10.厄介な客
圭子と気まずい別れ方をしてから、もう十日あまりが過ぎていた。
あれ以来、圭子からは一度も連絡がなかった。メッセージの一つ
も、電話の一本もない。その静けさが、かえって心に重くのしかか
った。毎日、ふとした瞬間に圭子のことを思い出してしまう。
コーヒーの香り、バンドの帰り道、譜面の余白に書いた何気ない
言葉……記憶の断片が、やけに鮮明に浮かび上がってくる。
『これで、本当に良かったんだろうか……』
心の中で繰り返す問いが、日に日に苦くなっていく。あんなふう
に簡単に、断るべきじゃなかったんじゃないか。圭子は……ヒロシ
に、あの夜のことを話したんだろうか?そしてヒロシは、それを聞
いて……どう思っただろう。
考えれば考えるほど、自分が何に悩んでいるのかすら、分からな
くなっていた。
そんな悩みをかき消すように、唐突に現実が牙を剥いた。
恒例ともいえるクレームが舞い込んできたのだ。今回も、例によ
って弁当への髪の毛混入。だが、文面からはいつもとは違う空気が
漂っていた。ベンダーからの一方的な責任転嫁もさることながら、
今回は“相手”がどうやら普通の客ではなかった。
店に確認の連絡を入れた健太は、電話越しに感じる異様な緊張に、
思わず背筋を伸ばした。
「お客さん、ちょっと……普通じゃないみたいです」
受話器の向こう、店長の声はわずかに震えていた。
「詳しくは言えないけど……うちのスタッフ、顔が青ざめてまして」
店長の声は、明らかに抑えた色を含んでいた。
どうやら、相手は“特殊な職業”の人物らしい。誰も口に出そう
としないその正体は、言わずと知れた……反社会的勢力。
健太は、ひどく冷えた心で静かに息をついた。……ついに、来たか。
この仕事をしていれば、いつかはこういう人間と向き合う日が来る。
分かっていたはずなのに、胸の奥がずしんと重くなった。
圭子との関係に引きずられ、心のバランスを崩しつつあった今、こ
のタイミングで現実は容赦なく牙をむいた。
反社会的な客――その言葉を聞いたとたん、健太の背中にじんわり
と冷たいものが這い上がった。息をひそめるようにオーナーの言葉に
耳を傾けていると、さらに予想外の一言が続いた。
「どうも、今回は……容器の問題じゃないような気がするんです」
言葉を選ぶように、店長は続けた。
「髪の毛が、ごはんのなかに混ざってたらしくて。普通、そんなとこ
ろに入るもんじゃないでしょう?どう考えても……容器屋さんのせい
には、できないですよね」
健太は一瞬、返答に詰まった。
「……はぁ……」
思わず健太の相槌が曖昧になる。
「ベンダーさんにも、来てもらったほうがいいかもしれませんね」
「……わかりました。私の方から連絡してみます」
そう返事をしながらも、胸の中ではもう諦めに近い予感が渦巻いて
いた。
案の定、岡には連絡がつかなかった。不在、というより――どうせ
また居留守だ。何度となく繰り返されたこの手の“逃げ”に、健太は
もう何も期待していなかった。
この頃、岡のことを心底信用できなくなっていた。いや、正確に言
えば、信じようとする気力すら失いかけていた。
「……結局、また俺ひとりか」
独り言のように小さくつぶやき、健太はジャケットのポケットに手
を突っ込んで、ゆっくりと客先の住所を確認した。胃のあたりがじわ
りと重くなっていく。けれど、行かなければならなかった。誰も来な
いなら、自分が動くしかない。
客先の家は、郊外の落ち着いた住宅街にあり、門構えからして異様
な存在感を放っていた。黒く塗られた鉄の門、背の高い生垣、そして
重厚な木造建築。和風であるにもかかわらず、どこか空気が冷たかっ
た。
インターホンを押すと、すぐに返事はあったが、声はなく、カチャ
リと門が自動で開く音だけがした。その無言の“招き入れ”が、すで
に通常のやりとりではないことを告げていた。
玄関先までの石畳を歩く間、左右の植栽の整いすぎた静けさが、健
太の背筋をひやりとさせる。やがて、濃紺の作務衣を着た壮年の男が
現れた。無表情で一礼し、何も言わずに健太を家の中へ導いた。使用
人なのだろう。
廊下を抜けて案内されたのは仏間。襖をすべて開け放った広間に、
黒光りする仏壇が重々しく鎮座していた。畳の香と、ほんの微かに漂
