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彼方からの風  作者: 杉本敬
第1章
1/18

1.披露宴

「はぁ」と、谷川健太はバス停で深いため息を漏らした。

薄い黄色のセーターに、使い古されたブルージーンズ。足元には、

長い一日の疲れを物語るようなスニーカー。手には、祝儀袋がしっ

かりと握られている。再び「はぁ」と、彼はため息をつくと、しば

らく足踏みした後、バス停を後にして歩き出した。

街には満開の桜が咲き誇るのに、その美しさにすら気を留める様

子はなかった。むしろ、足取りは重く、心の中で何かを呟くかのよ

うにトボトボと進んでいく。


 健太が向かう先は、あるホテルの結婚式場だ。バス停から徒歩で

約10分ほどの距離に位置する。しかし、健太の私服、すなわち薄

黄色のセーターにブルージーンズというカジュアルな装いからは、

晴れ舞台に参加する雰囲気は全く感じられない。実は、彼はその手

にしっかり握りしめた祝儀袋を、誰かに手渡すつもりである。


『やっぱり、送っておくべきだったのかな。だってお祝金だし、手

渡すのが当然だよな。それに、あいつらとは普通の関係じゃないし、

しかし顔合わせも気が引ける』

 そう考えながら、健太は再び「ふぅ~」と大きなため息をついた。

そのため息はあまりにも大きく、すれ違う人々まで振り返らせるほ

どだった。


 やがてホテルに到着した。

 健太は入口のドアの前で足を止め、意を決したかのように中へと

足を踏み入れた。室内に入ると、彼は周囲を見渡した。タキシード

や礼服をまとった男性たち、そしてきらびやかなドレスに身を包ん

だ女性たちが、華やかな雰囲気を醸し出していた。来賓客の数も、

想像以上であった。

「さすがヒロシだな。来賓の数も、半端じゃない……」

 健太は感心とともに、静かに呟いた。

 実は、今日行われる結婚式は、かつてのバンド仲間である長谷川

ヒロシと神田圭子のものだ。ヒロシは大企業の営業課長として知ら

れており、その人脈を活かして、来賓客数は抜群に多くなっている。


 健太はホテルの受付へと向かった。

 受付に立っている、にこやかな笑顔の女性に訊ねると、「すみま

せん、今日結婚式があると聞いているのですが……たしか、長谷川

家と神田家の……」

と躊躇いながらも声をかけた。すると、女性は手際よく答えた。

「あ、それでしたら30階でございます。高層階専用の右手側のエ

レベーターにお乗りください」

 受付の女性は端的かつ丁寧に対応し、健太はその言葉に礼を述べ

ると、指示通りエレベーターへと向かった。確かに、エレベーター

のドアには【高層階専用】と記されていた。


 エレベーターのドアはすぐに開き、健太は結婚式に出席する来賓

客たちと共に乗り込んだ。専用エレベーターのためか、30階への

到着は瞬く間であった。降りた健太は、エレベーターを出るや否や、

すぐに柱陰へ身を潜め、辺りを鋭く見渡した。そして、受付を発見

すると、思わず天を仰いだ。


 『最悪だ…受付に純子がいるなんて…どうして親族が受付を任さ

れてるんだ?』

 健太は祝儀袋を受付に預け、さっさと帰ろうかと考えた。しかし、

そこにいたのは長谷川純子、いや、今は結婚して吉武純子となって

いる彼女だった。純子はヒロシの妹でもあり、健太とはかつてのバ

ンド仲間であると同時に、彼が以前勤めていた会社の後輩としても、

非常に濃い付き合いがあるのだ。


 それだけならまだしも、実はわずか2週間前、健太と純子は電話

越しに激しく口喧嘩したのである。その争いの火種は、今日の結婚

式への出欠についての意見の相違だった。

 純子は、健太に対して結婚式には出席すべきだと決して譲ろうと

はしなかった。一方で、健太もまた「出席しない」と固く意見を曲

げず、両者とも譲らない頑固さが浮き彫りになっていたのだ。

 では、一体なぜ健太は結婚式に出席しないのか…その理由は、後

からじわじわと明らかになっていく。


「ともかく、受付に純子がいる以上、祝儀袋を手渡すわけにはいか

ない。ましてや、純子が素直に受け取るとは到底思えない。どうせ

また口論に発展するに決まっている……どうすべきか…」

