11.決意
早朝の会社の事務所は、深海のように静まり返っていた。
ブラインドの隙間から薄明かりが差し込み、床やデスクの角に影を
落としている。壁の時計の針が、午前六時を少し過ぎたことを告げて
いた。外から聞こえるのは、ときおり遠ざかる車のエンジン音だけ。
日常が目覚めるには、まだ幾分か早すぎる。
その静寂の中心に、健太は一人、ぽつんと腰かけていた。
背筋を伸ばしたまま、ぼんやりとオフィスを見渡す。無人のデスク
たち、差しっぱなしの電源コード、わずかに開いた引き出し。その一
つひとつが、昨夜のざらついた気持ちを思い出させた。
健太には、今日ここに早く来る理由があった。
昨晩、クレーム対応の客先との約束ごとが、頭の中で繰り返し回って
いた。初めは、ただ逃げ出したかった。考えるほどに出口が見えず、
不安ばかりが膨らんでいった。
けれど夜が明けるころ、少しずつ霧が晴れるように思考が形を持ち
はじめた。見落としていた小さな接点、伝えるべき誠意の言葉、そし
て自分の責任。冷たい空気のなかで浮かびあがってきたのは、逃げず
に向き合おうという決意だった。
『……なぜ、俺だけが、こんなにも一人で悩まなきゃいけないんだ?』
心の中で問いかけても、答えなんて返ってこない。夜明け前から張
り詰めた頭では、もう思考はまともに動いていない。ただ、ぐるぐる
と同じところを回るだけだ。悩む必要なんて、本当はないのかもしれ
ない。
『客の言う通りにすればいい。ベンダーに連絡をとって、話をつけろ
って。それだけのことだ…だが、あのベンダーの野郎はどうせまた居
留守だ。電話に出ても、まともに取り合おうとしない。煙に巻くよう
な言い訳ばかり吐いて、責任を擦りつけてくる。いずれ客は、直接ベ
ンダーに連絡を取るだろう。そうなれば、ベンダーも動かざるを得な
い。対応はするだろう。だが――その代償を要求してくるのは、目に
見えている。そして、その請求が俺の会社に来る。会社は迷わず俺に
責任をなすりつける。上司は冷たい目で事務的に言うだろう、「担当
なんだから」と。始末書で済めば御の字。ボーナスの減額?笑わせる
な。それよりも……「その後」のことが、何より恐ろしい。クレーム
処理係、というレッテル。電話が鳴るたびに息を呑み、胃が痛くなる
日々。もう充分だ。こんな役回り、こりごりだ。夜中でも店からの着
信音が耳から離れない。飯の味もしない。夢にまで客の怒鳴り声が出
てくる。もう、限界だ……』
……もうそろそろ、この仕事に終止符を打つべきかもしれない。
その考えは、まるで長いあいだ閉じていた窓の隙間から、不意に吹
き込んできた朝の風のようだった。驚きはなかった。ただ、静かに、
すとんと胸の奥に沈んでいった。むしろそれは、思考を締めつけてい
た重苦しい雲がひとつ消えたような、ひとときの安堵すら連れてきた。
辞めたとしても、生活していける。貯金はある。当面の生活には困
らない。焦る理由なんて、もうない。
これまで勤め続けてきたのは、営業という仕事が、どうしようもな
くおもしろかったからだ。ただ商品を売るのではなく、人の話を聞き、
心を交わし、やりとりの先に小さな信頼関係が芽生える。その瞬間が、
たまらなく好きだった。
数字を追うばかりの世界で、健太は“関係”を大切にしてきた。
怒鳴る必要も、媚びる必要もない。ただ、人として真っ当な距離感
を築く。それが自分なりの営業だった。
けれど、気づけばそんなやり方が、会社の中で少しずつ場違いにな
ってきたように感じていた。謝罪と言い訳ばかりが押し寄せる日々。
信頼を築く時間も余裕も、誰も持っていない。
だから思ったのだ――もう、ここにしがみつく理由はないのかもし
れない。
陽が少しずつ東の空を染めはじめていた。蛍光灯の光に代わって、
窓のブラインド越しに朝の気配が差し込む。グレーに沈んでいた事務
所の空気が、ほんのわずかだが色を帯びはじめていた。
健太は深く椅子にもたれ、天井をぼんやりと見つめていた。
脳裏には、昨日までのことが断片的に浮かんでは消える。あの客の
声、ベンダーの曖昧な返答、上司の無表情なまなざし。そして、自分
の中の小さな声……「辞めてもいい」という、静かで確かな響き。
机の引き出しに手を伸ばし、社員証をそっと取り出してみる。それ
は身分証でありながら、まるで手錠のようにも感じられた。見慣れた
自分の顔写真を見つめていると、不思議な感覚に包まれた。これはま
だ「いまの自分」なのか、それとも「昨日までの自分」なのか。
しばらくして、健太は立ち上がった。
『辞めるなら、今日ではないかもしれない。でも…、もう誤魔化すの
はやめよう』
口に出さずに呟いたその言葉は、事務所の静けさに吸い込まれてい
った。
やがて、事務所の時計の針が、そろそろ七時を指そうとしていた。
誰もいない空間に、微かな秒針の音がただ規則正しく響いている。
そろそろ社員たちが出社してくる時間だ。この静けさも、間もな
く忙しない声や足音に塗り替えられていく。こんな朝早くからひと
り事務所にいることを、誰かに見咎められでもしたら、気まずい。
何か思いつめていると思われるのも、避けたかった。
健太は、ジャケットの内ポケットを確かめるように押さえたあと、
無言でドアへ向かった。
「モーニングでも食べてこよう」そう思った。近くのファミリーレス
トランで、熱いコーヒーと焼きたてのパンケーキ。軽く胃を満たして、
頭を少し冷やして、それから戻ってくればいい。九時前には課長が来
