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彼方からの風  作者: 杉本敬
第1章
2/19

2.追憶

 健太はホテル沿いの道を歩き出し、バス停へ向かった。

 タクシーで帰ろうかとも思ったが、無職の身を思えば、それも贅

沢に感じられて考え直す。

 バス停までは、ホテルから歩いて数分ほど。中途半端な時刻だっ

たせいか、そこには誰の姿もなかった。


 健太はベンチに腰を下ろし、バスを待ちながら披露宴会場のホテ

ルをぼんやりと眺めていた。そのホテルは、海に囲まれていて、一

応“リゾートホテル”の看板を掲げている。だが、その海はお世辞に

も美しいとは言い難い。

 青く輝いているどころか、くすんだ灰色。そんな灰色の海に船を

浮かべて、船上レストランなどという洒落たものが営業しているの

だ。

「こんな海を眺めながらの食事って……本当に美味いのか?」

 思わず健太は、ひとりごとのように小さくつぶやいた。


 それにしても……ヒロシのやつ、なにもこのホテルじゃなくても

よかったのに。 健太は、そんなことを思っていた。このホテルは、

彼にとって忘れがたい場所だ。

 かつて付き合っていた女性に、告白めいた言葉を聞かされたあの

夜。今も、あのときの空気や、彼女の声色が、ふとした拍子に蘇る。

 いや、自分では「忘れた」と思い込もうとしているだけかもしれ

ない。

……とはいえ、ヒロシに文句を言える立場でもない。


『たしか、ヒロシには話した記憶がある。でも、場所までは言って

なかったか……なら無理もないか。あれは……三年くらい前か、沙

也夏と会ったのは』

 そう思った瞬間、健太は慌てて頭を横に振った。

『……だめだな。忘れようとしてるくせに、また思い出してる』

 そんなことを考えているうちに、バスがゆっくりと停留所に滑り

込んできた。健太はベンチから立ち上がり、無言のまま車内へ乗り

込む。

 揺れる座席に身を預け、車窓を流れていく「きれいでもない」街

の風景を、ただぼんやりと見つめる。気づけば、頭の中にはこれま

でバンドで演奏してきた曲のフレーズが、ゆっくりと浮かんでは消

えていた……沙也夏のことを、これ以上考えないために。


 あれこれと曲のことを思い返しているうちに、いつしかヒロシや

圭子の顔が浮かんでいた。

 バスは繁華街に入り、渋滞もなく滑るように進んでいく。やがて、

私鉄の駅近くのバス停が近づくと、健太は静かに席を立ち、降車の

準備をした。

 バスを降りると、切符売り場で乗車券を買い、私鉄のホームへ。

 来た電車には余裕があり、座席にも空きがあった。健太は窓際の

席に腰を下ろすと、ふっとまぶたが重くなり、目を閉じた。


 電車の心地よい揺れに身をまかせ、健太はいつの間にかまどろん

でいた。ふと目を開けると、目的の駅のひとつ手前を過ぎたところ

だった。眠気を払うように軽く頭を振り、健太は席を立ってドアの

前へ向かった。電車を降り、改札を抜けると、そのままアパートへ

と足を向ける。

 途中で……ビールを切らしていたことを思い出し、近くのコンビ

ニに立ち寄った。


 アパートに着くなり、健太はビールのタブを引き、一気に喉へと

流し込んだ。窓を大きく開け放ち、残りの缶を冷蔵庫にしまい込む。

 そしてそのまま、床にどさりと腰を下ろした。疲労感がじわじわ

と全身に広がっていく。再びビールを手に取り、勢いよく口に運ぶ。

 この調子では、買ってきたビールもあっという間になくなりそう

だ……そう思いながら、健太は身体に回りはじめたアルコールの重

さを感じつつ、空き缶を床にそっと置いた。


『どうして、こんなになってしまったのだろう。何かが狂ってしま

った……これからどうするかな』

 これからしなければいけないことは、健太自身わかっていた。失

業しているのだから、仕事を探さなければならない。現実的なこと

が目の前に横たわっている。だが、健太はやる気がなかった。何も

する気が起こらないのだ。


『どうして、こんなふうになってしまったんだろう……何かが、ど

こかで狂ってしまった。これから俺はどうすればいいんだ』

 何をしなければならないのか、それは健太自身、よくわかってい

た。失業中の身なのだから、まずは仕事を探すべきなのだ。現実は、

否応なく目の前に突きつけられている……けれど、どうしても気力

が湧いてこない。何ひとつ、手をつける気が起きなかった。


 健太は、床に置いたビール缶をふたたび手に取り、一気に飲み干

した。空になった缶を潰し、ごみ箱へ無造作に投げ入れる。冷蔵庫

から2本目のビールを取り出すと、また床にどさりと腰を下ろした。

 アルコールがじわじわと全身を巡っていく。その酔いの中で、い

つしか健太の意識は、沙也夏と別れたあとの時間へとさかのぼって

いた。













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