11.複雑
「…どうしよう」
日向は困っていた。いや、困っているというと語弊がある。どちらかと言えば戸惑っているというほうが正しいのかもしれない。
日向がこの屋敷にお世話になって早半月。
日向は、もしかするとこの世界は自分の知っている世界とは違うかもしれないと薄っすらと思い始めていた。
まず、この屋敷の人たちはあまりにも前時代的というか原始的な生活を営んでいる。例えば部屋の明かりは蝋燭を使用しているし、髪を乾かす時もドライヤーは使わずタオルドライで時間をかけて乾かしている。シャワーなんてものもなくて、大きな盥にどこからかお湯を持ってきては手作業で満たすことが普通のようだ。他にも、服は必ずドレスを準備されるし、屋敷の人が出かけるときに車じゃなくて馬車で出かける。
自分でも正気ではないと思う。だが、数百年前にタイムスリップしたのではないかと本気で思うほどこの屋敷には科学の気配がない。
それに、森で出逢った見たこともない獣。あれも教科書やTVでも見たことがないものだ。考えれば考えるほどタイムスリップ、もしくは、異なる世界にいるのではないかと思えてくる。
だが目下の問題はそこではない。
手持ち無沙汰に屋敷の中を彷徨く日向の脚に、黒豹がじゃれつくように尻尾を絡ませながらついてくる。最初は恐ろしかった黒豹も、毎日、四六時中一緒にいると流石に慣れた。穏やかな性格なのか暴れることもない。何故か日向の傍を離れようとせず、懐かれていると思えばだんだん愛着も湧いてくる。今ではこの屋敷で一番安心できる存在だ。
「あっ!」
廊下の向こうから一人の女性が歩いてくるのをみて日向は咄嗟に駆け寄った。手には重そうな荷物を抱えている。
「あ、あの。お手伝いさせてください」
女性が持っている荷物の一つを受け取ろうと伸ばした手は僅かな動作で避けられた。女性は何事か話すと、にこりと笑ってどこかに行ってしまう。それを呆然と見送る日向はくしゃりと顔を歪めた。
「なんで…」
この屋敷にきて半月間。日向は何もさせてもらえていなかった。
この屋敷の人たちはみんな優しい。言葉が通じない日向に呆れるでもなくコミュニケーションを取ろうとしてくれるし、過保護なくらい日向が困らないように気を配ってくれている。
だが、働こうとするのだけは許してくれないのだ。
衣食住の全ての面倒をみて貰っているのに何もしなければ罰が当たる。働かざる者食うべからず。申し訳無さと罪悪感に居心地が悪くて、せめて何か仕事をさせて欲しいと働いている人をみつけたら行動で手伝う意思を示すのだが、その全てが断られてしまう。
犬でさえ三日養えば三年恩を忘れないと言われているのに、計らずとも日向は半月も養ってもらって一つも恩を返せていない恩知らずだ。
「仕事…、なんでもいいから仕事したい」
このままでは罪悪感に押し潰されてしまう。
次は調理場に行ってみようと数日前に覚えたばかりの屋敷の構造を思い出しながら徘徊する。もうすぐお昼だからきっと何か仕事があるはず。野菜の皮剥きとか、お皿洗いとか、たぶん。昨日も同じことをして追い返されたけど、今日はもしかしたら人手が足りないとかあるかもしれないし。
黒豹を連れながら調理場に向かっていると進行方向にある人物をみつけた。咄嗟に踵を返そうとする足をなんとか踏ん張る。相手は明らかにこちらを認識していた。
長い脚を遺憾なく発揮して目の前に迫ってきた彼に日向の心臓がキュッと音を立てる。
くる。
そう覚悟したと同時にふわりと抱き締められた。ここ半月で嗅ぎ慣れたスモーキーで爽やかな香りが鼻腔を擽る。耳の直ぐ傍で低い声が耳朶を震わせる感覚に日向は内心悲鳴をあげた。
(近い近い近い近い近い!!)