るはずだ。
まずは、昨日のクレームの件を――誤魔化さず、遠回しにもせず、
洗いざらい話すつもりだった。そのためには、今だけは少し、静かな
場所で自分の言葉を整えたかった。
そして健太は、車の中で携帯電話を睨みつけていた。
フロントガラス越しの朝日はすでに眩しく、けれどその光には、何
の温度も感じられなかった。
「……まったく、何考えてやがんだ。あんな上司に、十年以上、俺は
何を期待してきたんだろうな」
小さく声に出すと、それが思いのほか空しく響いた。
今朝、計画通りに課長にクレームの全容を話した。噓は一つもない。
むしろ、ありのままをぶつけた。それだけの覚悟も、勇気も持って
臨んだつもりだった。
けれど……返ってきたのは、想像を下回るほどの軽さだった。
「客がそう言うなら、ベンダーさんに行ってもらうしかないだろう」
呆れて言葉を失いそうになりながらも、健太は食い下がった。
「しかし、本当に素直に動くでしょうか? 何度も丸投げされてます。
今回も……」
「誠意だよ、誠意。誠意を尽くせば、人は応えてくれる。そういうも
んだよ、世の中ってのは」
『……誠意、だと?』
耳が信じられなかった。
信頼が前提の会話ならまだしも、そもそも誠意の通じない相手と今
まさに苦しんでいるというのに。まるで現実を知らない子どもが言う
ような、紙でできた処世術。健太は、その言葉の軽さに腹を立てるよ
りも先に、深く冷えきっていく自分に気づいた。
課長には、最初から何も期待しちゃいけなかったのかもしれない。
いや、それ以前に……もうこの会社に、何かを託す気力が、自分に
は残っていなかった。エンジンをかけたまま、しばらく車は動かない。
携帯電話の画面が暗くなっても、健太はずっと、それを見つめてい
た。
「しかし課長。もしベンダーが断れば、そのままのことを客先に連
絡しなければいけません。そうなると、客がベンダーに直接連絡を取
るのは目に見えています。悪くすれば、金銭的な要求をしてくるかも
しれません。そのときには……」
健太は、一拍置いて言葉を選んだ。
「うちに損害を請求してくる可能性が高いと思います。ましてや、今
回の客は…」
課長は、コーヒーのマグを机に置きながら小さく首を振った。
「まあまあ、谷川君。それは考えすぎだよ」
言葉の軽さに、健太は一瞬、何も聞き返せなくなった。
「ベンダーさんも鬼じゃない。ちゃんと誠意をもって接すれば、人は
応えてくれるもんだよ。世の中ってのは、そういうふうにできてる」
その上さらに、こう付け加える。
「それと、君ね、ベンダーさんを“呼び捨て”にしちゃいかんよ。あ
くまでお客さんなんだから。とにかく、まず連絡してみよう。話はそ
れからだよ。あんまり難しく考えなくていい」
健太の脳裏で何かがポッキリと音を立てて折れた。
この人は、何一つ現場を見ていない。いや、見る気がないのかもし
れない。誠意の問題ではないのだ。現実には「誠意を踏みつけて進む
人間」もいるのだ……と。
健太は、それ以上何も言うことができなかった。言葉にしてしまえ
ば、余計に空しさが増すだけだと思った。無言のまま課長席を離れる
と、足音を立てぬようにデスクへ戻った。
それから間を置かず、ベンダーに連絡を入れた。
……結果は予想どおり、「ただいま外出中です」という、定型の返答。
健太は電話を切り、ふと課長の方を見た。報告すべきか一瞬迷った
が、やめた。どうせまた、あの“誠意”という抽象的な言葉で片づけ
られるに決まっている……そう思うと、体の奥で言葉がすり減ってい
くような気がした。
会社を出て車に乗り込むと、ふたたびあの閉じた空間の中に戻った。
ドアを閉めた瞬間、わずかに胸が緩む。まるで外の喧騒と決別した
ような安堵。
ハンドルの前で、健太は黙って携帯電話を睨みつけていた。
『さて……どうする。このまま客に「連絡がつきませんでした」と報
告するしかないか。嘘はついていない。責任もない。筋としては間違
っていない。』
けれど、何かが胸につかえていた……釈然としない。
たしかに落ち度はない。けれど、“やるだけのことはやった”という
感覚にならない。何かひとつ、納得しきれていない自分がいる。
もしこのまま辞めるとして、せめて最後くらい、自分のやり方で終
わらせたい。誰に何を言われようとも、自分で納得できる形で……
ハンドルに手をかけたまま、健太は小さく息を吐いた。
目の前の道路には、会社とは関係のない無数の車が、ただ目的地に
向かって走り続けていた。
睨みつける携帯電話の画面には、通知のひとつも表示されていなか
った。それでも健太の視線は、画面を突き刺すように動かない。
「……行くしかないか」
思考が、決意へと変わる刹那、息を吸うのも忘れていた気がする。
『よし、行こう。ベンダーに乗り込む。いるかどうかなんて、もう関
係ない。あの担当者がそこにいるなら、洗いざらいぶちまける。いな
けりゃ……それで終わりだ』
次の瞬間、健太は手にしていた携帯電話を助手席に放り投げていた。
軽い音を立てて、黒い筐体がレザーシートに沈む。手を伸ばし、エ
ンジンキーを回す。車内にエンジンの震えが広がった。深くアクセル
を踏み込む。フロントガラスの向こうで、午前の光がぼやけて揺れた。
どこかで終わらせたい。でも、その前に、自分で線を引いておきた
かった。中途半端な“いい人”で終わるくらいなら、せめて最後に一度、
まっすぐにぶつけてみよう。車は、滑るように静かに走り出した。