う線香の残り香。天井から吊るされた金具の鈴が風もないのにカラン、
と揺れる。
「……仏間か」
健太は息を飲んだ。
ここに通されたのは、“試されている”のだとすぐに悟った。訪問
者に対し、まず礼節を示せるか。そういう空気だ。
仏壇に手を合わせるのは、単なる形式ではなく、“ここに入る資格
があるか”を測られる行為だった。
健太は深く頭を下げ、ゆっくりと線香を一本立てた。手を合わせる
間、背後の静寂が、逆に耳を刺してくるようだった。
三十分以上が経過した。無言のまま過ぎる時間は、尋常ではない。
空腹も、気温も、すべての感覚が鈍くなっていく中、ようやく呼ばれ
た。
次に通されたのは応接間。今度は畳ではなく、無垢材の床に分厚い
カーペットが敷かれ、洋式の重厚な応接セットが据えられていた。壁
には書が掛けられ、観葉植物が静かに葉を震わせている。
その中央、ソファに腰掛けていたのは、一人の壮年の男だった。
短く刈り込まれた髪、血色のよい肌、そして眼光の鋭さ。明らかに
“ただ者”ではなかった。
健太は、これまで通りに菓子折りを差し出すと、まずは深く頭を下
げて謝罪の言葉を口にした。本音を言えば、自分の側にも言いたいこ
とはいくつかあった。だが、客は金を払って商品を手にしている以上、
ここで反論するのは得策ではない。
誤りを認め、低姿勢を貫く……そうやって、これまでも難しい場面
をなんとか切り抜けてきたのだ。
だが、目の前の客は、これまでのどの相手とも違っていた。
健太が定型のように謝罪を重ねても、男は微動だにせず、ただじっ
と黙っていた。まるで言葉の重さを測っているかのように。
言葉を尽くしたつもりだった健太の口から、自然と言葉が切れたと
き……沈黙を割るように、その男がゆっくりと口を開いた。
「……話は、それで終わりですかな?」
その言葉には鋭さはなかった。むしろ静かで、驚くほど穏やかだっ
た。だが、その声音がかえって場の空気をひき締めた。
「今日買った弁当さ、これで三回目なんだよ」
男は低く、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「最初は……まあ、人の手で作ってるもんだ。髪の毛の一本ぐらい、
あるかもしれんと思ったよ。気にしないようにした。二度目のときは
正直、うん?とは思ったが、それでも何も言わなかった。我慢したの
は、俺にしては珍しいことだったな……だけどな、三回目だよ。いく
らなんでも、おかしいと思わないか?」
言い方は柔らかくても、その言葉の背後にある苛立ちは明白だった。
「だから、今日は直接店に足を運んだわけだ……髪の毛が三回も続け
て弁当に入っていりゃ、誰だって言うだろうよ」
健太は、ただ頷くことしかできなかった。
よりによって、三回目の“地雷”を引き当てたのが、自分の担当分だ
ったとは。不運だといえばそれまでだが……この場の空気は、そんな
言葉で片づけられるほど甘くはなかった。
応接間の照明が、健太の額の汗を薄く照らしていた。声を出す余裕
もなく、彼は黙ったまま男の言葉に耳を傾け続けた。
「それで、おたくが来たわけだ。おたくの言い分は分かった。だが…
納得がいかないんだな」
低く穏やかな口調だったが、その最後のひとことには確かに圧がこ
もっていた。
健太は、かすかに身じろぎした。
「え、どういった点が……?」
声がわずかに上ずった自分に気づき、健太はあわてて背筋を正す。
「とぼけなさんな」
男の目が鋭くなる。
「おたくにも、分かってるんじゃないの?」
その一言で、応接間の空気が変わった。
天井の照明が妙にまぶしく感じられ、健太は首筋に伝う汗を感じた。
「そ、そう申されましても……」
かろうじて絞り出したその声は、あまりに頼りなかった。
健太の頭の中で、警告音のように思考が高速で回り始める。
……やはりそうきたか。これは、金の話になる流れか。
いや、まだ断定はできない。下手に動けば火に油を注ぐ。ここは
慎重に、何が欲しいのか、相手の出方を読むしかない。けれども、
男の目は、明らかに試していた。
謝罪では済まされない何かを、求めているようだった。
「おたくは、今回の件の原因をどう考える?」
男の問いかけは柔らかな口調だった。だがその目は、まるで答え
