元カノの娘と付き合う
仕事帰り、会社近くの公園のベンチに座ってビールを飲んでいると、一人の女子高生が視界に入った。その子を見て、俺は中学・高校時代に付き合っていた彼女のことを思い出した。その子は由香によく似ていた――。
◇
山川由香は俺の幼馴染だった。
幼稚園、小学校、中学校、高校が同じで――中学一年生のときに、俺たちの関係がただの幼馴染から恋人へと変わった。
告白は確か、俺がしたんだったと思う。オーケーの返事をもらえたとき、俺は死ぬほど嬉しかった。もしかしたら、あのときが人生の絶頂期だったのかもしれない。
俺たちの関係は、高校一年生のときに終わりを迎えた。
由香の浮気が、その原因だった。
俺は由香が浮気しているとは露ほども思わず、のんきに日々の生活を送っていた。そんな俺に衝撃の事実を――残酷な現実を教えてくれたのは、中学からの友人である水野だった。
「和真、このことを伝えるべきかどうかすごく悩んだんだけどな……」
そう前置きして、水野は話し始めた。
昨日、水野が買い物に出かけたところ、恋人のように仲良さげに買い物をしている由香と弘樹を発見した。弘樹というのは俺の友人である。といっても、高校に入ってからの友人だから、歴は半年にも満たない。
水野は二人の仲を訝しみ、尾行を開始した。二人は友人同士では絶対にしないような、体を密着させた恋人つなぎをし、なんとラブホテルに入っていったというのだ。
「ホテルに入るのは、どう考えても『黒』だろ」
「そう、だな……」
水野は念のために写真を撮っておいたとのこと。見せてもらう。二人が恋人つなぎをして楽しそうに歩いている写真、ラブホテルに入っていく様子を写した写真などなどがあった。証拠写真を見せられると、現実を直視せざるを得ない。
「なあ、お前もその……ホテルとか行ってるのか?」
「いや、行ったことない」
俺が否定すると、水野はほっとしたような顔をした。微妙に腹立たしい。
由香が弘樹と浮気していることはもちろんショックだったのだが、何よりショックだったのは由香と弘樹が肉体関係にあることだ。
いくら俺が知識に乏しい男子高校生とはいえ、ラブホテルがどういうことをするホテルなのかはもちろん知っている。ラブホテルに入ったら絶対にセックスしなければならない、という法律はないが、高校生の男女が決して安くない金を払ったのだ、してるに決まっている。
するべきではないとはわかっているのだが、由香と弘樹が抱き合っている想像をしてしまう。それは自動的に、半ば強制的に、頭の中のスクリーンに再生された。異様に生々しい映像だった。
眩暈が、した。
「なあ、どうするよ、和真?」水野が問いかけてくる。「山川と弘樹に直撃してみるか?」
「ああ、うん……」
浮気の事実を知ってしまった以上、なあなあにはしておけない。気が進まないものの、直撃は避けては通れない。
朝の教室には、まだ半分くらいの生徒しか来ていない。由香と弘樹もまだ来てない。そういえば、最近、由香と一緒に登校してないな、といまさらながらに思った。もしや、由香は弘樹と一緒に登校しているのでは……?
ドアが開いて、弘樹が入ってきた。
「おはよう!」
「「お、おはよ……」」
俺と水野の返事は、いつもと調子が違っていた。声が震えているというか、不安定に揺れているというか……。
弘樹は自分の席にバッグを置くと、俺たちのもとへとやってきた。
俺と水野の様子は明らかにおかしかったので、当然、弘樹もそのことに気づいた。
「どうしたんだよ、お前ら?」
弘樹はいつものように朗らかに笑っている。
この表裏のなさそうな弘樹が、まさか俺の彼女と関係を持っているだなんて……。人間には残酷な二面性があることを、俺は高校生にして身をもって知った。知ってしまった。
「おい、和真」
水野は小声で言いながら、肘で小突いてくる。
俺は深呼吸をして覚悟を決めると、
「弘樹……お前、由香とどういう関係なんだ?」
「は? どうしたんだよ、突然」
弘樹は笑みを崩さない。内心はわからないが、表面上は一切動揺していないように見える。
「いいから答えてくれ」
「……女友達ってとこかな」
「女友達、ねえ……」
俺はため息をつく。それから、弘樹のことを見据えると、
「俺が由香と付き合っていることは、もちろん知ってるよな?」
「ああ。そりゃあ、ね」
「幼馴染ということは?」
「それも知ってるよ」
「……それらを知ったうえで、お前は由香と関係を持った」
「関係を持った? 何言ってるんだ、お前?」
弘樹の口元から笑みが消えた。余裕がなくなってきたのだろう。
「いつからだ? いつから由香と――」
「関係なんてないよ。誤解だって!」
「何が誤解なんだよっ!?」
俺は声を荒げて言うと、黙って話を聞いていた水野に頷きかけた。
水野は携帯電話で撮った写真を、まるで印籠のように弘樹に見せつける。
「観念しろよ、弘樹。証拠はちゃんとあるんだよ」
「くっ……うっ……」
恋人つなぎでラブホテルに出入りするという決定的な証拠を見せられ、さすがに言い逃れることができなくなった。
言葉に詰まった弘樹は、顔に脂汗をにじませながら、興奮したように荒々しい呼吸を繰り返している。過呼吸でぶっ倒れてもおかしくなさそうだ。
弘樹からいろいろ聞き出してやろう、と企んでいると――。
「おはよ」
いつものように言って、由香が教室に入ってきた。
◇
由香と弘樹が一緒に登校しているのかどうかはわからないが、もしそうだとしたら、俺に関係がバレないようにわざと時間をずらしているのかもしれない。
由香は弘樹の動揺と憔悴に満ちた顔を見て、何かを察したのかもしれない。バッグを置くと、女友達のグループに話しかけようとした。
先手を取って俺が、「由香」と呼ぶと、さすがに無視や聞こえなかった振りはできないので、「なに? どうしたの?」と返してきた。
「ちょっとこっちきて」
手のジェスチャー付きで言うと、観念したのか、
「……わかった」
由香は頷いて、こちらにやってきた。
「どうしたの?」
もう一度、尋ねてきた。
俺は説明する前に、水野に合図した。写真を見てもらうのが一番手っ取り早いと思ったからだ。水野が由香に携帯電話で撮った写真を見せつける。
「――というわけだ」
俺は努めて冷静な口調で、がっくり俯いている由香に言う。
「由香、弘樹と浮気してるのか? いや、浮気してるよな」
「…………うん」
長い沈黙の後で、由香は肯定の言葉をひねり出した。
罪悪感があるのか、罪悪感がある振りをしているのか……。
「いつから?」
「……七月、くらいから」
今が九月ということは、二か月前後といったところか。俺が三年かけてもまだたどり着けていない領域に、弘樹はわずか二か月――あるいは、もっと短いかもしれない――でたどり着いたのか。弘樹がアグレッシブなのか、俺がパッシブなのか……。
「どうして?」
どうして――弘樹と浮気したのか?
