持
って訪れる者だけが足を踏み入れる。
沙也夏がそのギャラリーを担当していたころ、毎月二回、早朝の
高速船で壱岐へ渡った。展示のメンテナンス、館内の調整、そして
なにより“客を呼び込むための準備”のためだった。
都心で行われる展示即売会――そこには絵を買う気のある層が多
く集まる。そんな場で作品を見てくれたリピーターたちへ、沙也夏
は声をかけた。
「壱岐に、海辺のギャラリーがあるんです。まるで美術館のような
空間で、風も光も絵と混ざり合う。ぜひ一度、見に来てみませんか?」
決して押しつけがましくなく、しかし確かな響きで。美術が好き
な人ほど、「作品を見る場所」に敏感だ。それを逆手にとって、“場
所そのもの”を記憶に残すような導線を作ったのだ。
とはいえ、ただ声をかけるだけでは人は動かない。その先に必要
なのが、“話術”だった。
「お客様が好まれる色味、どんな画家の作品に興味があるか、どこ
で見た絵に一番惹かれたか」――沙也夏は、ひとりひとりの趣味嗜
好を地道にリサーチしていた。
会話のトーン、間の取り方、視線の合わせ方。無理に引き込むの
ではなく、自然に“その絵をもう一度見たい”と思わせるような語り
方を、彼女は無意識に心得ていた。
結果的に、ギャラリーには毎月一定数の客が足を運んだ。
海を見たい観光客の一部が、静かな午後にその空間に流れ込み、
絵の前でしばらく立ち止まる。
とはいえ、来場者が必ず絵を買ってくれるわけではなかった。
購入に至るのは、せいぜい二割から三割。それでも、会社はそれ
を「成功」と見なした。
なぜか――それは、ギャラリーが“売る場所”ではなく“記憶に残す
場所”だったからだ。コバルトブルーの海。その手前に立つ白いギャ
ラリー。客は、作品だけでなく、その景色と匂いと風を一緒に心に
刻んで帰っていく。
そして、数ヶ月後。都心の展示即売会で、その絵とふたたび再会
する。
『ああ……この絵、壱岐のギャラリーにあったやつだ』
その一言が、購入意欲を揺り起こす。作品と風景がリンクした記
憶――それこそが、営業戦略だった。絵の印象ではなく、“体験の印
象”を売る。シーウィンド・ギャラリーは、そうした会社の象徴だっ
たのだ。
だからこそ、沙也夏の記憶には、展示された絵よりも“あの空気”
が強く残っている。次に訪れるとき――彼女自身が、あの風景のな
かに立つ自分をどう感じるのか。それを確かめにいく旅になるのか
もしれない。
静まりかえった午後の部屋で、沙也夏はふと過去の自分に触れて
いた。シーウィンド・ギャラリーを担当していた頃のこと――白い
壁と、海の風。訪れた客との静かなやりとり。あの頃の自分は、も
っと張り詰めていた。けれど、あの空間の心地よさだけは今も鮮や
かに残っている。
ふと我にかえり、時計を見る。画面に浮かんだ時刻は、午後三時
をまわっていた。
「いけない、もうこんな時間!」
声に出した途端、日常のリズムが戻ってくる。頭の中のギャラリ
ーの記憶は、まだ微かに残っていたが、現実の暮らしがそれを静か
に押し流していった。
今日の掃除はここまで――と、自分の中で線を引く。
そのままキッチンへ向かい、夕飯の支度に取りかかった。しょう
が焼きと豆腐サラダ。いつもは手早く済ませる夕食も、今日はじっ
くりと時間をかけた。タマネギを薄く切る手つきも、フライパンの
音も、どこか気持ちが落ち着いていた。
時間をかけて食卓を整えたころには、外も少しずつ暮れなずんで
いた。午後六時、ようやく夕飯に手をつける。しょうが焼きの香ば
しさと豆腐の冷たさが、不思議とバランスがよくて、味覚にも少し
だけ優しさを取り戻したような気がした。
午後八時。湯船の中で、今日一日の空気が静かに肌に染み込んで
いく。掃除、記憶、料理。淡々とした時間の中にも、小さな転調が
重なっていた。
風呂から上がると、すぐにベッドへ向かう。今夜はいつもより早
めに灯りを落とした。深く眠りたかった。夢の中で、あの海とギャ
ラリーの空気にもう一度触れられるような気がしていたから。
朝、目が覚めると、思いがけず爽快な気分だった。空気がすっと
澄んでいて、カーテンの隙間から入る光もいつもより柔らかく感じ
る。鏡を見ると、昨日まで腫れていた目もすっかり落ち着いていた。
まるで気持ちの整理が、身体の調子まで整えてくれたようだった。
キッチンへ向かい、豆腐入りの味噌汁をつくる。出汁の香りが部
屋中に広がると、静かな満足感が胸に広がっていく。あたたかい汁
をすすりながら、今日の予定をぼんやりと描いていた。
