15.麗子
ビルのガラス扉を押して中へ入ると、ひんやりとした空気が肌を
撫でた。くたびれたエレベーターに乗り込み、健太は3階のボタン
を押す。内部の壁にはいくつもの擦り傷があり、かすれた鏡がこち
らを映していた。だが、その薄暗さも、彼にはどこか懐かしく感じ
られた。
到着を知らせる鈍い「カン」という音と共にドアが開く。降り立
った先、廊下の奥に「ロコ」の青い電光文字がぼんやりと灯ってい
た。昔よりも少し光が弱まっている気がしたが、それでも確かにそ
こに在るという気配があった。
健太はゆっくりと扉に手をかける。押し開けた瞬間、乾いた蝶番
の音とともに、かすかな煙草と古い木の匂いが混じる空気が流れ出
した。
耳に届いたのは、ギターの音。湿り気を帯びたコードが店内を包
み込むように響く。ふと見ると、ステージではマスターがギターを
弾いていた。年季の入ったスピーカーの前で、淡い照明を浴びなが
ら、ゆったりとした手つきで音を紡いでいる。
マスターは演奏の手を止めず、健太に気づくと、穏やかに目を細
めて言った。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
照れたように笑いながら、健太はステージへと歩み寄った。
「変わってないね」
「何が?」
「ステージも、カウンターの位置もさ」
健太の言葉に、マスターはふっと笑みをこぼしながらギターをス
タンドに預け、ゆっくりとステージを降りてきた。
「変えようがないんだよ、この狭い店じゃね。さ、座りなよ」
促されるまま、健太は左手のカウンター席に腰を下ろす。真正面
には、中央に組まれたステージが変わらずそこにあった。木目のス
テージ、微かな照明、そして、その上に残されたかすかな傷跡。
健太はまじまじと見つめながら、記憶の断片が静かに蘇るのを感
じていた。
『よく歌っていたな、ここで。客が聴いていようが、聴いてなかろ
うが、そんなの関係なかった。ただステージで歌える、それだけで、
嬉しかった』
「何か飲む?」
マスターがカウンター越しに尋ねると、健太は間髪入れずに答え
た。
「ビール」
「了解。でも、昼間もけっこう飲んでたろ?」
「ビールだったら、いくらでもいけるよ」
マスターが笑いながらボトルを取りに向かう。
「好きだなあ。昔からビール派だった?」
「いや。あの頃はバーボンばっかり飲んでたと思う」
「ああ、そうだった。ちょっと渋めでさ、似合ってたよ」
「たぶんね、格好良いと思ってたんだ、バーボンが」
「まあ、そういう時期ってあるよな」
マスターは冷蔵庫から霜のついたグラスを取り出し、ビールサー
バーのレバーを静かに引いた。冷気とともに琥珀色の液体が滑らか
に注がれ、泡が上品な花のように盛り上がる。
「マスターも飲みなよ。久しぶりだから乾杯でもしようか」
グラスを前にした健太が、少し照れたように声をかける。
「おっ、いいね。じゃあ、いただくとしようか」
二つのグラスが乾いた音を立てて重なった。
「では、久しぶりということで……乾杯!」
マスターは一口、健太はグラスの半分ほどを一息に飲み干した。
「うまい!やっぱ、店で飲む生は違うね」
「そりゃそうさ。このサーバーには結構投資したんだから」
マスターが得意気に笑うと、ふと健太の腹に目をやる。
「ところで健ちゃん、お腹ぺこぺこなんじゃないの?」
「もう減りすぎて、背中とくっつきそうだよ」
「ハハハ、ごめんごめん。すぐに何か作るから」
健太がビールグラスを片手にふと振り返ると、店の奥――灯りの
落とされたテーブル席の一角に、人影が見えた。暗がりのなかで、
誰かがうつ伏せに身を横たえている。静まり返った空間に、ビール
の泡がグラスの内側を登っていく音だけが、ささやかに響いていた。
『ん…誰か…寝てるのか?』
目を凝らす。席の脇に置かれたギターケースの形が、見慣れたも
のと重なった。薄暗がりの中、それが誰なのか、徐々に輪郭を取り
戻していく――。
『まさか……ジョン? あそこで寝ているのは……』
ステージを共にした、あのギタリスト。
目を凝らすと、うつ伏せに身を預ける人影が見える。椅子にだら
しなく体を預け、テーブルに片腕を突っ伏すようにしている。そこ
に置かれたギターケースが、健太の視線を引き止めた。
「お待ちどうさま。ゴーヤチャンプルだよ」
ジョンの姿に驚きながらも視線を外せずにいた健太の背後から、
マスターの声が届いた。
健太は振り返り、思わず尋ねる。
「ねぇ、あそこで寝てるの、ジョンじゃない?」
「ああ、やっと気がついた?いつ声かけるかなと思って、黙ってた
んだよ。それより、はい、できたて」
言葉の後ろに湯気をまとわせながら、マスターが皿をカウンター
に置く。
健太はカウンターに腰を戻し、皿に目を落とした。
「すげぇ……こんなゴーヤチャンプル、見たことねえな」