「弘樹くんのこと、好きになっちゃったから」
「俺よりも?」
「うん、かずくんよりも」
みぞおちにストレートをぶち込まれたような衝撃。急に苦しくなって、吐きそうになった。
俺より、弘樹のほうが好き……? そんなこと、聞きたくなかった。そんな残酷な現実、知りたくなかった。
「おい、和真。大丈夫か?」
水野が心配そうに声をかけてくれる。
俺はカクカクと頷いた。言葉を発せられる余裕はなかった。
一方で、弘樹は失っていた余裕を少しずつ取り戻していた。口元にはうっすらと勝者の微笑みが浮かんでいる。
「ごめんね」
「いまさら、謝られても……」
俺は必死に言葉を紡いだ。
「私たち、別れよ?」
それは提案というよりも、一方的な通告のように聞こえた。
浮気されたことを知った時点で、由香に対する愛情の灯火は鎮火されてしまった。別れない理由なんて一つもない。
「……わかった」
俺が頷いたのと同時に、チャイムの音が鳴り響いた。その日の授業はまったく集中できなかった。
このようにして、俺たちの恋人関係は幕を閉じたのだった。
◇
その後、俺は二人と同じクラスなので気まずさを感じながら学校生活を送った(由香と弘樹は俺の存在を――そして、俺との関係を――なかったことにして、存分にいちゃついていた)。水野たち友人は「元気出せよ」と慰めてくれた。
二年生になったらクラス替えが行われる。それまでの辛抱だ。二年でも由香か弘樹と――あるいは両方と――同じクラスになる可能性があったが、担任の教師に事情を説明して、二人と同じクラスにならないように配慮してほしい、と頼み込んだので多分大丈夫だろう。
しかし、担任への根回しは無駄に終わった。
二人と同じクラスになってしまった、というわけではない。なんと二人とも学校を中退してしまったのだ。
年が明けてしばらくして、由香が妊娠したという話が流れた。誰の子かは言わなくてもわかるだろう。その話は事実だったようで、由香は学校を休むようになり、そのままフェードアウト。
弘樹は由香を妊娠させた相手として、一年生内で話題になり、なおかつ略奪愛を行ったという話が、尾ひれがついて流れた。前者はともかくとして、後者はかなりの悪評となり、知らない生徒にまで悪口を言われた。
弘樹は悪口を言われたり、陰口を叩かれたりするのに耐えきれなくなり、学校をやめてしまった。ざまあみろとまでは思わないが、同情はできない。
その後、二人はどうなったのか――。
風の噂で聞くには、二人は結婚して由香は子を産んだとか。どこで暮らしているのか、大学に進学したのか、仕事は何をしているのか、そういった情報は手に入らなかった。
由香が高校を中退してから、一度彼女の家に行ってみようかと思ったこともあったが、山川一家は引っ越していた。もちろん、お別れの挨拶なんてなかった。
もう二度と、由香と関わることはないんだろうな、とそのときは思っていた。
だが、世界というのは案外狭いもののようだ。
◇
高校時代の傷は、もちろんとうに癒えている。それでも、由香によく似た女子高生を見ただけで、あのときのことを思い出してしまった。
女子高生のことを目で追いかける。
由香は『美少女』と表現しても言い過ぎではないルックスだったが、その由香よりも彼女は美人だった。思えば、弘樹も端正なルックスをしていた。二人の子供が女の子だったなら、彼女くらいの年頃で、彼女のような美人だろうな。
もしかしたら、彼女は二人の子供なんじゃないか?
頭に思い浮かんだ説を、馬鹿馬鹿しいと俺は一蹴した。そんなこと、あるわけがない。
あまりじろじろと見ては、不審者に思われるかもしれないな。俺は彼女から目を逸らして、ビールを一口飲んだ。
彼女の前方から、似たような年頃の不良少年たちがやってきた。いつの時代も不良はいるんだな、と見ていると――。
「ねえねえ、君」
彼らは女子高生に声をかけた。
いわゆるナンパというやつだろう。俺はナンパをしたことがないので、ナンパってこうやってするんだな、なんて思いながら様子を窺っていた。
女子高生は「やめてください」と強く拒絶していた。どうやら、彼女を引っ張ってどこかに連れていこうとしているようだ。まさか誘拐ということはないだろうが、嫌がる少女をむりやり引っ張って遊びに連れていくのはよろしくない。
俺はビールの缶を置いて、ベンチから立ち上がった。
ずんずんと大股で彼女たちのもとへと向かうと、
「彼女、嫌がってるだろ」
と、俺は強く言った。
不良少年たちは、突然現れ口を挟んできた邪魔者に不快感を露わにして、
「なんだ、お前?」
「あー。彼女から手、離しなさい」
俺は大人らしい口調を心がけて丁寧に言う。
「てめえには関係ないだろ」
「関係ないけどさ、むりやりなナンパはよくないと思うぞ」
「うるせえな」
「やっちゃうか?」
にやにやして少年たちが話し合っている。
自分たちのほうが人数が多いからか、それとも俺が喧嘩弱そうに見えるのか、彼らは実に余裕ありげな表情をしている。
女子高生の手首を掴んでいる男の腕を、俺は強く掴んで引きはがした。
「いってえな!」
短気な少年が殴り掛かってきたので、その一撃を避けながら足払いをかけた。彼は無様にすっ転んだ。他の三人の視線が一瞬、そちらに吸い寄せられたので、その隙に女子高生の手を取って走り出した。
「あ、おい、待てやっ!」
もちろん、待つはずがない。
不健康な生活をしているのか、四人の足は意外と遅かった。差がどんどん開き、すぐに撒くのに成功した。そのまま、何分か走る。二〇代のときより体力が落ちているのを実感する。それでも、わりと体を鍛えているので、ある程度は走れた。
もう大丈夫だろう、と思ったところで俺たちは足を止めた。
「あのっ、ありがとうございます!」
「ああ、気にしないで」
俺はひらひらと軽く手を振って、女子高生に微笑みかけた。
それから、ゆっくり呼吸を整えると、現在地を確認して最寄り駅へと向かおうとした。
「それじゃ」
「ま、待ってください!」
お別れの挨拶をした俺を、女子高生が慌てて呼び止める。
「うん? なにか?」
「助けていただきありがとうございます」
もう一度礼を言って、彼女は頭を深々と下げた。
「私、相馬理子といいます」
「相馬……」
弘樹の名字は『相馬』だ。
めちゃくちゃ珍しい名字、というわけではない。むしろ、比較的多い名字ではあるが……。
名字が相馬で、由香によく似ていて、年齢的にも一致している。これはもしかしてもしかするのかもしれない。
「お名前、教えていただけますか?」
「朝倉和真」
「朝倉さん」
理子は歌うように呟いた。
「よろしければ、この後どこかお食事にでも行きませんか?」
「え……」
「駄目、ですか?」
「いや、駄目ってわけじゃないけど……」
今日は金曜日で、明日明後日は休日である。なので、時間的には余裕がある。
だがしかし、三〇過ぎた男が女子高生と二人で飯を食いに行って大丈夫なのだろうか? それ自体は犯罪ではないが、傍からどう見えるだろうか……? まずい関係に見えやしないか不安になる。
「お金のことなら大丈夫です。私が奢りますから」
「いや、高校生に奢らせるのはちょっとね」
「気にしないでください」
「気にするよ」
奢る奢らないの話は置いておいて、とりあえず俺たちは目についたファミリーレストランに入った。ファミリーレストランに入るのは久しぶりで、女子高生と行くのは初めてのことだった。
◇
適当に注文を済ませると、世間話でもしようかと口を開きかけた。しかし、世間話をしようにも、俺たちの間には一七くらいの年の差があるので、一体どんな話をすればいいのかわからず、開けた口をすぐに閉じるのだった。
「あの、朝倉さんはおいくつなんですか?」
「三三歳」
「お若いですね」
「そうかな? 君からしたら、俺はおっさんなんじゃないか?」
「そ、そんなことないですっ!」
理子は慌てて否定した。
「とても若く見えますよ」
「ありがとう」
お世辞なのか本心なのか判別がつかない。
年齢のわりに若く見えると自分では思っている。しかし、自分で思っているだけで、傍から見れば年相応のルックスなのかもしれない。実際のところは不明だ。
「ええと……相馬さんは高校何年生?」
「一年です」
「そうか……」
見事に一致する。
彼女のことを『理子』と名前で呼ぶのは馴れ馴れしいのではばかられるが、かといって『相馬さん』と名字で呼ぶのも正直はばかられる。全国の相馬さんには申し訳ないが、相馬という名字にトラウマがあるのだ。
さて、なんと呼ぶべきか……? 『君』とか『あなた』とか?
