出会い
ロッカーに荷物を置いて、おぼつかない足取りで教室に向かう。幸い事前に校舎の見取り図の写真をとっておいたから、今回はそんなに迷うことはなかった。心臓がさっきからやけにうるさい。でも、それと同時に心のどこかにふわっとして、軽くて、明るいなにかもある。いろんな感情が入り混じった心が徐々に大きくなって、身体をいっぱいに満たす。いっぱいになった身体は心臓のどうきにつられて振動する。自分の周りだけ地震が起きているみたいだった。
そして、一年四組。ついにたどり着きました。
もうだめ、心臓破裂する。これは救急車呼んだ方がいい。
いや。頑張るんだ、蛍!
ふぅぅぅぅううう。スーパーロングブレスをして、私は教室のドアをくぐった。
教室の、木のような、新聞紙のような懐かしいにおいがふわっと鼻腔の中に潜り込み、目の前の見慣れない景色に少しばかりの違和感を覚えて私は立ち止まる。何人かの生徒がすでに教室で周囲の人と楽しそうに会話を交わしているが、教室出したばかりのサランラップのように少し張り詰めた空気が、落ち着かない。
私は新しく買ってもらった紺色のリュックサックの帯をぎゅっと握りしめながら教室の中に入る。すると、黒板に貼ってある座席表が目に入ったので、自分の席を探した。 後ろから二番目の窓側の席。
どんな人が近くにいるのだろうか。
ぼんやりとした期待とともに、私は振り向いて、自分の席の方に顔を向ける。
きれい。
その言葉がすっと頭に浮かんだ。
あまり顔はよく見えなかったが、それでも、そこだけの、その場所だけの気配に、私は恍惚とした。漆のような真っ黒な髪が、カーテンの隙間から差し込む太陽の光に照らされ、ほんのり反射する。きりっとした顔立ちに加え、どこか優美さを感じさせるその姿に、周りの空気が丸ごと変わってしまったかのような、そこだけ絵画から切り取られたような、そんなどこかおとぎ話みたいな空間がそこに潜んでいた。時折吹いてくる風が、本のページをパラパラと小気味の良い音を立ててめくる、そのたびに彼の髪の毛がかすかに揺れた。
「あっ。」
私の視線に気づいたのか、彼は今読んでいる本から顔を上げてこっちを見た。
視線がカチッと合わさり、時間が蜂蜜を含んでゆったり流れる。
何か言った方がよいのだろうか。そうだ、挨拶。こういう時は挨拶だ。でも、この距離からじゃ絶対に聞こえない。もう少し近づいてから挨拶をした方がいいのかな。というかあれだけじっと見たんだから変態とかおもわれたりする?そう思われたらどうしよう。
あれこれ考えているうちにも、時間が徐々に流れていく、何かをしなければいけない焦りだけが募ってゆき、次第に体が熱くなる。このままでは登校1日目から隣の人と気まずくなってしまう。それではまずい。ともかく挨拶だけはしよう。そう意に決して、口を開いたその瞬間だった。
すっ。
聞こえるはずのない動作音が耳に届いた。計20㎝にも及ばない小さな動き、取るに足りない小さな変化。でも、その動きは十分私の心を折るに至った。
ガーーーーン。
無視だ。そのまま本を読み始めた。
嫌われた。絶対に嫌われた。
どうしよう。私がさっきじっと見てたから、変態だと思われたんだ。
隣の席なのに。お隣さんなのに。
これからのグループ活動とかどうしよう。隣の席同士での話し合いとかどうしよう。きっと冷たい視線にさされるに違いない。
そんな……
私はそれでも震える手を必死に抑えながら、自分の席へ立ち挑んだ。足元がふわふわする。頭もふわふわする。いやいっそのこと頭はふわふわした方がいい。彼の席に近付くと、その周りのおとぎ話のような、ここじゃない、どこか遠くの世界に飛んでしまったかのような、異質で、不思議な空気を感じる。なんだかちょっと入るのをためらってしまう。
しかし、私にはもう彼を見る勇気も、話しかける勇気もない。
くっと歯を食いしばって、その世界の中に飛び込む。すると、当たり前だが目の前にはさっきと同じ、教室の景色が存在していた。ほっとしたような、がっかりしたような中途半端な感情が流れる。まあ現実なんてそんなものかなんて開き直りながら、私は性懲りもせず少しだけちらっと隣を見た。
彼はさっきと全く同じ姿勢で何事もなかったかのように本を読んでいる。窓の外からは変わらず風が時々遊びに来ては本のページを乱して、帰ってゆく。何を考えているのか全く読めない。ここまでぶれがないと、さっきまでの出来事は本当はなかったんじゃないのかとさえ思ってしまう。
ふと、ひときわ強い風が押し込んでくる。思わず髪の毛を片手で抑えて、目をぎゅっとつむる。隣からは本が無造作にめくられる音が聞こえてきた。風がやむまでしばらく待つ。一瞬のようにも、一生のようにも感じる。
そして、再び目を開けると、机の上に一匹の猫が乗っていた。
「は?」
「は?」
こうして、私はこの猫と出会った。
風邪ひきたくないです。