2.森の中
目が覚めるとそこは鬱蒼と生茂った森の中だった。
痛む頭に顔を顰めながら日向は必死に記憶を手繰り寄せる。
(確か火葬場にいて。外の空気が吸いたくなって。…えっと、どうしたんだっけ)
ズキズキと痛む頭に思考が淀む。
空に昇る煙をみていた気がする。蝉が凄く鳴いていて…。それ以降の記憶がない。
うんうん唸っていた日向は、はたと我に返る。
「……ここ、どこ?」
寝起きでぼんやりしていた頭が急激に覚醒していく。
人工物らしいものが何一つ見当たらない景色に、日向の頭の中に樹海という文字が頭を過った。
明らかな異常事態に冷たい汗が流れる。
誘拐、拉致、もしくは人攫い。
同じ意味の単語が頭を巡る。
いつかみた事件のニュースがフラッシュバックした。
自分でこんな所に来た覚えはない。
直前の記憶が曖昧なのは変な薬で眠らせられて連れてこられたせいでは?
じわりと恐怖が込み上げてくる。カタカタと震える指先をきゅっと握り込んだ。
日向がここにいる理由は分からない。しかし、故意でなければ、こんな山奥にひとり倒れているはずがないことだけは確かだ。
例えば、一人でいる所に目をつけられて、何らかの方法で日向を気絶させたあと、この樹海に連れてきた、なんてことはないだろうか。
(そうだとしたらここに居続けるのは危ないんじゃ…)
もし犯人の予定よりも早く目が覚めたとしたら、このチャンスを逃したら今度こそ殺させるかもしれない。
自分が無惨に殺される姿を想像して血の気が引く。
こうしている間にも犯人がこちらに向かっているかもしれないと考えると居ても立っても居られなくなった。
早くこの場から逃げなければという焦りに急き立てられる。
右は薄暗い。左も同じく薄暗い。前も薄暗いがちょっとだけ視界が広い、気がする。後ろは大きな木が倒れていて進むのさえ無理。
(前に行こう)
消去法で前に進んでいく。
喪服用のパンプスは薄く、防御力に欠ける。時々腐った木や落ちている木の実を踏んでしまい、その都度地味な痛みに足裏を襲われた。
どれくらい歩いただろうか。
進んでいる筈なのに景色が変わらないため同じ場所をぐるぐるとしている気分だ。
平坦な道にくらべ凹凸や障害物が多い分、体力の消耗も激しい。
息を切らしながら折れそうになる心をなんとか鼓舞して前に進んでいた日向の耳に、聞き慣れない音が混じった。
疲労のせいで薄れていた恐怖心が頭を擡げる。
もしかして犯人と鉢合わせしてしまったのだろうか、と恐怖に強張る身体をなんとか背の高い草叢へ忍ばせる。
草の影からそっと周囲を窺う。
目を凝らした先にようやく少し開けた場所があることに気が付いた。
どうやら不思議な音はそこから聞こえているらしい。
踵を返すべきかどうか日向は迷った。
頭の中では警鐘が鳴り響いている。だが、もしも普通の人だったら?
こんな森の中、そう簡単に人に出会えるはずがない。もしもこの人がたまたま仕事とかでここにいたのだとしたら、せっかくの貴重な機会を不意にしてしまう。
(確認するだけ。危なそうな人だったら気づかれないように戻ればいいんだから)
結局、僅かな希望を捨てきれなかった。
いつもであればもう少し慎重な行動が取れていたはずだ。だがこのときの日向は早く開放されたい気持ちが強く、冷静でなかった。
ゆっくりと音の方へ近づくにつれて音がより鮮明になっていく。
ぐちゃぐちゃという粘着音に鼻を突く異臭。
流石におかしいと思うのに、なにかに取り憑かれたように近づいてしまう。
警鐘は最早、轟音になっていた。
開けた視界の先、『それ』はいた。
『それ』は何かを一心不乱に貪っている。
飛び散る肉片と鮮血。原型を留めていない肉塊に鼻先を突っ込んでぐちゃぐちゃと食い散らかしているのは見たこともない獣だった。狼よりも大きな体躯は黄土色の毛に覆われていて所々赤黒く固まっている。爪は長く鋭利で、ぐわりと開けた口にはびっしりと歯が生えているのが見えた。時折ボキッゴリッと硬いものを噛み砕く音が聞こえてくる。
パキリ。
小さな音にビクリと体が跳ねる。
足の裏に感じた僅かな衝撃。そろりと落とした視線の先。無意識に後ずさった足が、小さな枝を踏んでいた。
どっと全身から汗が吹き出す。
先程まで聞こえていた音が止んでいる。
恐る恐る戻した視線の先。
『それ』がこちらを見ていた。




