14.ロコ
気がつけば、あたりはすっかり夜の気配に包まれていた。
健太は急に目を覚まし、がばっと体を起こした。部屋の隅に置か
れた時計が、午後十時を少し回ったところを指している。
「うわっ、またかよ……!」
思わず声を漏らし、天井を仰いだ。
ここ最近、同じような日が繰り返されていた。昼間に飲んだビー
ルが眠気を誘い、気づけば夕暮れどころか夜になっている。目を覚
ましたときには空腹を覚え、結局コンビニへ弁当を買いに行くのが
定番になっていた。
皮肉なことに、そのコンビニは――自分を精神的にすり減らすほ
ど追い込んだ場所だった。にもかかわらず、今の自分はそこで買っ
た弁当に頼っている。笑うに笑えない、そんな夜だった。
「……仕方ない、弁当でも買いに行くか。どうせまた、売れ残りば
っかりだろうけどな」
健太は額にかかった前髪をかき上げるようにして頭を掻き、のっ
そりと体を起こした。昼間から寝ていたせいで、部屋の中は漆黒の
ままだ。カーテン越しの窓には、街灯の光すら届かず、時間の感覚
があやふやになる。
手探りでソファの脇を探し、ようやく携帯電話を見つけて握りしめ
た。 そのまま壁づたいに歩き、玄関に辿り着く。靴を履きかけたと
き、内鍵を外そうとしたその瞬間——ブルブルッ、とポケットの中で
携帯電話が震えた。画面に浮かんだ名前は【ロコ】。しばらく見て
いなかった文字列が、青白い液晶に淡く浮かび上がっていた。
「はい、谷川です」
「……健ちゃんかい?」
その声に、思わず顔がほころぶ。
「マスター!? お久しぶりです!」
電話の相手は、あのバー【ロコ】のマスターだった。懐かしさが
一気に押し寄せる。
「いやぁ、ほんと久しぶりだね。今、話せるかい?」
「ええ、もちろん。大丈夫です」
「元気にしてた?」
「……まあ、何とかやってます」
そう返したものの、胸のどこかで引っかかるものがあった。マス
ターの声は変わらず穏やかで、懐かしいのに、今の自分には少しだ
けまぶしく感じた。
「ヒロシ君から話は聞いてるよ。さっき、ちょっと顔出してくれて
ね」
マスターの口調は相変わらず穏やかで、どこか優しさがにじんで
いた。そういえば、健太のことは昔から“健ちゃん”と呼び、ヒロシ
のことは“ヒロシ君”と呼んでいた。その呼び方の違いに、昔は少し
だけ羨ましさを感じた記憶がある。
「そっちに寄ったんですね」
「うん。ヒロシ君がね、『健ちゃんにも披露宴に来てほしかった』
って言ってたよ」
「……色々あって、行けなかったんです。昼過ぎに、俺のとこにも
電話があったんだけど」
「突然だけど、今からこっちに来れない?」
「え、今からですか?」
「顔、見たいなって思ってね。久しぶりでしょ?」
誘いはありがたかったが、時計を見ればもう夜も遅い。しかも、
腹は空いたままだ。
「来てもいいですけど、まだ晩飯食ってないんですよね」
「え、まだ食べてないの? もう十時だよ?」
「昼間ビール飲んで、そのまま横になったら寝ちゃって……起きた
らこの時間で。今からコンビニでも行こうかと思ってたんです」
「それじゃ体に悪いよ、健ちゃん。まさか毎日そんなことしてるわ
けじゃ……ないよね?」
「……まあ、似たような感じですね、ほぼ毎日。あはは」
「だめだよ、それじゃ。じゃあ今日はさ、栄養あるもんをご馳走し
てやるよ。あ、ちょっと待ってて」
電話の向こうで声が遠のき、数秒の沈黙が続いた。誰かと話して
いるようだった。
「よし、オッケー。来ても大丈夫だって。どう?」
マスターは予想以上にぐいぐいと押してくる。いつもの穏やかさ
はそのままだが、誘いの熱量だけが妙に高かった。
「マスター……今日はもう遅いし、遠慮しておきますよ」
「そう言わずにさ。せっかくの機会なんだし。元気な顔、見たいん
だよ」
健太はちょっと苦笑した。マスターって、こんなにしつこい人だ
ったっけ?
