行方
あまりにも突然の出来事に一瞬思考が停止する。全身が停止ボタンをおされたかのように動かなくなる。おそらく、教室の隅っこで起こった小さなハプニングにまだ誰も気づいていない。
どうする。
右隣を見た。隣の人はまだ目を見開いて猫を食い入るように見ている。
何か言おうと口を開いてみたけど、何も出てこない。コミュ障や人見知りもある程度影響しているが、何よりこの状況に、この景色に理解が追い付かない。
ここは四階で、窓の外にもこれといった登れるような高い建物はない。ドアは閉まっていて、私がこの教室に向かう途中で猫を見た記憶もない。かといって、もとから教室にいたとしたら少なくとも教室にいる誰かは気づくはずだからそれもあり得そうにない。まるでミステリー小説に出てくる密室殺人みたいだ。犯人探しをしたら真っ先に私が疑われる。が、私に猫を連れてきた記憶もない。
しかし、隣の人はいまだにフリーズしたように、ただ猫に視線を張り付かせている。何か話しかけた方がよいのだろうか。
「あの……?」
恐る恐る声をかけると隣人は初めて気づいたように、黒曜石のような瞳を開いたままこっちに視線を向けた。しばらくの間、視線が空中で交わる。
「お前のか?」
「へ?」
やっぱり疑われた。でも、気まずい感じはしない。よかった。
「まあ、そうだよな、違うよな。」
納得したような、少し悲しいような、がっかりしたような、なんだか複雑な顔をしている。
でも、馬鹿ではないみたいだ。
「えっと...どう、しましょうか?」
そう言って、私は机の上で気持ちよさそうにしているつややかな毛皮を纏った黒猫をみた。彼もそれを追うように机の上の黒猫に視線を向ける。何やら感慨深そうに猫を見つめてから、彼は慣れた手つきで黒猫を撫で始めた。
「……飼う」
「はい?」
えっ。普通にこの猫のことを受け入れただと。
どこから現れたのかも、どういう存在なのかも、そもそも飼い主がいるかどうかわからないのに、飼うの?
その傍らで、気持ちが良いのか、黒猫がゴロゴロとのどを鳴らし始めた。
「今すぐじゃない。ちゃんと野良猫であることを確認して、親にも許可をとってから、」
彼は何か思いついたように、一瞬固まる。
「やっぱりやめる。」
「はい??」
何だこいつ。
しばらくの間、沈黙が訪れる。
「………………」
「この子には、この子の道がある。」
言葉がおもりを付けられたように、沈みながら吐き出された。
「…………」
「…………」
何か、この人なりに考えているのだろうか。
前にいる少年に目を向けた。彼は変わらず、無表情で変化がない。でも、その目の奥は微かに揺れているように、見えた。
何を言えばよいのだろうか。沈黙のなか、ゴロゴロとのどを鳴らす音が時たま聞こえてくる。あまりにも気持ちよさそうにするから、この子を撫でてみた。確か、顎を撫でるといいみたいなことをどこかで聞いたことがある気がする。
柔らかくて、暖かい。
「でもその道がどれかは、誰にもわからない。」
気が付くと、言葉が勝手に出ていた。
猫を撫でる手が、止まる。
しまった余計なことを。
慌ててその場を取り繕う。
「いやほら、私にもよくわからないです、けど、この子、あなたに触られた時ものすごく気持ちよさそうにしてたんです。これだけは私にも分かるなって…」
そう、彼が猫を撫でるのをやめた瞬間ゴロゴロがパタッとやんだのである。その代わり、鋭い目つきで不満そうにこっちを見ていた。
ごめんて。
「くくっ」
あっ。笑った。
驚いて、思わず声のする方に顔を上げる。
そこには、柔らかな日差しに照らされた少年がいた。細長いきりっとした目がきれいなカーブを描き、形の良い唇の隣にはうっすらとえくぼが出来ている。その唇に彼は長い指のごつごつとした関節部分を当てて、くくっと、笑っている。
柔らかくて、暖かい。
そのまま私は彼から視線を外せなかった。漆のようなつややかな髪の毛は相変わらず風で揺れていて、長くて繊細なまつ毛が太陽に照らされて影を落とす。毛穴一つない雪のように白い肌は光を反射して、柔らかに輝いている。
白雪姫の男の子バージョンみたい。
やっぱりきれいな人だな。そう思うっていると、風のページを捲る音がこそこそ話をするように私に届いた。
そうか、風はまだ吹いているのか。ここは教室なのか。思い出した。戻ってきた。
戻ってきたんだ。
「まあ、まだ時間はあるし、とりあえず職員室に行って、この猫を引き渡そう。」
「飼うのやめるの?」
「いや、大事に育てるよ。」
そう言って、慣れた手つきで黒猫を自分の胸元の方へ抱えた。その手はなんだか少し震えていた気がした。
もちろんここまで時間がたつとこの小さなハプニングはもうすでにクラス全体に知れ渡っていて、みんな好奇心でいっぱいな顔をしてこっちを見ている。
自分の猫じゃないのでひやひやすることはないが、やはり落ち着かない。まあ、どっちにしろ噂になることは確定だ。下手したら伝説になるかもしれない。