そんなことを考えていると――。
「あの、実は少し気になることがあって……」
と、理子に言われた。
「気になること?」
「ええ」
そこで、理子はドリンクバーを注文していたことを思い出したようで。
「飲み物、取りに行ってきます。朝倉さんは何にしますか?」
「いや、自分で取りに行くよ」
俺はスーツの上着を脱いで立ち上がる。
ドリンクバーのコーナーには先客がいた。女子高生二人組が何種類かのドリンクを混ぜて、どす黒いオリジナルドリンクを制作している。俺も学生時代によくやったな、と懐かしい気分になる。
コップの中に氷を少し入れて、ジンジャーエールのボタンを押した。理子はウーロン茶のボタンを押している。
席に戻ると、店員が注文した料理を運んできた。さすがはファミレス。早い。
俺はトマトソーススパゲティとマルゲリータピザ、理子はドリアとエビのサラダ、そして二人で食べるためのフライドポテト。
「いただきます」
小さく囁くように言うと、理子はサラダを食べ始めた。
いただきます、か……。俺も普段はしない食事前の挨拶をしてみる。
サラダを二口食べて、ウーロン茶を一口飲むと、理子は先ほど中断した話の続きを話し始めた。
「気になることというのは、先ほどの公園でのことです。私が不良の方たちにナンパされる前、朝倉さんはベンチから私のことを見てましたよね。驚いたような様子で、興味深そうに」
「別に君をナンパしようとしていたわけじゃないよ」
冗談だと思ったのか、理子は上品にくすくすと笑った。
気づかれてないと思っていたのだが、どうやら理子の感覚は思っていたよりもずっと鋭敏なようだ。
「どうして、私のことをじろじろ見てたんですか? 何か深い理由があるんですよね」
「君が美少女だから、思わず魅入ってしまったんだ」
「美少女だなんてそんな……」
理子は頬に手を当てて照れている。
しかし、すぐに正気に戻ると、こちらを眼光鋭く睨みつけ、
「はぐらかさないでください」
「別にはぐらかしてなんてないよ」
「はぐらかしてます」
「うん……はぐらかしてるかも」
俺はへらへら笑いながら、マルゲリータピザを食べる。
理子は大きな瞳で俺のことをじいっと睨みつけ、無言で威圧感を与えてくる。その威圧感に耐えかねたというわけではないが、俺は正直に理子を見てた理由について話した。
「君が、昔付き合っていた女の子にとてもよく似ていたから、思わずじろじろ見てしまったんだ」
「昔、付き合っていた女の子?」
そのおうむ返しは、話を詳しく聞かせてくれ、という意味だろう。
正直、気が進まなかったが、いまさらごまかしや嘘は通用しないだろう。俺は詳しく話すことにする。
「その子は俺の幼馴染だったんだ。中学一年のときに告白して付き合い始めて、高校一年のときに別れた」
「別れた理由を教えてもらっても……?」
「浮気されたんだ」
俺は寂しく笑って、ジンジャーエールを飲んだ。
「浮気相手は俺の友達だった……」
「まぁ……」
理子は口に手を当てて絶句している。
衝撃から解放された後、おずおずと謝った。
「その……すみません」
「いや、もうずっと前のことだから。気にしないで」
その後、しばらく俺たちは黙ったまま食事をした。気まずい沈黙というわけではない。理子はドリアを少しずつ丁寧に食べながら、何か深刻そうに考えていた。
やがて、理子は口を開いた。
「あの……元カノさんのお名前、教えていただけませんか?」
◇
「元カノの名前? ……どうして?」
そう聞き返しながらも、質問の意図はわかっている。
おそらく、そうなのだろう。相馬理子は、相馬弘樹と山川由香の娘なのだろう。
だがしかし、その事実を純真そうな彼女に教えてしまっていいものなのだろうか。目の前にいる男が母の元カレでもあり、母は朝倉和真という恋人を捨てて浮気相手とくっつき、理子を産んだ――。
いや、でも、世の中には浮気や不倫をしている人間なんてごまんといるのだから、そこまで大きなショックを受けることはないのか……?