頬に感じる他人の体温に頭が沸騰する。
押し返そうとする手を何とか理性で押し留めた。日向を抱きしめているのはこの屋敷の主人だ。恩を仇で返すような行為はしたくない。
数十分にも感じる時間を(本当は数秒かもしれないが)耐えて解放されたとき、きっと自分の顔は真っ赤だったと思う。離れるときに一瞬頬を撫でた金髪に日向は自分の心臓が破裂したかと思った。
(この人なんでこんなに色気が凄いの!?)
これが挨拶だと分かっていても羞恥から逃げたくなる程の色気。フランクなハグだったらここまで動揺しないが、彼は日向を抱きしめながら耳に息を吹き込むように喋ったり、背中を擦ったり、頬を擦り寄せてきたりする。
最初は揶揄われているのかと思っていたが、見上げるといつも優しく微笑しているからきっとこれが彼の普通なのだろう。無意識なぶんたちが悪い。異性に耐性がない自分には刺激が強すぎる。
ハグからは解放されたが、未だ彼の腕に囲われたままの日向が目を白黒させていると、彼と日向の間に黒豹が割り込むように体を滑り込ませてきた。
二人の体を押しのけるようにグイグイと入ってくる黒豹に一瞬彼の腕に力が込められる。
いつもならここで彼が諦めたように腕を離すのだが今日はいつまで経っても離そうとしない。黒豹は彼が退かないことを理解すると、日向の顔ほどもある大きな手を彼の腕に引っ掛けた。そしてグイグイと下に押す。それを無表情で見下ろしていた彼だったが、だんだんと強くなる力に諦めたようにゆっくりと腕を離した。
「………」
「………」
スン…と表情を消した彼と黒豹が見つめ合う。
黒豹が見せつけるように日向の腹に頭を擦りつけると、ピクリと彼の眉が跳ね上がった。冷ややかな視線で黒豹を睨めつける。
(ほんとに仲悪いな、このふたり)
飼い主とペット(たぶん)という関係なのに、顔を合わせればいつも喧嘩している。お互い無言で睨み合うだけなのだが、見ているこちらとしては気が気ではない。
甘えるように全身を押し付けてくる黒豹を撫でていると、ふと手を取られた。どうしたんだろう?の『どうしたん』辺りで視界がブレた。
「えっ?」
気がついたら横抱きにされていた。
所謂お姫様抱っこだと理解した途端、頭が真っ白になる。
「ちょっ!?おもっ!?おろっ!」
焦りすぎて口が回らない。
思わず押しのけようと彼の胸を押したが逆にさらに抱え込まれてしまった。
「〜っ!!」
間近に迫る綺麗な顔に思わずギュッと目を瞑る。黒豹の唸り声とドレスの裾が引っ張られる感覚がしたが、構う余裕がない。
がっちりと抱える腕はびくともしないし、良い匂いがするし、丸太のような体幹も分厚くて硬い胸板にも、否が応でも異性を意識してしまって全身が燃えるように熱い。
「っ、おろしてください…」
やっとの思いで出した声は自分でも笑えるほどに震えていた。聞こえているのか、いないのか、スタスタと歩き始めてしまった彼に成す術もなく運ばれていく。そもそも言葉が通じないので聞こえていても意味はないのだが。
この国では彼のような行動が当たり前なのだとしたら、日向の心臓はいくつあっても足りない気がする。彼に他意はないと分かっているが、こんなことをされたらどうしたって意識してしまう。
座る時もそばにいる時もやたらと距離が近いし、腰を抱いたり頬や髪にキスするのは日常茶飯事。抱きしめるのは挨拶。
生粋の日本人である自分には刺激が強すぎる。この半月で心臓を酷使されたせいできっと数年くらい寿命が縮んでいると思う。
「ほんとに…困る」
純粋な親切に勘違いはしたくない。
高鳴る胸に途方に暮れる日向の独り言は、困惑と恐怖、少しの期待が滲む、複雑な音をしていた。