黒猫
「こっち。」
またしばらくその植物を眺めた後、黎が軽く指をひょいっとさせてそういい、プライベート音楽室の奥に私を案内した。音楽室の奥の右側、そこには人一人分がちょうど入る戸がひっそりとその存在を隠すように潜んでいた。
黎はその戸を慣れた様子で開き、中に足を入れる。なんだか不思議な空気のするその戸に背筋がひんやりするが、ここまで来て後戻りするのもどうもばかばかしいので、くっとざわざわを抑えて、私も黎に続いて中に入る。
「ミャオーー」
猫の声だ。声のする方を見ると、さっきまで黎がずっと抱えていた黒猫が、窓の方から甘えた鳴き声を出しながら黎に近寄り、その小さくてかわいらしいからだをすりすりさせていた。ちなみに私の方には見向きもしない。なんなんでしょう。
「ただいま。」
「ミャオぅーーーー」
黎の言っていることが理解できているのか、黒猫さんは返事をするように、こんな長い時間どこに行ってたのよ、と文句を言うように、長めの鳴き声を出しながら、今度はしゃがんでいる黎の足の間からすっと入って、黎の体に頭をすりすりさせる。
付き合いたての彼女かよ。
思わず突っ込む。
はん。さてはこの猫、黎に惚れてるな。仕方ない、おぬしの恋心を成就させよう。
そういうわけで独り身の私は一人寂しく隅っこの方にそっと移動した。
六畳の部屋に、壁を囲むように設置された棚。しかも猫用のグッズがぎゅうぎゅうに積み込まれていて、窓際には猫用の遊具とベッドらしきものも置かれてある。なかなかに豪華な猫部屋だ。こやつ私よりいい生活をしているぞ。なんかちょっと悲しくなってきた。
「ここが猫部屋だ。」
黎が猫モフモフしながら言う。
うん。見ればわかる。やっぱり絶対に黎に任せた方がよかったな。こっちの方がいい生活できるし、黎に惚れてるし。
「その…」
「ここで過ごさせてもらえませんか。その方が猫にとってもいい生活ができる。そもそも、私まだ親に許可取ってないから、飼えるかどうかも分からないうえに、普段家には誰もいないので、猫をうちで飼うのは不安です。」
「……ありがとう。」
「こちらこそ……。」
「あっ。でも、時々猫と遊びに来させてください。私、この子の元気な姿が見たいです。」
黎がふっと笑う。
「そうか。わかった。」
そう言って黎は最後の別れを惜しむように猫の頭をわしゃわしゃと撫でて、私たちは戸の外に出た。
暮れかかった太陽の暖かな日差しが変わらず窓から差し込んで、厳かに佇むピアノを照らし、音楽室全体が柔らかな雰囲気を纏う。昔もどこかで見たことがあるような、そういう空気がする。そういうのをノスタルジックっていうんだっけ。時間が思い出を持ったような、細かい砂になって、私を包み込むような、そういう感じがする。私、こういうの結構好きだな。
この穏やかな空気にほだされて、ちょっと自分の中で突っかかっているものが浮き出る。
「あの……」
「何?」
「その、私が猫飼いたいって言ったの、よかったんですか?」
黎が器用に片方の眉毛を上げ、問いかけてくる。
「だから、えっと……柳川さんが飼いたいって言ってたのに、私が急に飼うって言いだしたから……なんか、そういうの話が違うじゃん!みたいな」
あ~と理解したようにうなずいて、彼はすぐ隣にあるピアノに触れた。細長い指が鍵盤に触れ、ポロンとピアノが音を零す。黎にそっくりな、優しくて、暖かくてちょっと不思議な音がした。
「びっくりした。」
うん?今度は私が顔で問いかける。
「あいつにそっくりな猫が現れて、驚いた。だから、冷静さを失った。灯川さんがあの猫を飼いたがっていたことも、俺は気づけなかった。ごめん。」
そう、だったんだ。
「なんだ、私が考えすぎただけだったのか。ははっ」
ほっとして、するっと糸が絡んでできたわだかまりみたいなのが解けていく。血液がまた、スーッと流れるようになって、身体があったかくなる。あっ、そういえば。
「あれ?さちは?」
黎も周りを見渡す。
「いない…家の中で迷子になるとかないだろうな……」
さちに失礼だけど、あながちあり得ないことでもなさそう。
「ねえ!これ見て!これこれ!!」
探していると、明るい声とともに、奥の方からさちが軽快に跳ねながらやってきた。
えっ、何やってんのあいつ。
よく見ると両手には名前の知らない楽器を持っている。
楽器!
さち!人の家の楽器を勝手に触ったらだめだろ!壊したらどうすんの!咄嗟に隣を見た。彼は何を考えてるのかよくわからない顔をしている。
「これナぁニ?!」
崖っぷちにいることにも気づかずに無邪気に騒ぐ彼女に私は静かに冥福をお祈り申し上げた。
さちにゆっくり近づく黎。
もうおしまいだ!
「そっちはカウベル。打楽器の一種でスティックでたたいて音を鳴らす。」
あれ?怒らない?
意外なことに彼は怒るどころか、指で楽器を指しながら丁寧に教えていた。
「そんでこっちはウッドスティック。両者をぶつけて音を出す。」
そういいながらも実際に楽器を手に取って鳴らして見せる。
「うぉおお!」と小さな歓声が上がった。
ほっと息をついた。
「じゃあこれは!これはこれは!?」
新世界を目にした彼女はさらに高ぶって、好奇心を振り回しはじめる。
「チャイム、サスペンドシンバル、ピッコロ、シロフォン」そんなさちの興奮にこたえるように、黎は楽器を鳴らしながら説明していく。心なしか彼の声もちょっと明るいような気がした。
そんなこんなで私もちょっと講習会に参加させてもらい、大いなる成果を手にすることができた。特に神楽鈴という楽器が気に入った。よくわからないけど音が好きだった。
楽器見学会に講じていると後ろから「れい」と呼ぶうら若い女性の声がしたので振り返ると、黎のお母さんがドアからちらっと顔をのぞかせている。
ブックマーク初めて一人ついた!めっちゃうれしい!!
ありがとうございます!!書いてよかったです頑張ります!!