「朝倉さんは私のことを『昔付き合っていた女の子にとてもよく似ている』と言い、私が名前を名乗った際、名字の『相馬』に対して苦々しい顔をしていましたから。……もしかして、元カノさんの浮気相手の名前は『相馬弘樹』というのではありませんか?」
「……ああ」
「そして、元カノの名前は――『山川由香』」
「……ああ」
俺はぐったりと背もたれにもたれかかった。
店員が席にやってきて、食べ終えた皿をトレイに載せて去っていった。ファミリーレストランの喧騒が、ほどよいBGMとなっている。俺たちの席だけ、周囲から隔絶されているような冷ややかさがあった。
「そう、ですか……」理子はぽつりと呟いた。「朝倉さんはお母さんの幼馴染で元カレ……」
「……ご両親は元気?」
俺は尋ねた。皮肉ではなかったが、そのように聞こえてしまったかもしれない。
「いえ……」
理子は暗い表情で首を振った。
「お父さんは随分前に亡くなり、お母さんは私を置いてどこかに消えました」
「…………」
予想外の展開だった。
聞くべきではなかったかな、といささか後悔していると、理子が詳しい話をしだした。
「お父さんは私が小学生のときに亡くなりました。お父さんは家にいることが少なかったので、あまり印象に残っていません。怒られた記憶も褒められた記憶も全然ないんです」
「弘樹は――お父さんはどうして亡くなったの? 病気? それとも事故?」
「殺されたんです」
あまりにもあっさり自然に言うものだから、俺は一瞬聞き流しそうになった。
「……え? 殺された?」
「はい」
「誰に?」
「不倫相手に」
「不倫……してたのか……」
俺の記憶の中の弘樹は高校一年で止まっている。その後、彼がどのように成長していったのかは知らない。けれど、端正な顔立ちをしていたので、当然モテただろう。
由香との関係が発覚した後の弘樹を見ていると、彼が不倫していてもなんら違和感はない。むしろ、当然というかしっくりくる。
「詳しくは知らないんですけど、お父さんが不倫していた人は一人じゃなかったそうです」
「……お盛んだな」
「ですね」
今は亡き父親のことを、突き放したような冷たい声で説明する。
「お父さんを殺した女性は、お父さんに遊ばれ捨てられたことに腹を立てて、お父さんを殺したそうです」
自業自得だな、とはさすがに思っていても言えない。
「自業自得ですね」
「……」
「お父さんが亡くなった後、お母さんは随分荒れました。私、何度もお母さんに殴られたんですよ。でも、それでも――私はお母さんのことが好きでした」
由香とは幼馴染で、三年ほど付き合っていたので、彼女のことは大体知っている(浮気するようなタイプだとは知らなかったが)。
だから、由香が娘に暴力を振るっていた、という事実は意外だった。
かつての由香は暴力を振るうような人間ではなかった。夫の死が彼女の性格を捻じ曲げてしまったのか。あるいは、俺が彼女の本質を見抜けなかっただけなのか……。
「ですが、ある日、お母さんは忽然と行方をくらませました。娘の私に何も告げずに――」
「……」
暴力を振るわれていたとはいえ、大好きな母が自分に何も告げずに蒸発した、という事実は彼女に大きなダメージを与えたに違いない。
一人、家に取り残された理子は――。
「あれ?」
そこで、疑問が浮かぶ。
「それじゃ、今は一人で暮らしてるの?」
そう尋ねながらも、アニメやマンガじゃないんだからそんなはずないだろ、と自分で否定する。理子はまだ高校生――つまり、未成年なのだから、保護者か後見人がいるはずだ。
「いえ、伯母と暮らしてます」
案の定、理子はそのように言った。
「お母さんの姉です」
「というと……亜美さんか」
「はい。やっぱりご存知なんですね」
亜美さんは俺の三つ上だから――現在三六歳か。
俺と由香は幼馴染であったけれど、家族ぐるみの付き合いはなかった。一応、由香の両親と会ったことはあるが、さほど親しくはなかった。けれど、亜美さんとはそれなりに親しくしていた。とはいえ、由香と別れてからは亜美さんとも疎遠になった。
亜美さんは由香が浮気したことをどう思ったのだろう? 彼女は真面目で正義感が強く、おそらく浮気や不倫を嫌悪するタイプの人間のはずだ。そんな彼女は妹の愚行に激怒しただろうか? それとも、案外、身内に甘かったりして擁護したのだろうか?
……いや。
もしかしたら、由香は浮気の事実を姉に隠蔽したのかもしれない。自分の非を、わざわざ言う必要なんてないのだから。
「あ、そうだ」
理子は何か名案を思い付いたように手を叩いた。
「この後、我が家に来られますか?」
「え? いやあ……」
亜美さんとは知り合いとはいえ、もう一七年くらいは会ってないし、それに理子とは今日知り合ったばかりだ。いきなり自宅にお邪魔するのは、ちょっとよろしくないように思える。
俺の言葉を濁した曖昧な否定を受け、理子はあっさりと引く。
「そうですか……。では、それはまたの機会に」
◇
ドリンクバーを飲みながら、他愛もない話をする。ただ喋っているだけなのに、どうしてこんなにも楽しいんだろう? 久しぶりに味わう楽しさだった。相手は女子高生とはいえ、女性と二人で食事をするのは随分久しぶりのことだった。前に付き合っていた女性と別れて以来だろうか。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていった。
理子はスマートフォンの画面に表示された時間を見て、「あっ」と小さく声を上げる。
「もうこんな時間。そろそろ、帰らないと……」
「そうだね。高校生があまり夜遅くまで出歩くのはよくない」
旧時代的な考え方だろうか? つい口からまろびでる言葉が、なんだかおじさんくさく感じる。でも、高校生があまり夜遅くまで出歩いていると、警察に補導されてしまうかもしれない。亜美さんにも迷惑がかかるし、心配させてしまう。
俺はスーツの上着を着ると、テーブルの片隅に置いてあった伝票を手に取った。すると、飯を奢るつもりだった理子が声をかけてくる。
「あのっ……」
「いいよいいよ。俺が支払うから」
「ですが――」
「高校生に飯を奢ってもらうほど、大人として落ちぶれちゃいないよ」
抗議しようとする理子にそう言うと、彼女は何を言わずに引き下がった。
ファミレスの代金なんてそう高くはない。二人合わせて二〇〇〇円ほどだった。だが、理子がバイトをしていないのなら、決して安くはない金額だ。
高校時代、バイトをしてなかった俺は、毎月親からもらう小遣いだけでやりくりしていた。由香とのデート代を捻出するのにずいぶん苦労した記憶がある。お年玉を使って、使い果たしたら叔父さんに事情を話してお小遣いをもらったっけな。懐かしい。
外に出ると、冷たい風が吹いていた。
「うおっ、寒っ」
俺はスーツのポケットに両手を突っ込んだ。
理子は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「朝倉さん、よければ連絡先、教えていただけませんか?」
「ああ、うん。構わないよ」
女子高生と連絡先を交換か、と少しやましい気持ちになったが、別に悪いことはしてない。俺のほうから聞いたわけでもないし。
ささっと連絡先交換を終えると、俺たちは最寄りの駅に向かって歩き出した。
街にはカップルがごまんといるが、俺たちはカップルには見えないのではないか。スーツ姿の男と制服姿の女子高生。怪しい関係に見られるかもしれない。会社の同僚に出くわさないことを祈ろう。
道すがら、自宅の最寄り駅を尋ねたが、俺の家の最寄り駅とは別の方向だった。駅の改札を抜けるとお別れである。
「あの……今度、どこかにお出かけしませんか?」
「どこかって?」
それにしても、『お出かけ』ってかわいらしい言い方だな。
「それはまだ決めてませんけど……お誘いしてもかまいませんか?」
「もちろん」