 健太は、純子と顔を合わせること自体が、まことに嫌だった。

 柱の影に体を潜めたまま、彼は頭の中でさまざまな手立てを模索

していたが、どうにもいい案が浮かばなかった。


「純ちゃん、お待たせ!これで大丈夫だよね?」

 聞き慣れた声が、健太の耳に突き刺さるように届いた。

『ん?淳之介だ!これは絶好のチャンス!』

 その瞬間、健太の足取りはふと軽くなった。

「遅いよ、淳之介!席次表を持ってくるだけだって頼んだのに、い

ったいいつまでかかってるの!」

 純子は淳之介に向かって、少々怒りを含んだ口調で詰め寄る。

 一方で、淳之介はへらへらと笑いながら、軽く頭を掻いている。

「いやぁ、戻る途中でヒロシさんに会って、ついつい話し込んじゃ

って…そんなん、怒らないでよ」


 なお、淳之介と純子は正式に夫婦となっている。しかし、傍目か

ら見てしまえば、まるで姉弟のように映る。しっかり者の姉に対し

て、どうも出来の悪い弟という印象だ。さらに、ふたりには子供が

いる。いわゆるできちゃった婚というのが、その実態である。健太

は、ふたりが結婚するという話を耳にした際、その事実に到底信じ

られない思いを抱いた。


 そんなふたりが、今、結婚式の受付を担当していた。淳之介は依

然として純子から小言を浴びせられている様子だ。

『こんなところにいつまでも突っ立っているわけにはいかない。と

にかく、祝儀袋を早く渡さなければ…どうにかして、あいつに渡せ

る方法はないものか…』

 健太は、受付で繰り広げられる淳之介と純子のやり取りを、少し

イライラした表情で見つめていた。

「じゃあ、次はこの電報を仲人さんに渡してきて」

 ようやく、淳之介は純子の束縛から一息ついたようだ。別の用件

が告げられたのだ。

「仲人さんに渡せばいいんだね。わかった」

「今度は、油売ってくるんじゃだめよ。やるべきことは、ほかにも

たくさんあるんだから」


 淳之介は、純子から受け取った数通の電報を片手に、受付から離

れていった。幸いにも、彼は健太の潜んでいる柱の方へと歩いてく

る。

『今だ……!』

 健太は息を殺して待ち構えた。

 だが、淳之介は彼の存在に気づかぬまま、通り過ぎようとする。

「……淳之介」

 思わず声が漏れた。

 その声に、淳之介は立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回す。

「こっちだよ、ここ!」

 健太が低く呼びかけると、ようやく淳之介の視線が柱の陰に向い

た。


 健太がふたたび声をかけると、淳之介は驚いたように顔を向けた。

「健さん!」

「しっ……」

 健太は素早く人差し指を口に当てると、手招きした。

 淳之介は小走りで近づいてくる。

「健さん……やっぱり来てくれたんすね」

「違うよ」

「早く着替えないと。もうすぐ披露宴が……」

「だから、違うって。これを渡しに来ただけだ」

 健太はそう言って、胸元から祝儀袋を取り出し、淳之介に差し出

した。

「えっ……じゃあ、本当に……」

「……すまない」


 淳之介は、苦悩の色を浮かべたまま黙り込んだ。

 そんな彼に、健太はどこか後ろめたさを帯びた声で言う。

「悪いが……これを、ヒロシと圭子に渡しておいてくれ」

 そう言って、祝儀袋を差し出す。

 淳之介は戸惑いを隠せないまま、それを受け取った。手の中の封

筒が、やけに重く感じられる。

「健さん……もう、前みたいにみんなで集まることは……バンドは、

もう……できないんすか」

 問いかけながら、どこかにまだ希望を託しているようだった。

「……俺には、わからない」

 健太の言葉は、ためらいと諦めの間を揺れていた。

「健さん……」


「ほら、忙しいんだろ。また、純ちゃんに怒られるぞ」

「見てたんっすか……」

「まあな。じゃ、俺行くわ。すまんが、頼むな」

 健太は泣きそうな表情の淳之介をそのままに、エレベーターへ向

かった。その後ろ姿を純子はチラッと見た。そして呟くように言っ

た。

「あのバカ……」

 純子は知っていた。柱の影に健太がいたことを。








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