伝説か……感慨深いものだな。あまり嬉しくはないけど。
「なあ。」
「うん?」
気づいたら廊下に立っていた。考え事をしながら歩いてたから気がつかなかった。
「職員室、どこにあるかわかるか?」
「へ?」
「あ!」
しまった!こんな入学初日で職員室の場所を把握しているわけがない!あっ、でも、確か入学前に配られた校舎の見取り図の写真を念のために撮っておいたはず。
「あった!」
「写真を撮ってあるのか?」
「うん。念のためにと思ってね。」
「……」
「うーーんっと。二階の端にあるらしい。」
「二階の端……あっちか。」
私たちは焦るわけではなく、走るわけでもなく、廊下をただ進んだ。猫を抱えたまま。もちろんその間はいろんな人にちらちらと視線を向けられているのだが、彼はそれを全く気にする様子もなくただ猫を大事そうに抱えながら前方を見据えて歩いている。歩いている間はもちろん無言だ。彼が何を考えているのかもわからない。でも、不思議と気まずい感じはしない。きっと、悪いひとではないのだろう。よかった。
職員室はそう遠くなかった。どこの学校にもあるような、引き戸のついた、大きくて白い部屋。近づくとほのかにコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
職員室の近くにつくと彼はじっと私を見ていた。なにか変なものでも顔ついたのかなと一瞬不安に思ったが、両手で抱えられて眠たそうにいている猫を見て、私は察した。
「えっと、、、猫は私が持つよ。」
「いいのか?」
「うん……あんまりそういうの、得意じゃなくて、」
「そう」
そう言って、彼は渡しやすいように体をこっちに近づけた。そのまま私は猫に手をのばし、受け取る。
「あっ、違う!」
「うん?」
「抱える時は片方の腕を猫の前足の下に回す。そう、で、そのまま引き寄せる。まあ、よし。」
「おお~」
指導を受けながらなんとか猫を抱えることができた。思ったより軽い小さなそれに心が締め付けられたのと同時に、ちゃんと抱っこできたことが、うれしかった。猫の視線が痛いけど。
コンコンコン
「失礼します。一年四組……」
そっと三十八番だと教えた。
「一年四組三十八番の柳川 黎です。校内で猫を拾いました。どなたか対応していただきたいです。」
改めて文字に起こしてみると面白い。校内で猫を拾うとかどこのマンガだよ。
案の定、先生がちょっと戸惑っている。
ちょっと待ってね。とドアの近くに座っている先生が伝えてからしばらく待った後、職員室の奥の方から50代だと思われる初老の先生が現れた。白がかった短髪と、細めのちょっと垂れた目。笑うといい感じに目じりの皺が深まって、穏やかでどこかつかめない雰囲気を纏っていた。
その先生は私たち二人一匹を一通り眺めた。
「ほう。。そうか。。。」
そういって、おもむろにふっふっと腹を震わせながら笑った。笑いが収まるまで一呼吸おいて、その先生は尋ねた。
「それで、君たちはその猫をどうするつもりなんだい?」
謎の迫力を感じた。
すると、隣の人は答えた。
「飼います。でも、そのためにはこの猫が野良猫であることを確認する必要があるので、その確認のために連れてきました。」
「ほう。」
「それで、君は?」
私を見ていることに気が付いた。細い目であるのにもかかわらず、なぜか力強い視線を感じた。私はどうするのか。聞かれて考えた。そして、気づいた。
わからない。
胸の中の柔らかくて暖かい存在を抱えながら、抱えていながら、私は何も考えていなかった。顔が一気に赤くなり、何とか返事をしようと思って、咄嗟に「彼が飼うので、彼に任せます。」って言いそうになった。でも、老人に見つめられて私は言葉を吞み込んだ。老人はまだ私を見ている。老人はまだ私に問いかけている。私はどうしたいか。私はどう思うか。私は胸の中の子を見た。胸の中の子は相変わらず鋭い目つきをしてこっちをきりっとにらんでいる。でもこの子の軽さと柔らかさと体温が私にはとても暖かかった。私は、血迷った。
「飼います!」
見なくてもわかるほど、隣の人が驚いている。柄でもないことを勢いに任せて言ったから、顔がさらに熱くなる。
「この人と一緒に!」
ついでに巻き込んでおいた。いや、巻き込まれたというべきなのか?
「ふっはっはっはっはっ!」
また一際大きな声で、初老の人は腹を震わせて笑った。
「そうか。そうかそうか。」
しきりにうなずいている。なんだかうれしそうだ。
「わかった。それじゃこの後交番に聞いてみるから、ひとまずこの猫を預けておくよ。確か、柳川さんと、」
「灯川蛍です。」
「灯川さん。わかった。できるだけ今日中に終わらせるから、学校が終わったら二人でもう一度来てくれるか?
それと、ありがとう。」
「はい!」
「はい。」
私たちはそう返事をしてただこの場を去った。
振り仮名どうやってつければいいかわからなくて困ってる今このごろ…