俺が頷くと、理子は破顔した。
今の俺に恋人はいないし、仕事以外は特別忙しくない。休みの日は本を読んだり、テレビを見たりとインドアな過ごし方をすることが多い。お出かけに誘ってくれたら、どこへでも行く所存である。
「それでは、その……また今度」
「じゃあね」
控えめに手を振って階段を下りていく理子に、俺も手を振り返す。
理子の姿が視界から消えると、俺もホームへの階段を下りていく。電光掲示板を見ると、次の電車が来るまであと三分ほどだ。
「お出かけ、か……」
電車を待ちながら、俺はぽつりと呟いた。
先ほどの会話を、俺は社交辞令の類だと思っている。連絡先の交換を求められたのには少し驚いたが、連絡先を交換したからといって、その後、連絡を頻繁に取り合うとは限らない。交換したはいいものの、それから一度も連絡を取っていない知人なんて山ほどいる。頻繁に連絡を取り合う相手などほんの一握りだけ。
だから、理子と会うことはもうないのではないか、とすら俺は思っていた。
向かいのホームに電車がやってきた。電車の窓越しに理子の姿が見える。理子は窓際に立つと、俺に向かって手を振った。電車が動き出し、理子の姿が横に流れていく。
俺は口元をほころばせた。傍から見ると、一人で不気味に笑っている男に見えるかもしれない。
やってきた電車に乗ると、つり革に掴まりながら俺は思った。
理子とは長い付き合いになるかもしれないな、と――。
◇
翌日――つまり、土曜日。
休日ということもあって、俺は昼辺りまでぐっすりと眠る予定だった。だがしかし、朝八時ごろにスマートフォンがぶるぶる震えて、そのバイブレーションの音であっさり目が覚めてしまった。
「んん……朝からなんだよ……?」
俺は寝ぼけ眼を擦りながら、スマートフォンを操作する。メッセージが届いていた。理子からだった。意識が瞬時にして覚醒する。
『今日、お暇ですか?』
昨日、帰りの電車を待っている間に、理子と会うことはもうないのではないか、なんて考えていたけれど、それが間違いだと早くも立証されてしまった。
『暇だよ』
もう少しいい感じの返信をしたかったが、残念ながら何も思いつかなかった。無理してかっこつけたところで、すぐにボロが出るに決まっている。それなら気取らず、自然体でいるべきだろう。
待機していたのか、すぐに既読がついた。
『亜美さんに朝倉さんのことを話したら「会いたい」と言ってました。よかったら、家にいらっしゃいませんか?』
「うん?」
昨日も同じことを言われ、そのときは断った。いきなり自宅にお邪魔するのは失礼かな、と思ったからだ。しかし、おそらく今回は、理子ではなく亜美さんが『うちにおいでよ』と誘っているのだ。二回連続で誘いを断るのもなんだしな……。
『君の自宅は』
……君?
なんかおかしいな、と思って文字を消す。でも、『あなた』もおかしいし、名字の『相馬』はできれば使いたくないし……。となると、名前の『理子』しかなくなるわけなのだが……。
『理子さんの自宅ってどこ?』
高校生に『さん』付け、か……。いや、だがしかし、名前呼び捨ては馴れ馴れしいもんな……。まあ、いいや。送信。
まるで思春期だな、と苦笑する。
すぐに自宅の住所と地図が送られてきた。まだ知り合って間もないので、理子がどういう人間か詳しくは知らないが、真面目なしっかり者のように思える。きっと、通っている高校も偏差値が高いところなんだろうな。
理子はクラシカルなセーラー服を着ていた。公立高校かと思ったが、セーラー服の私立高校もたくさんあるか。
『何時くらいに行けばいいかな?』
『何時でも構わないですよ』
『一〇時くらいに行くね』
『わかりました』
お互いに堅苦しい感じだな、と俺は苦笑した。
高校生と会話する機会なんてないので、距離感がつかめない。一七も年下なのに敬語で接するのはどうかと思うし、かといってフランクすぎるのもね。
スマートフォンをベッド上に置くと、俺はシャワーを浴びた。適当に服を着ると、トーストをコーヒーで流し込む。天気予報をチェックして、降水確率が〇パーセントであることを確認する。歯を磨きながら、鏡にうつった自分の姿をぼんやり見つめる。
別に、これからデートに出かけるわけじゃない。デートをするときは、無駄に服装を悩んだりしたものだ。今は着ていく服を悩んだりはしない。デートじゃないからか、服装に頓着しなくなったのか……。
一応、『一〇時くらいに行く』と返信したのだが、一〇時過ぎに着くのは印象がよくない。早めに着くように、そろそろ家を出よう。早め早めを心がける――大人になってから身につけた習慣だ。
準備を済ませると、家を出た。
何かお菓子でも買っていこうか、とも思ったがよさげな物がなく諦めた。そこまで、気をつかわなくてもいいか。
それにしても、妙なことになったな、と改めて思った。
元カノの娘と知り合い、彼女の自宅に招かれる。おかしな夢を見ているような気分だ。夢なら適当なところで覚めるのだが、現実だから覚めようがない。はたして、この現実はどこに向かっているのだろうか?
俺は電車の中で思索にふけりながら、窓の外の移ろう景色を見るともなく眺めていた。
◇
理子の自宅は――つまり、亜美さんの自宅は――立派な高層マンションの一〇階だった。健康のために階段で上ろうかとも思ったが、素直にエレベーターを使った。今時、オートロックのマンションは珍しくもないが、俺の家はオートロックでもなければ、マンションでもない。
部屋の前に着くと、インターホンのボタンを押す前にドアが開いた。
「いらっしゃい。久しぶりね」
出迎えてくれたのは理子――ではなく、亜美さんだった。
昔とあまり変わらないな、と俺は思った。三六歳には見えない。理子の姉だと言っても、(ぎりぎり)通用しそうだ。こうして見てみると、理子は亜美さんにも似ている。伯母と姪の関係なんだから、似ていても別におかしくはないが。
亜美さんは俺の顔をじろじろと無遠慮に見てから、
「あんまり変わらないわねえ」
「亜美さんこそ」
「あら、嬉しい」
亜美さんは朗らかに笑った。
「さ、あがって」
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎ、塵一つなさそうな廊下を歩く。綺麗な家だ。調度品のどれもがセンス良く品がある。実に調和がとれている。
リビングには私服姿の理子がソファーに座っていた。白のロングスカートに淡い黄緑のカーディガン。ゆったりと落ち着いた服装だ。亜美さんはロングTシャツにスウェットパンツというラフな服装だ。
「こんにちは」
「こんにちは」
「あ、どうぞ、隣座ってください」
理子は腰を浮かすと端に移動して、空いた場所を手で示す。
革張りの――合皮かもしれないが――ソファーに腰を下ろす。理子が座っていたからか、右半分が生温かい。右を向くと、近距離に理子の整った顔があった。彼女が左を向いたので、目が合ってしまった。なんとなく気まずく思い、目を逸らそうとするが、その前に理子が慌てて前を向いた。白い頬がほんのりと朱に染まっているように見えた。シャイなのかもしれない。
背の低いガラスのテーブルの上に、湯呑に入った温かいお茶が置かれた。テーブルの向かいに椅子を持ってくると、そこに亜美さんが腰を下ろした。
「最後に会ったのって、和真くんが高一のときだっけ?」
「ええ、確か」
「由香と別れる何日か前だったっけ……懐かしいね」
亜美さんはお茶をすすりながら、目をすがめてどこか遠くを見た。過去のことを思い返しているのかもしれない。
もう一七年も前の出来事。けれど、つい先日に起きた出来事のように、鮮明に克明に憶えている。楽しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、そのどれもが時とともに薄れていっているというのに、なぜあれだけははっきりと憶えているのだろう?
