6.夜の森
カダヴルの断末魔が暗い森に響き渡る。
カイルは死骸に突き刺さった剣を無造作に引き抜くと、物言わぬ骸となったカダヴルをみた。
カイルは「やはり」と独り言ちる。
今日は可怪しなことばかりが続いていた。
カダヴルの異常な量も、森に響く地響きも。
今までになかったことだ。
森に入ってその違和感の正体が明確になる。
『死の森』全体がどこか浮き足立っている。
森にいる生物全てが興奮しているようで、そわそわと落ち着きがない。
普段滅多に見ることのできない生き物さえ今日はよく見かけている。
草陰からこちらを窺うような無数の視線を感じてカイルは眉を顰めた。
どれも敵意はないが、歓迎もされていない。
監視するような視線は森に入ってからずっと続いている。いい加減不快だな、と苛立ちを逃すようにカイルは深い溜め息をついた。
森の中を宛もなく歩き続けたが、あの地響きの原因となるような痕跡は見つからなかった。
無駄に戦闘を繰り返して、流石のカイルも体力の限界を感じる。
月が真上に登り、夜が更けてから随分経つ。
そろそろ潮時か、と首を巡らした時。視界の端に何かが引っ掛かった。
首を傾げてよくよく目を凝らせば、それは布切れのようであった。黒い布は粗く千切れている。そっと手に取ると夜露に濡れてじっとりと冷たい。
「…人がいたのか?」
言葉にしてみたものの、俄には信じられなかった。
この森に近づく者は自殺志願者くらいだ。いや、それさえも近づきたくないと言わしめる程に、この国の人間にとってこの森は悍ましい場所の筈だ。
疑念を抱きながら注意深く周囲を観察すると、所々不自然に枝が折れている。
何かが逃げていた跡のように見え、やはり人が森に入ったのだろうかと首をひねる。
「どこの命知らずだ?」
カイルは呆れた。
森がざわついていた理由の一端は恐らくこれだろう。なんともしょうもない理由だと嘆息する。
生きているとは思えないが、放置するわけにもいかないので、枝が折れている跡を追うように奥へと進んだ。
どれくらい進んだだろうか。
ふと開けた場所に出たカイルは、その光景に息を呑んだ。
まず目に飛び込んできたのは大きな木の根元に転がるカダヴルの死骸だ。奴の血で作られた池に無惨な姿で横たわっている。そのあまりの酷さに思わず眉を顰めたカイルは、次の光景を見て目を見開く。
そこには一匹のネルヴィとひとりの少女がいた。ネルヴィは体を丸めて少女を守るように眠っている。
カイルは無意識に足を一歩踏み出していた。
それにネルヴィが敏感に反応する。緩慢に頭を擡げるネルヴィを見て、カイルは瞬時に身構えた。
金色の瞳がカイルを射抜く。別名『強きもの』の名に相応しい体躯と、強者ゆえの余裕。ネルヴィの瞳はカイルの心を見透かすような理知的な光を宿しており、凡そ獣とは思えない理性を感じた。
糸をピンと張り詰めた緊張感が場を満たす。
カイルもネルヴィも微動だにしなかった。
カイルの掌にじわりと汗がにじみ始めた頃、じっとカイルの瞳を覗き込んでいたネルヴィの視線が緩んだ。唐突にカイルへの興味を失うと女性の膝に頭を預け、再び瞼を閉じる。
一触即発の緊張感から解放されたカイルは全身の力を抜いた。冷や汗が顎を伝って落ちる。ネルヴィに襲われたら、いくらカイルでも無事では済まなかっただろう。
理由はわからないが、逃げるならネルヴィの興味が逸れた今しかない。
そう冷静に判断するのに、どうしてだか足が動かない。
カイルはネルヴィに包まれるように眠る女性をみた。彼女の姿にどくりと心臓が脈打つ。
カイルはどうしてだか無性に彼女が気になった。それはネルヴィに襲われるかもしれない恐怖をも凌駕する強い欲求だった。
ジェイクがいたなら正気とは思えないと泡を吹いていたかもしれない。
ネルヴィを警戒しながら少しずつふたりに近づく。ネルヴィには気づかれていただろうが、奴はずっと眠り続けていた。時間をかけて傍に寄ると、ゆっくりと膝を折る。
女性は眠っていた。
小さな寝息が淡く薄付く唇から漏れている。血色の薄い肌に薄っすらと隈があるところを見ると疲労が濃いのだろう。
長く黒い繊細な睫毛が頬に影を落とし、艶を放つ絹糸の様な黒髪は、彼女の肩から双丘へ柔らかな曲線を描いている。
瞼に隠された瞳を見てみたいと思った。
カイルはカダヴルの血脂で汚れた手袋を外すと、そっと彼女のまろい頬を指の腹で撫でた。
よほど深く眠っているのだろう。
寝息を立て続ける姿にカイルの中で言いようの無い感情が湧き上がってくるのを感じた。
「…失礼」
彼女の膝裏に腕を入れて揺らさないようゆっくりと抱える。
彼女の膝に頭を預けていたネルヴィは、当然だが彼女を抱えたことで寝ていられずに起き上がった。
カイルは不思議ともうネルヴィに恐怖を感じていなかった。実際、起こされたネルヴィはカイルを襲うことなく静かに座って二人を見ている。
抱えた彼女が眠りやすいように自身の胸元へ抱き寄せると、頬に当たる甲冑が不愉快だったのか彼女の眉間が少しだけ寄せられた。
(何か包めるものを持ってくるべきだったな)
カイルはここ数年で一番後悔した。
先程はネルヴィの頭が乗っていて気が付かなかったが、抱き上げてみると、ドレスの裾が異様に短い。無防備にも脹脛から下が丸見えである。そのうえ、脚を覆う心許無い薄い布はところどころ破れており、彼女の地肌を晒している始末だ。
彼女の姿を他の男の目に晒すのだけは、どうしても許容できない。
それがどうしてだかわからないが。
(…あまり気は進まないが、俺のシャツを使うか。血で汚れたものを彼女に触れさせたくはないが…)
ないよりはマシだろうと結論づける。
「さて、帰り道を案内してくれないか」
彼女を抱きかかえるとともに起き上がっていたネルヴィに言う。
その頃にはネルヴィと疎通が取れることをカイルは疑わなかった。
「今の彼女に必要なものは、ゆっくり休める安全な場所と清潔な寝床に、栄養のある食事だ。違うか?」
感情の見えない金色の瞳がカイルを見つめる。やがてゆるりと尻尾を振ると、ネルヴィは城に向かってのそりと歩き出した。