食器を洗い終えたあと、昨日から持ち越していた掃除に取りかか
る。リビングの隅、窓際の棚の裏、押入れの中――ひと通り手を入
れると、部屋の空気が少し軽くなった気がした。掃除とは不思議な
もので、目に見える変化以上に心を整える力がある。
午後は買い物へ。スーパーで明日からの簡単な食材と、少しだけ
旅用の補充品も手に取る。レジに並んでいる間、頭の中では“壱岐”
という言葉が静かに鳴っていた。
帰宅後、パソコンを立ち上げ、まずジェットフォイルの空席を調
べる。乗船予約はすんなりと取れた。次は宿の確保。パソコンで検
索していると、あの海沿いにある「たホテル」が目に留まった。
以前、壱岐での出張のときにも宿泊したことがあり、景色と静け
さが印象に残っていた場所だ。海を一望できるテラス、木目調の落
ち着いた部屋、朝の潮騒が目覚まし代わりになるような空間。すぐ
に予約サイトで空室を確認し、希望の日程で確保した。
ついでに天気も調べる。壱岐の明日は、晴れ。雲もほとんどなく、
風も穏やか。これなら午前のジェットフォイルに乗れば、到着する
頃にはあのコバルトブルーの海が広がっているはずだ。画面の天気
予報に表示された「快晴」の二文字に、沙也夏は小さく微笑んだ。
予約確認のメールを見ながら、沙也夏はふぅと息をついた。フェ
リーの手配も済み、宿泊先の「たホテル」も無事に取れた。
夕食については、ホテルで食事をとることもできる。けれど、沙
也夏のお気に入りは決まっていた。
「ほらほげ食堂」――あの素朴な店構えと、少し声の大きい女将
の笑顔。そして何より、絶品のうに飯。口に含んだ瞬間、海そのも
のを味わっているようなあの濃厚さが忘れられなかった。
『また、あれが食べられるんだ……』
声にならない期待感が胸に灯った。
フェリーとホテルの予約が済んだ今、あとは簡単な荷物の準備だ
けだった。一泊だけの旅。大げさな支度はいらない。動きやすい服、
最小限の洗面道具、折りたたみ傘と軽めの本――気がつけば15分
もかからずにバッグの中は整っていた。
出発前の静けさの中、沙也夏の胸の奥には、確かな熱が灯りはじ
めていた
「行こう。ちゃんと準備はできてる」
夕方、掃除を終えた沙也夏は、パソコンを開いて壱岐の最近の様
子を調べてみた。かつて仕事で通っていた頃とは、ずいぶん様子が
変わっている。観光サイトや地元のブログには、見慣れない飲食店
の写真が並んでいた。
その中に、ひときわ目を引くイタリアン・レストランがあった。
白い外壁に木の看板。
「せっかく行くんだから、寄ってみようかな。あ、でも“ほらほげ
食堂”に行くんだった」
そう思い、すぐに打ち消した。
画面を閉じると、部屋の静けさが戻ってきた。夕食の支度に取り
かかる。冷蔵庫の中にあった前日残っていた、しょうが焼きと豆腐
サラダで済ませることにした。
午後六時過ぎ、食卓に座って夕飯を口に運ぶ。前日の残り物だが、
量的には十分だった。今日も時間をかけて作りたかったが、明日は
あの「ほらほげ食堂」で食べることができるので、今日はこれで十
分だ。
午後八時には風呂に入り、湯船の中で静かに目を閉じた。
過去のことも、後悔も、今は考える余裕がなかった。とにかく、
今は壱岐に行くこと。あのビーチに立って、もう一度、自分の足で
“始める”こと。その思いだけが、今夜の枕元にそっと置かれていた。
翌朝、午前九時過ぎ。郷ノ浦港に着いた沙也夏は、フェリーを降
りて、少しだけ目を閉じた。肌を撫でる潮風が心地よく、港のざわ
めきが遠くから聞こえてくる。何度か訪れた場所なのに、今日の空
気はどこか違って感じられる。
数分その場に佇んだあと、レンタカーの事務所へ向かった。予約
していたのは、トヨタのヴィッツ。今回はなるべく経費を抑えたく
て、最もシンプルなプランを選んだ。
鍵を受け取り、車に乗り込む。少し大きめのキャンバス地のバッ
グを助手席に置き、深呼吸してからエンジンをかけた。
郷ノ浦港からルート382に入ると、空の青が濃くなりはじめた。
両脇に広がる緑が風に揺れ、走るたびに陽が車体に反射した。
沙也夏は、久しぶりにハンドルを握る感覚に身を委ねながら、石
田町へ向かって車を走らせていた。ダムが見えてきた頃、周囲は山
に囲まれて静かになった。そこから道は緩やかな登りへと変わる。
エンジン音が少しだけ高くなる中、視界の先に白い外壁の建物が
ふいに現れた。
「あっ……!」
反射的にブレーキを踏んだ。幸い後続車はなかった。路肩に車を
寄せて、エンジンを止める。静寂が戻ると、心拍だけが強調される。