「由香が行方をくらましたことは聞いた?」
「ええ」
「ひどいわよね、虐待のあげく失踪なんて。一応、失踪後に由香から『理子のことよろしく』って連絡が来たんだけど……それだけ。こっちが何を送っても返信なし」
「由香が今どこで何をしてるのかは?」
「さあ、知らないわ」
亜美さんは呆れたように首を振った。
「死んでたり捕まってたりしてたら、しかるべきところから連絡が来るだろうから、どこかで男つくって元気に暮らしてるんじゃないかしら?」
投げやりな口調だった。亜美さんが由香のことをどう思っているのか大体想像がつく。嫌悪を超えて呆れ果てているのだ。もはや、彼女にとって妹などどうでもいいのだ。彼女にとって大事なのは――大切なのは姪の理子の存在だけ。
理子は黙ってお茶を飲んでいる。その横顔を見てみたが、驚くほどに無表情だった。無表情ではあるが、無感情というわけではあるまい。
『私はお母さんのことが好きでした』
今は、どうなんだろう? 理子は今も母のことを愛しているのだろうか? 暴力を振るい、彼女のことを捨てた、母親失格の由香のことを、高校生になった理子は未だに愛しているのだろうか? それとも、叔母と同様に呆れ果てているのだろうか?
俺だったら――俺が理子の立場だったら、きっと母のことを憎むだろう。強く強く憎むだろう。由香はそれだけのことをしたのだ。
「お母さんのことは、もう忘れましょう」
それだけ言うと、理子は露骨に話題を変えた。
「ところで、朝倉さんは彼女いらっしゃるんですか?」
軽率だったかもしれない、と俺は思った。亜美さんも同じようなことを思っているのか、苦々しい顔をしている。両親のことを思い出したり、語ったりしたくないのだろう。癒えきっていない心の傷が、ズキズキと痛むのだ。
そして、俺もまた心の傷が癒えきっていないのかもしれない、情けないことに。
「朝倉さん?」
「あ、ああ……ごめん。彼女、彼女ね。いないよ、彼女」
「そうなんですか」
ほんの少し、理子の表情が明るくなったように見えた。気のせいだろう。
「へえ、意外ね。和真くんモテそうなのに」亜美さんは言った。「あ、もしかして、振られたばかりだったりするの?」
どうして、俺が振られた前提なのか?
まあ、彼女と別れる際、俺から振ったことなど一度としてないのだから、その前提は別に間違ってはいないが。
「いえ、もう二年くらいは彼女いませんよ」
「モテないの?」
「うーん、どうでしょう……?」
俺は苦笑した。モテるわけではないが、まったくモテないわけでもない。平均値や中央値がわからないので、自分の立ち位置も具体的にはわからないが。
「まず、出会いがあまりないですからね」
「会社に女の子いないの?」
「いますけど、社内恋愛はちょっとためらわれるというか……」
「ああ、もし別れたら、いろいろ大変そうだものね」
「ええ」
「じゃあ、私と付き合っちゃう?」
小悪魔じみた微笑みを携えてそんなことを言う亜美さんに、理子はぎょっとした顔で、
「ちょ、ちょっと亜美さんっ!?」
「やだ、冗談に決まってるでしょ」
姪をからかって、けらけらと楽しそうに笑う。
冗談だとはもちろんわかっているが、俺も一瞬、ドキッとしてしまった。元カノの姉と付き合う――稀有だろうが、そういう事例もあるだろう。試しに、亜美さんと付き合うところを想像してみたが、うまく想像できなかった。
「私と付き合うなんて……ねえ?」
「あはは……」
あり得ないですよ、と強く否定するのも失礼だと思ったので、俺は愛想笑いでごまかしておいた。
「あ、それじゃ、理子と付き合うっていうのはどう?」
もう一度、亜美さんは姪をからかう。
理子はやはり慌てていて、隣であたふたしている。
元カノの娘と付き合う――まあ、世界は果てしなく広いので、そういった事例もなくはないのかもしれない。一瞬、俺は理子と付き合うところを想像してみようとしたが、やめた。それは、とてもよくないことのように思えたからだ。
「いやあ、それはあり得ないですよ――」
今度は口に出して、強く否定した。否定しなきゃ失礼だと思ったからだ。
「――ね?」
笑いながら横を見遣ると、理子がほんの少しだけ寂しそうに笑っていた。そのことに対し、俺が疑問を抱く前に、彼女は純度一〇〇パーセントの微笑みをこちらに向けた。
しかし、理子は何も言わなかった。
◇
その日は結局、夜の九時過ぎに亜美さん宅を辞した。昼食だけではなく、夕食までごちそうになってしまった。亜美さんは「泊っていってもいいのよ」と言ってくれたが、さすがにそれは断った。山川亜美の中での朝倉和真は、きっと高校一年生のまま止まっているに違いない。
高校のときと比べると、いくらか背が伸びた。体格も多少はよくなった。歳をとったので、多少は老けた。内面的にも大人になり、今では怒ることはあまりない。良くも悪くもエネルギーが減ってしまった。激情に駆られる機会がなくなったことに、一抹の寂しさを感じる。
俺はもう、高校生ではないのだ。
三〇代の冴えないサラリーマンの俺には、高校生の理子がとても眩しく見えた。
理子といえば――彼女が俺に向ける笑顔や言葉、その奥深くには何か変わった感情が垣間見えるような、そんな気がした。
気のせいだろうか? 俺の勘違いだろうか?