思わず感嘆の声が漏れる。
皿には緑のゴーヤが鮮やかに映え、その隙間を埋めるように豚肉
がたっぷりと盛られている。通常、脇役に徹するはずの豚肉が、こ
の皿では主役級の存在感を放っていた。
皿に乗ったゴーヤチャンプルからは、ほんのりと鰹出汁の香りが
立ちのぼっていた。炒め油に絡んだゴーヤの緑が、ほのかに艶を放
ち、苦味よりも先に甘さを思わせる香ばしさが鼻をくすぐる。ゴー
ヤの薄切りは絶妙に火が入り、縁はわずかに焦げ色を帯びていたが、
芯にはほどよい歯ごたえが残っている。
その間を埋めるようにして、豚バラ肉がごろりと転がっていた。
脂がほどよく溶け、こんがりと焼けた面はややパリッと音を立て
そうな焼き上がり。噛めば肉汁があふれ出そうなほど、しっとりと
炒められていた。
卵も加えられていたが、決して主張しすぎず、料理全体をふわり
と包みこむように馴染んでいた。火加減の良さか、ところどころ半
熟のようにとろける部分があり、ゴーヤと豚肉の橋渡しのように機
能していた。
「これ、マスターが作ったの?」
健太は思わず目を見開いて問いかけた。
「いやいや、さすがにこれは無理だよ。じゃあ、ご紹介しましょう
――麗子ちゃん、お客さんが料理にびっくりしてるよ」
マスターの声に応じて、奥の調理場からひとりの女性が姿を現し
た。
淡く光を吸うような栗色のロングヘアを真っすぐに下ろし、肌は
ほんのり小麦色に焼けている。自然なメイクがその輪郭を柔らかく
引き立て、はっきりとした目鼻立ちはすっと通った気品を湛えてい
た。動きに無駄がなく、白いTシャツのシャツとエプロンがかえっ
て凛とした美しさを際立たせていた。
その姿が店内に現れると、空気が微かに澄んだように感じられた。
『……綺麗な人だ。どこか見惚れてしまう感じ……』
健太は息を呑んだまま、一瞬声を失った。
「健ちゃん、紹介するよ。品川麗子さん。ジョンから聞いてると思
うけど……」
健太はジョンから聞いた記憶はなかった。
「谷川健太さんですよね。ずっと一度お会いしたいと思っていまし
た。はじめまして、品川麗子です」
麗子は口元に微笑みを浮かべ、静かに頭を下げた。その瞳には、
相手の内側を静かに見つめるような深さがあった。
「あ……谷川です。えっと、ジョンと……お知り合いなんですか?」
「ええ、まあ……かなりの、でしょうか」
麗子は意味ありげな笑みを残し、ほんの少しだけ言葉を残した。
「かなりの……って、まさか……」
健太が不思議そうに麗子を見ていると、マスターが軽く笑って言
った。
「さあさあ、話は食事のあと。せっかく麗子ちゃんが作ってくれた
んだから。冷めちまうよ」
「えっ、このゴーヤチャンプル、品川さんが?」
「ええ。豪華でしょう?」
『……豪華というより、豪快って感じだけどな』
健太は箸を手に取り、ようやく一口めを頬張った。口にした瞬間、
思わず目を見開く。ゴーヤは火加減が絶妙で、苦味が際立つ手前で
止まり、みずみずしいシャキシャキとした歯ごたえが舌を楽しませ
る。豚肉は厚みのあるバラ肉で、よく炒められた脂がうま味となっ
てゴーヤに絡む。ひと噛みごとに、旨味がにじみ出る。
「うまい!これは……ちょっと衝撃です!」
思わず声が出た。
「良かった。気に入ってもらえて」
麗子は素直に微笑んだ。その笑顔もまた料理と同じくらい、健太
の胸に強く残る。
『しかし……この豚肉の量、何人前分だよ……』
健太は黙々と箸を動かしながら、グラスのビールで口を流した。
「マスター、ビールおかわりもらっていい?」
「はいよ、ただいま」
「いい食べっぷりですね。それに、気持ちいいくらいの飲みっぷり」
麗子がくすっと笑う。
健太は小さく笑い返すと、ほとんど無言で最後の一口まで平らげ
た。皿の上に残った油の照りが、まだ食欲をそそるようだった。
「いや〜、旨かったです。このゴーヤチャンプル、ビールとの相性
抜群ですね。豚肉のボリュームも凄い」
「でしょ? こんなに豚肉が主張してるチャンプル、なかなかない
と思うんです」
「ええ。食べごたえ抜群です。それに、ちょっと味が濃いめで…で
も、それがまたいいんです」
「その味、本土じゃなかなか出会えないと思うわ」
「本土?」
健太が首を傾げると、マスターが笑って補足した。
「実はね、麗子ちゃんは沖縄出身なんだよ。それも離島のね」
「へえ、そうなんですか!」
「ええ。このチャンプルは、うちの島の味付けなんです。島では、
薄味じゃ物足りないんです。豚肉はごろっと入っていて当然で、
島の居酒屋なら、どこでもこのくらいは普通ですよ」
そう言って、麗子は健太の前にある空の皿に手を伸ばした。
「あっ……あの、ごちそうさまでした。ほんと、美味しかったです」
健太は慌てて皿を押さえ、照れたように笑いながら手渡した。