「これだけ熱心に誘うってことは、何かあるんじゃないですか?」
電話越しにそう問いかけると、マスターの返事がほんの一瞬だけ
遅れた。
「……見抜かれたか。実はね、話があるんだ。健ちゃんにとっても、
きっと悪い話じゃないと思ってる」
話か――
健太は、少し顔を上げて天井を見やった。何だろうという好奇心
と、空腹の現実がほどよく混ざり合ってくる。
「……まあ、うまい飯もついてくるなら、行ってみてもいいかな」
「本当かい?じゃあ、待ってるから」
その言葉が、どこか安心したような声色だったのが、少しだけ気
になった。
外に出ると、夜風がふわりと肌をなでた。四月の後半、風はまだ
ほんのりと春の匂いを含んでいて、生ぬるい温度が肌に心地よくま
とわりつく。
月はまだ雲の奥に隠れていた。街灯の光がアスファルトに淡くに
じみ、電線の先にとまった影が、かすかに揺れている。風に揺れる
のは葉か、残った冬の名残か、あるいは鳴き止まぬ遠くのバイク音
か。
腹の虫が、ひとつ鳴いた。
健太は上着のポケットに手を突っ込みながら、駅へと向かって歩
き出した。アパートから駅までは10分ほど。その道も、今ではあ
まりに見慣れてしまって、風景はぼんやりと記憶の奥と混ざり合っ
ていた。
途中すれ違う車のヘッドライトが、舗道の白線を何度も照らし、
遠ざかっていく。その数が意外と多いことに、健太はふと気づいた。
『……時間のわりに車が多いな。ああ、そうか。今日は日曜だった
っけ』
口には出さなかったが、自嘲気味な笑いが喉の奥で揺れた。寝起
きの頭がまだぼんやりしていて、曜日の感覚すら置き去りだった。
まるで、少しだけ日常の波から取りこぼされたような気がした。
それでも、駅までの夜道を歩く足取りには、不思議と焦りはなか
った。きっと、どこかで“何かが変わる予感”がしていたのかもしれ
ない。
このあたりは、古くからの住宅が並ぶ静かな街並みで、夜はとく
に音が遠い。大通りから一筋入っているせいか、車の走行音すら届
かず、足音や風が落ち葉を転がす音がかえって際立って聞こえる。
ただ、駅前へ向かうにつれて、わずかにネオンの明かりが増え、
閉店準備をしている店員の姿がガラス越しにちらつく。とはいえ、
時間はすでに夜の十時を回っていた。 日曜の夜――多くの人が明
日に備えて家で身を休めている頃だ。特にサラリーマンにとっては、
週明けの重たい一歩に備える貴重な静寂だろう。
そんな空気の中を、健太だけがどこか取り残されたように歩いて
いた。彼には、もう曜日の感覚すら曖昧だった。日曜であることも、
さっき道路の混み具合でようやく思い出したばかりだ。
やがて駅にたどり着き、切符を買って自動改札を通る。階段をの
ぼってホームに出ると、ちょうど電車が停車していた。
「……間に合ったか」
小さく安堵の息をつき、健太は電車に乗り込んだ。車内には、ま
ばらに数人の乗客が座っているだけだった。皆それぞれ、窓の外に
目をやったり、携帯電話の画面をぼんやり見つめたりしている。人
がいても、どこか“ひとり”を感じさせる車内の空気だった。
電車は静かに動き出し、ゆるやかな加速度とともにホームの明か
りが窓の外をすべっていく。
『夜の電車なんて、ほんと久しぶりだな……』
車窓に映る自分の顔は、どこか薄暗くぼやけていた。会社を辞め
てからというもの、夜に外出することさえめったにない。ほとんど
引きこもるような生活。何かを始める気力もなく、日々がただ緩や
かに、そして無言のまま過ぎていった。
『遅い時間に電車に乗るのは、たいていバンドの練習帰りだった。
あの頃は……楽しかったな』
仕事も頑張れた。けれど本当の意味で心が弾んでいたのは、週に
一度、スタジオに集まって仲間と音を重ねるあの時間だった。
ふと、ある記憶が浮かんでくる。
『そういえば――淳之介と出会ったのも、電車だったなぁ』
若い面持ちで、手にはやたらきつく握りしめたドラムスティック。
あのときはまだ大学生だった。まっすぐな目をしていて、少し不器
用だけど熱いヤツだった。
それが今じゃ――子どもまでいる。父親。まるで遠い世界の住人
みたいだ。目を閉じれば、あの頃の音や匂いが、今も胸の奥にかす
かに残っていた。
そんな思いにふけっているうちに、電車は天神駅に滑り込んだ。
福岡で最もにぎやかな繁華街――その名を聞くだけで、昼間の喧
騒や人波が思い浮かぶ街。
健太は小さく腰を浮かせ、ドアが開くのを待ってから静かに降り