理子からしてみれば、朝倉和真は母の元カレである。その辺の見知らぬ男とは違う、親戚とも違う、複雑な関係性だ。変わった――特別な感情を抱くのも無理はない。
気がつくと、脳内に保存された理子の映像の数々を半ば自動的に再生していた。元カノの由香に顔は似ているが、まったく異なる魅力を持った少女。
やれやれ、と俺はつり革に掴まりながらため息をつく。
知り合ってまだたった二日の少女に、早くも惹かれつつある自分に困惑を隠せない。身の程知らずにも程があるだろ、と自分を叱りつける。
これは恋やそれに類する感情ではない――と、そう信じたい。
世の中には一七歳やそれ以上の年の差のカップルもいるだろうし、この国では男は一八歳から、女は一六歳から結婚することができる。
しかしだからといって、三〇代の男が高校生の少女に恋をするというのは……どうなんだろう? いや、別に、理子に恋しているわけではないと思う、が……。
俯きながら悶々としていると、ポケットのスマートフォンがブルブル震えた。
『今日は来てくださり本当にありがとうございました。とても楽しかったです!』
『こちらこそ呼んでくれてありがとう。一七年ぶりに亜美さんに会えたし、楽しかったよ』
『今度は二人でどこかにお出かけしませんか?』
『うん、いいよ。どこに行くの?』
『それは……来週までに考えておきます。あ、次の土曜日って空いてますか?』
『多分、大丈夫だと思う』
『それでは……おやすみなさい』
『おやすみなさい』
微妙に名残惜しくスマートフォンの画面を見つめる。見つめたところで、何かが変わるわけではない。ゲームでもしようかと思ったが、そんな気分にはなれず、スマートフォンをポケットにしまった。
今日は土曜日ということもあって、スーツを着たサラリーマンの姿は平日よりずっと少ない。その代わりに、遊びに出かけた帰りと思われるカップルがたくさんいた。手を繋いだり、お互いの体に触れたりしながら、二人だけの甘い世界に浸っている。
彼らに対して、嫌悪や嫉妬といったようなネガティブな感情は抱かない。ただ、羨ましいな、とは思う。前の彼女と別れてから、もう二年も経過している。月日が経つのはあっという間だ。
三三歳。結婚していても、別におかしくはない年齢だ。同期や学生時代の友人には、すでに結婚していて子供がいる人もそれなりにいる。
焦りはないが、俺もいつかは結婚したいな、とは漠然と思っている。
今のところ、相手はいない。恋人ができる気配は――ない。
さて、話は変わるが、来週の土曜日、どうやら俺は理子と出かけるらしい。男女が二人でお出かけするとなると、デートと言えなくもない――ような気がする。
理子が何を思って、俺と二人で出かけるのかはわからない。少なくとも、彼女になんらかの利があるから、俺と出かけるのだ。
相馬理子にとって、朝倉和真とはどのような存在なのか?
それはどんなに深く考えてもわからないし、その疑問を理子にぶつける気にもなれない。答えはそのうち自然とわかるかもしれない。
電車を降りると、自宅までの道筋を歩きながら、早くも来週の土曜日のことを考える。まるで修学旅行を目前に控えた中高生のような気分だ。
次の土曜日までには、平日五日間の仕事があるが、いつものようなブルーな気分にはならない。むしろ、仕事を切り抜けるのが楽しみですらある。いつもなら貴重な日曜日も、さっさと終わってほしいくらいだ。
「もしかしたら、俺は理子に――」
言いかけた言葉を、言わずに飲み込んだ。
言ってしまえば、それが確定的な真実になるような気がしたからだ。それを口にしてはいけない。口にするのは、なんとなく罪深いように思える。
『理子と付き合うっていうのはどう?』
亜美さんが言った言葉が、頭の中で反響する。
「駄目だ駄目だ……」
頭をぶんぶん振って、理子について考えるのを打ち切ると、無心になって自宅まで歩いた。いつもならなんとも思わない満月が、無性に綺麗に思えた。
◇
そして、翌週の土曜日。
俺は理子とショッピングセンターへとやってきた。
休日ということもあって、狂いそうなほど人で賑わっている。異常なほど混雑している。カップルはもちろんのこと、家族連れや学生たちも多い。
本日のメインイベントは映画鑑賞である。事前に席の予約もしておいたので、映画館がいくら混んでいようと関係ない。
映画は一〇時からおよそ二時間。完全に偏見だが、女子高生は恋愛映画を好むものだと思っていたので、理子から「ホラー映画を見ませんか?」と言われたときは正直意外に思った。
「理子さん、ホラー好きなの?」
「いえ、普段はあまり見ないのですが……」
どうやら、友達に「この映画、面白いよ」とすすめられたようだ。なるほど、一人でホラー映画を見るのが怖いから俺を誘ったのか。だが、俺の他にも誘う相手はいるだろう。まさか、友達全員が既にそのホラー映画を見ている、なんてことはないだろうし。
「ふうん。ホラー、ねえ……」
「朝倉さん、ホラーは苦手ですか?」
「いや、苦手ってわけではないよ。ただ、普段はあんまり見ないな」
ホラーも恋愛もあまり見ない。俺が見るのは、もっぱらド派手なアクション映画ばかりだ。タイトルや予告映像を見た感じ、その映画はかなり怖そうではある。
九時五〇分まで、映画館の中に設置された椅子に座って、のんびり喋りながら待っていた。入場アナウンスが流れると、チケットを片手に入場した。
ポップコーンやジュースは買っていない。買おうか尋ねたら、「大丈夫です」と首を振られた。これから見るのはホラー映画なので、驚いた拍子に手に持ったポップコーンをぶちまけたりしたら大変だ。そう考えると、買わなくてよかっただろう。
シアターに入って何分かすると、映画の予告編や盗撮禁止の映像などが流れ、その後に本編が始まった。前方の巨大な画面以外に、光源と呼べるようなものはない。
暗い中、隣に座る理子を見てみると、彼女は微動だにせず、画面をじっと見つめていた。見習って、俺も映画を見ることに集中する。
物語の序盤はいささか退屈で盛り上がりに欠けた。ホラー映画らしい、見る者を戦慄・驚愕させるようなシーンはない。ただ、何かが起こるような不気味な雰囲気は漂っている。
やがて、異形の存在が突如として現れ、画面内外の人々を恐怖へと誘った。
「きゃっ」
理子は思わず叫んでしまい、すぐにそのことを恥じるかのように口に手を当てた。叫んでいるのは彼女だけではないので、とくに目立ちはしない。
俺も驚いてはいたが、声を出すほどではなかった。背もたれに深くもたれかかり、肘置きに手を置くというリラックスした状態だ。
物語のボルテージが上がるとともに、恐怖の煽りも激しくなってくる。
「きゃっ」
何度目のかわいらしい悲鳴だろう。理子の細い手が肘置きへ――その上に置かれた俺の手をぎゅっと掴む。油断していたこともあり、俺はひどく驚いた。何秒かして、理子は俺の手を掴んでいることに気づき、
「す、すみません……」
慌てて囁くと、すっと手を引いた。
それから、理子の挙動がちょっとおかしくなった。うまく説明できないのだが、集中力がぷつんと切れたのか、映画に集中しきれてないように見える。ちらちらと時折こっちを見てくる。理子が俺を意識しているのが伝わり、俺も理子を意識してしまう。
気がつくと、映画が終わっていた。
一応、トイレに行ったり眠ったりせずに、およそ二時間フルに見たはずなのだが、映画の内容をあまり覚えてない。いや、正確には覚えてはいるのだが、その輪郭がぼやけているというか……理子同様に集中しきれなかったのだろう。