の選択肢をすでに知っているかのような静けさを帯びていた。
「……先程も申し上げましたとおり、私どもの工程中に、何らかの
ミスで容器に混入したと思っております」
健太は、できるだけ淡々と答えたつもりだった。だが、言葉の硬
さが自分でも気になった。
「違うな」
その一言には、明確な断定があった。
「まあ、仮にそうだとする。……なら、なぜ白米の中に髪の毛が入
っていた? 容器の製造中に入り込んでいたなら、髪の毛は底に沈
んでるはずだろ? これは容器の問題じゃない。白米を容器に詰め
るとき、あるいは白米そのものの仕込みの段階……どちらかだ」
健太は、顔から血の気が引いていくのを感じた。あまりにも的確
すぎる指摘だった。工場のラインを少しでも見知っていなければ、
この発想は出てこない。
『なんだ……この人間は?』
胸の奥で、疑念が膨らむ。
明らかにただの苦情客ではない。口調こそ静かだが、会話の運び
方、知識の深さ、言葉の切り出すタイミング……
あらゆる要素が、“こちらの出方”を試しているように思えた。
健太の掌は、じっとりと汗ばんでいた。会話はまだ続く。だが、
この先は謝罪だけでは切り抜けられないかもしれない。そんな予感
が、背中にひたひたと迫ってくるのを感じていた。
男は険しい顔つきのまま健太を見据えていたが、ふいに吹き出す
ように笑った。
健太は、思わず身をこわばらせた直後だったこともあり、笑い声
に反応できなかった。ただ黙って、次の言葉を待つ。
「なんで俺が、こんなに弁当の話に詳しいと思う?」
目線はそのまま、声だけが落ち着きを取り戻していた。
「実はな……うちの若いのがな、以前どこかの弁当製造工場で働い
てたことがあるらしくてな。そのせいで、こういう異物混入のクレ
ームってのを、何度も見てきたんだとさ」
男はそこまで言って、仏壇の方へちらりと目をやった。
「そいつが言うには、これは“容器屋じゃなくて、中身を作ってる
会社の責任だ”って……でな、小さいクレームは、たいてい下請け
のせいにして、自分らは出ていかない。そういうやり方してるとこ
ろ、多いらしいな」
言葉は柔らかくなったが、皮肉の刃先は鋭くなっていた。
「俺はね、曲がったことが嫌いな質でな。誰がやったか、それを曖
昧にして済ませるようなやり方は、性に合わねぇんだよ」
男は腕を組んだまま、じっと健太を見据えた。
「……だから言いたいんだ。なんで、実際に弁当を作ってる当の業
者が、ここに顔を出さない? おたくは、単なる容器屋さんだろう」
その言葉には、糾弾でもなく怒声でもなく、ただひたすら“筋を通
せ”という静かな圧がこもっていた。
健太は、視線を落としたまま、何も返せなかった。
確かに、自分の会社は容器を供給しているだけだ。けれど、ベンダ
ーの岡がこうした事態に一切責任を負わず、押しつけるように沈黙を
決め込んでいる現実が……いま、誰よりもこの男の目の前で、如実に
突きつけられていた。
「一応、連絡は入れたのですが……不在とのことで。こちらからの伝
言は通っているはずです。連絡が取れ次第、私の方へ直接電話をもら
うことになっております」
言いながらも、健太の声には、どこか歯切れの悪さがにじんでいた。
連絡が返ってくる望みなど、もうとうに薄れていたのだ。
「……でも、電話はまだきていないんだろう?」
男は穏やかな語調のまま、言葉を切らずに続けた。
「いや、責めるつもりじゃない。俺はむしろ、おたくのことは気に入
ったんだよ」
その言葉に、健太は一瞬、拍子抜けしたような戸惑いを覚えた。
「さっきな、仏間で待ってもらっただろ? ちゃんと線香をあげて、手
を合わせてくれた。あれを見てな、ふと懐かしくなったんだよ」
男は視線を少し遠くに向けた。
その眼差しの奥に、年輪のようなやわらかさが滲んでいる気がした。
「今どき、見ず知らずの家の仏に手を合わせるやつなんて、そういねぇ。
……昔は、それが当たり前だった。日本人だったら、自然とそうしてた
もんさ」
仏壇に手を合わせるという、ただの所作が――この男には、信頼を決
める材料になったのだ。言葉のひとつひとつに、筋を通すことと人の礼
節を重んじる、その“流儀”がしっかりとにじんでいた。
「だからな……俺はおたくを信用することにした」