立った。ホームにはわずかな乗客だけが残っていた。階段を降り、
自動改札に切符を通すと、目の前には駅と直結した大型デパートの
シルエットが暗がりに浮かんでいた。
そのデパートの建物を左手に見ながら構内を抜け、駅の外へ出る
と、夜の街の空気が肌を包んだ。生温かい風が吹き抜け、遠くでか
すかにライブ演奏のような音が聞こえる。
アーケードを抜けて西通りへ出るルートもあったが、健太はそれ
を避けるように、ふたたび左手に足を向けた。正面には別のデパー
トが現れた。天神の中心部――夜でも光に包まれた商業ゾーンだが、
さすがに日曜の夜とあって、人の姿はまばらだった。
数人の通行人が足早に行き過ぎるのを横目に見ながら、健太はさ
らに先へ進む。デパートの前を右に抜けると、今度は左手にもう一
棟、古風で重厚な雰囲気をまとった建物が姿を見せた。天神の顔と
も言える、老舗中の老舗。ふと気づけば、左右にはデパートが並び
立ち、まるで街そのものが巨大なショーウィンドウのように見えた。
老舗のデパートの前を横目に通り過ぎ、そのまま道なりに進むと、
大通りに出た。ここが福岡でもひときわにぎやかな通り――西通り
だ。
日中の喧騒とは違い、夜の西通りはどこか湿り気を含んだ熱気が
漂っていた。時間はすでに夜の十時半を回っているというのに、通
りにはまだちらほらと人の姿が見える。スーツ姿の男女、若いグル
ープ、ひとりでふらふらと歩く者――人の数は多くないが、それぞ
れに夜の余韻を引きずっている。
飲食店が密集しているエリアだけあって、道端には酔客の笑い声
が時折弾けるようにこぼれる。どこかの店から漏れるギターの音が、
夜風に混じってゆらりと漂ってきた。
だが、そんな西通りもここ数年で少しずつ様変わりしていた。大
手のパソコンショップが進出したのを皮切りに、通りの一角には若
者向けのファッションブランド店が軒を連ねはじめている。黒を基
調としたモダンな外観、ウィンドウに無造作に飾られたデニムやス
ニーカー――そんな新しい店舗の光が、かつての飲み屋街の看板と
並んで奇妙なコントラストを描いていた。
西通りの空気は変わりつつある。以前よりも少しだけ軽く、速く、
そして若い。健太はその変化を感じながら通りを歩いていた。目に
映る風景は同じようでいて、どこか違っていた。記憶の中の街が、
静かに塗り替えられていく――そんな夜だった。
西通りに出ると、健太は横断歩道の前で立ち止まり、青信号にな
るのをじっと待った。
『話って……なんだろうな。まさか“ロコで働いてみないか”なん
て言われたりして。いや、さすがにそれは……』
口には出さず、ひとり肩をすくめて苦笑した。
信号が青に変わり、歩き出す。通りを渡ってそのまま少し狭い路
地へと入ると、空気がぐっと静まり返った。照明は控えめで、街の
ざわめきもやや遠ざかる。並ぶのは、洋服店や雑貨屋、小さなギャ
ラリーなど。昼間は賑わうこの通りも、今はシャッターが閉まって
眠っていた。
だが、視線の先――交差点の向こうには、店の明かりがにじむよ
うに浮かんでいる。あの角を越えれば、飲み屋の並ぶ通り。健太は
交差点で一瞬足を止めた。
『たしか、ここを左だったな。……にしても、時間も遅いのにけっ
こう人がいるな。日曜の夜だってのに、みんな元気だよな』
呆れたように、けれどどこか羨望を混ぜたような気持ちでつぶや
いた。
左に折れ、活気の戻ってきた通りを歩いていく。居酒屋の暖簾、
バーのネオン、アジア料理店の看板が入り混じり、通り全体がにわ
かに熱を帯びているようだった。
そして、場違いなほど上品な外観のイタリアンレストランの前を
通過しながら、今度は右に曲がると、ようやく【ロコ】の入ってい
る古びたビルが見えてきた。
そのビルの前、街灯の光が届く範囲のギリギリに、黒っぽい猫が
一匹、じっと佇んでいた。猫は座ったまま、健太の方を見つめてい
る。逃げる様子もなく、鳴き声すらあげない。ただ、深くて澄んだ
瞳だけが、夜気の中でほのかに光を帯びていた。
『……こんな時間に猫か』
思わず立ち止まった健太に、猫はまるでそれを見計らったかのよ
うに立ち上がり、無言のまま細い路地の先へと歩いていった。その
後ろ姿が、どこか人を誘っているようにも見えた。
けれど健太は猫を追わず、目の前のビルの扉に視線を戻す。古び
たドア、その向こうには懐かしい空気と、そして何か未だ知らぬも
のが待っている気がした。