助手席のバッグに手を伸ばして、携帯電話を取り出した。画面を
確認しながら、記憶が追いついてくる。
「ここだわ」
昨日調べていた、洒落たイタリアン・レストラン――まさにその
店が目の前に立っていた。まるで記憶の中から抜け出してきたよう
な感覚だった。白い外壁は太陽の光に、溶け込んでいるように見え
る。
入口にはドアを挟んで、左右に一本ずつサーフボードが立て掛け
られている。サーフボードは壱岐という場所を意識しているのか、
若しくは海をイメージしているのかもしれない。
左側には「西風」の文字。どうやら店の名前らしい。
海を吹き抜けてきた風が、そのままこの場所に名を残したかのよ
うだった。
右側のサーフボードには、手書きのフードメニューとドリンクメ
ニューが添えられている。ランチのサンドプレート、島の野菜を使
ったカレー、そして何より“自家焙煎コーヒー”の文字が目立ってい
た。
「コーヒー……気になるな」
沙也夏は口元に笑みを浮かべたが、すぐに携帯電話の時刻に目を
やり、首を横に振った。まだ午前中。営業はしていないようだった。
窓越しに中を覗くと、店主らしき人物が奥で準備をしているのが
ちらりと見えた。
沙也夏はしばらく「西風」の店先に立ち尽くしていた。白の外観
と潮風が織りなす空気が、旅の始まりにふさわしい序章のように感
じられた。
『【西風】という名前は壱岐にピッタリね』
そう心の中でつぶやくと、改めて車へ戻り、エンジンをかけた。
ハンドルを握る手には、少しだけ落ち着かない熱が宿っていた。
20分ほど走ると、ルート382から細い舗装路へと左折する。
この道に入れば、あのビーチはもうすぐだった。木々の間を抜け
る道。傾斜を下るごとに視界が広がっていく。やがて、車窓の奥に
海の青が見え始めた。コバルトブルーと風の匂いが、窓越しに胸い
っぱいに広がっていく。
潮の香り。懐かしい静けさ。――あの感覚が少しずつ戻ってくる。
目的地に近づいた手応えに、スピードを緩める。そして、ゆっく
り路肩に車を寄せた。
外に出ると、潮風が頬に触れた。前方に、小さな駐車場のような
空間が広がっている。
『あれ、前はここらへんには駐車場はなかったはず……いつできた
んだろう』
車を降り確認すると、白い看板が目に入った。看板には、はっき
りと書かれていた。
《シーウィンドギャラリー専用駐車場》
「えっ、専用駐車場ができたんだ!」
思わず、声がこぼれた。
かつてこの場所に通っていた頃は、駐車場などなかった。空き地
や舗装されていない路肩に、気遣いながら車を停めたものだった。
住宅もまばらで、ギャラリーの周辺はいつも静かな風と空だけが
支配していた。
いま、駐車場には一台だけライトバンが停まっている。
『誰か来てるのかしら……』
その車を横目で見ながら、沙也夏は自分の車を一番手前のスペー
スに滑り込ませた。鍵を抜き、バッグを肩にかけ、少しだけ早足で
目的の場所へ向かう。
足元には柔らかな砂混じりの風が流れ、空にはまるで待っていた
かのような光が注ぎ始めていた。
シーウィンドギャラリーへ向かうには、車道を大きく回り込む必
要があった。けれど、沙也夏には“秘密の道”があった。
林の入口に立ったとき、その記憶がゆっくりと呼吸を始めた。
見た目には道がない。ただ木々が密集しているだけの場所。けれ
ど、枝葉の隙間を見極めながら進むと、そこには細く踏みならされ
た土の道がひっそりと伸びている。
誰かが通った跡があり、誰かの記憶もこの道に溶けているような
気がした。
『ここだ。間違いない』
そう心で呟いて、林へと踏み出した。
道は細いが、確かに続いている。木々の間を縫うように、足元の
柔らかい土を踏みながら、沙也夏は進んでいく。葉の間から差す光
が、どこか懐かしく感じられた。歩を進めるごとに、波音が耳に届
いてきた。
最初は微かなささやきだったのに、徐々に輪郭を持ちはじめる。
――近い。もうすぐ。
心が逸る。歩幅が自然と広がっていく。
そして、ふと視界が開けた。林を抜けたその先――目の前に広が
っていたのは、かつて胸の奥に深く刻まれた風景だった。
コバルトブルーの海。その手前に広がる白い砂浜。空の青と、波
の粒と、静かな風。その一瞬だけ、時間が止まったように感じられ
た。
沙也夏は、ただビーチの入口に立ち尽くした。風が頬を撫でる。
遠くで波が砕ける。そのすべてが、記憶の奥と今の瞬間をつなぎ
合わせていた。
――ああ、あの時と同じだ。少しも、何も、変わっていない。