その言葉に、健太は一瞬言葉を失った。張り詰めていた空気が、すこ
しだけ緩むのを感じた。けれどその分、ここでの応対を間違えば、すべ
てが裏返ることも直感していた。
「それは恐れ入ります」
健太はぎこちなく頭を下げた。相手からの思いがけない称賛に、どこ
か気まずさすら感じていた。
「おたくさ、今日の件……押し付けられたんじゃないの?」
まっすぐな問いだった。その声音に悪意はない。だが、逆にその“静か
さ”が真実を鋭く突いてくる。
「いえ、そんなことは……」
そう言いながらも、心の奥で健太は驚きに息を詰めていた。
……見抜かれている。
「おたく、利用されてるんじゃないの? その……弁当を作ってる会社
に」
やわらかく、それでいて逃げ道を与えない言い方だった。
「いえ……そんなことは……」
同じ返事を繰り返しながら、言葉がどんどん軽くなるのを、健太自身
が感じていた。嘘は言っていない。だが、本当のことも言っていない。
「まあ、いいよ。おたくにも、言えることと、言えないことがあるんだ
ろう」
男はふっと息を吐いた。あくまで抑制の効いた口調。
「とにかく、俺としてはおたくの責任だとは思っていないよ」
一転して、穏やかともとれるその言葉に、健太はかすかに安堵しかけ
た。だが、続いた言葉に、空気の向きが再び変わった。
「で……迷惑ついでと言っちゃなんだけどさ、頼みがあるんだよ」
一拍、間を置いて、健太は思わず体をかすかに前傾させた。
「……はい。何でしょうか?」
自分の声がわずかに乾いているのが分かった……なにかが、想定と違
う方向へ進み出している。
「もう一度だけ、弁当の製造会社に連絡をとってほしい」
淡々とした声だったが、その語尾には“譲れないもの”があった。
健太は即座に返事ができず、わずかに唇を結んだまま黙りこんだ。
「心配せんでいい。おたくの会社には面倒はかけない」
男は、健太の表情の揺れを察してか、やや穏やかに続けた。
「俺は、原因をつきとめたいだけだ。容器屋さんが顔を出したんだから、
中身を作ってる側が来ないのは、おかしいって話だろ?」
理屈はまっとうだった。反論の余地はない。
「しかし……連絡がつくかどうか……」
健太は苦しげに言葉を探しながら口を開いた。
「担当の方が、よく出払っておりまして……」
言いながら、自分でも虚しさを覚えていた。
“居留守”。そう分かっているのに、それ以外の言い方ができなかった。
男はそれ以上責め立てることなく、ふっとため息をついた。
「わかった。じゃ、こうしてくれ」
「おたくは、その担当者に連絡をして、俺に電話するように伝えてくれ
ればいい。そして、連絡したことを俺にも電話で知らせてくれ。それだ
けでいい。あとの段取りは、こっちでやる」
健太は、拳を無意識に握りしめた。
そこに、必要以上の優しさも、敵意もない……ただ、筋を通そうとす
る人間の確かな“やり方”があった。
それでも、心の中にはまだ小さな不安が残っていた
「……もし、万が一、連絡がとれなかった場合は……どうすれば……」
声が自然と小さくなる。喉の奥が渇いていた。男の眼差しは変わらず
静かだったが、その奥には「次の一手」をすでに用意している気配があ
った。
「その時は、あとはこっちでやるよ。……心配せんでいいよ」
男はそう言って、ふっと口角を緩めた。笑みのようでいて、どこか底
が見えない。それは安心ではなく、「ここから先は俺の領分だ」という
無言の宣言のようでもあった。
「まあ、ひとつだけはっきりしたのはね。おたくの会社に責任はないっ
てことだ」
健太は、その言葉を胸の奥で反芻した。安堵のようなものがよぎりか
けたが、それがすぐに別の感情とすり替わっていくのを感じた。
「今日はご苦労さんでした。もう帰ってもらって結構ですよ。ただし約
束は、忘れないように」
言葉に刺はなかったが、釘を刺された感覚が残った。
男は上着の内ポケットから、迷いなく名刺を一枚取り出し、健太に差
し出した。
「これが連絡先ね」
その名刺は、まっすぐ健太の手に収まった。印刷された文字よりも、
そこに込められた眼差しのほうが、何倍も重たかった。
……大変なことになった。
健太は、そう思った。口には出さず、名刺を静かに名刺入れに収めな
がら。