「怖かったですね」
「そうだね。理子さん、何度も悲鳴上げてもんね」
「わ、忘れてくださいっ」
理子は恥ずかしそうにそう言うと、俺に顔を背けて立ち上がった。そして、シアターの階段を下り――
「きゃっ」
――転んだ。
見事な転び具合に俺は不安になったが、どうやら怪我はなさそうだ。
「……大丈夫?」
尋ねると、理子は無言で頷いた。
俺が手を差し伸べると、その手を握って理子は立ち上がった。そのまま一歩二歩と歩き、それから、先ほどのように慌てた様子で手を離すと、足早に階段を下りていった。
そんなに照れなくていいのに、と俺は思った。
◇
一〇時から二時間の映画を見たので、映画館を出たときには一二時――つまりは昼食時になっていた。俺と理子はショッピングセンター内にあるお洒落なイタリアンレストランで食事をとった。思えば、彼女と出会った日に行ったのもイタリアン(ファミリー)レストランだったな。
理子と出会ってから、もう随分と月日が流れたような気がしたが、実際はまだ一週間ほどしか経っていない。会った日だけだと、たったの三日。俺の人生でトップクラスに濃密な三日間だと思う。
昼食を終えると、ショッピングセンター内の様々な店を二人で巡った。これはもう、デートといっても過言ではない――と、そう俺は思う。
俺は楽しかったが、理子も同様に楽しんでいるのだろうか? ふと疑問に思った。顔を見る限りでは、彼女は柔らかな笑みを浮かべていて、とても楽しそうに見える。それが、本心からくるものだと思いたい。
気がつけば、青一色だった空が濃紺に染まっていた。夜空にはたくさんの星々が自己主張するように光っている。
「理子さん、夕食どうする?」
夜空を見るともなく眺めている理子に、俺は尋ねた。
歩き疲れたので、喫茶店のテラス席に座って休憩していた。四人掛けの席の空いている椅子二つには、服などが入った買い物袋が置いてある。そのほとんどが理子に買ってあげたものだ。普段、それほど金を使わないので、たまにはこうして思い切り散財するのも悪くない。
「そうですね……えっと……」
理子はスマートフォンをいじっている。亜美さんとやり取りしているのだろう。
「亜美さんが夕食作っているみたいなので、家で食べようかなと思います」
「そっか。それじゃ、そろそろ帰ろうか」
俺はぬるくなったコーヒーを一息に飲み干すと、紙コップをごみ箱に捨てた。
荷物を持つと、駅に向かって歩き出す。二人で並んで歩いていて気づいたのだが、俺のほうが歩くスピードが速いらしい。理子にあわせて、意識してゆっくりと歩く。
「あの、朝倉さん……」
「ん、なに?」
俺は横を向いた。理子の大きな瞳が、上目遣いにこちらを見つめている。
「私のこと、呼び捨てで構わないですよ。私のほうが一七個も年下なんですから」
「んー……、呼び捨てだと馴れ馴れしくない、かな?」
内心では呼び捨てだけど。
ゆるゆると理子は首を振って、
「馴れ馴れしくて大丈夫です」
「そっか。じゃ、これからは『理子』って呼ぶことにするよ」
「私も――」
「え?」
周囲の雑音にかき消されて、よく聞こえなかった。理子の声は透き通っていて、か細いのだ。
もう一度言ってくれ、と耳を近づける。
「私も朝倉さんのこと、『和真さん』と名前で呼んでいいですか?」
「いいよ」俺は即答した。「等価交換」
何がおかしいのか、理子はくすりと笑った。
駅の改札を抜けると、理子と別れた。別れ際に彼女は「和真さん、また来週」と手を振った。また来週? これからは、毎週土曜日は理子とお出かけすることになるのだろうか? だとしたら、それは悪くない――というか、むしろ嬉しい。
「和真さん、か……」
ふっと頬を緩めて笑うと、俺はやってきた電車に乗った。
◇
それから、毎週のように理子と会った。行き先は様々で、理子の自宅にお邪魔することもしばしばあった。亜美さんとも、中学高校時代を彷彿とさせる関係に戻った。なんだか、彼女が実の姉のように思えた。
平日の夕方から夜にかけて、理子と会うこともあった。知り合ったときのように、俺はスーツ姿で理子は制服姿。会社の同僚や上司に出くわしたら、どう言い繕おうか悩んだものだったが、幸い今のところはまだ誰にも見られていない。
俺と理子の関係性は言葉に表せない不思議なもので、それはしばらくの間変わらなかった。ずっと変わらないものだと思っていたが、『万物は流転する』なんて言葉があるとおり、きっと変わらないものなんてどこにも存在しないのだろう。
均衡が崩れたのは――という表現はおかしいのかもしれないが――およそ四か月後のことだった。
◇
季節は冬。二月の半ば――バレンタインデー。
大人になってから、バレンタインデーとはあまり縁がなかったので、二月一四日と言われても、最初何の日かわからなかった。何秒かフリーズしてから、ああそうか、今日はバレンタインデーだったな、と思い至った。
「これ、よかったら……」
理子から手渡されたのは、綺麗にラッピングされた長方形の箱だった。軽く振ってみると、カタカタと音がする。バレンタインデーに渡すものといえばチョコレートだ。市販のものか、手作りか――。
「ありがとう」
礼を言って、カバンにしまう。家に帰ってから食べることにしよう。
「一応、その、手作りだったりします」
「へえ、嬉しいな」
「……本当に、嬉しいですか?」
どことなく不安げな表情で、理子が尋ねてくる。
「嬉しいよ。たとえ義理だとしてもね――」
「義理じゃありません」
彼女にしてははっきりとした強い口調で、俺の発言を否定した。
バレンタインチョコには『本命チョコ』と『義理チョコ』――二種類のチョコがある。義理チョコは家族や友人などの常日頃お世話になっている人たちへ、そして本命チョコは好きな人だけに――。
……好きな人?
睨みつけるかのように見つめてくる理子のことを、俺も同じように見つめてみる。意志の強そうな瞳は、揺れることなく一点から動かない。
冬の夜は寒い。お互いに吐く息が煙草の煙のように白い。
大きな橋の真ん中で、俺と理子は立ち止まって話をしている。車は時折通るが、歩道を歩く人の姿はない。遠くにはライトアップされた街並みが、ロマンティックに輝いている。
「義理じゃないとしたら――」
そこで言葉を切ってから、一瞬目を逸らして夜景を眺める。
「――このチョコは?」
「義理じゃなかったら本命しかないです、よね?」
「理子、君は――」
「私の気持ち、気づいてますよね?」
「……」
俺は何も答えなかった。肯定も否定もせずに、もう一度目を逸らした。
欄干にもたれかかりながら、下を流れる夜の川を見た。薄暗いので、魚がいるのかどうかもわからない。
「私も、和真さんが私のことをどう思っているのか、わかっているつもりです」
そこまで言われても、俺は何も言わなかった。
煙草の煙を吐き出すような深いため息をつくと、ようやく言葉を発する気になった。
「俺は大の大人で、君はまだ高校生だ」
「知ってますか? 日本では女性は一六歳から結婚できるんですよ?」
ふふっ、と俺は笑った。
理子は笑わなかった。
「うん、でもまだ君は未成年――子供だ。世の中には一七歳差やそれ以上の年の差のカップルだっているだろうけど、それは大人になってからの話だ。大人の俺が高校生の君と付き合えば捕まりかねない」
そう言って、俺は手錠をかけられたポーズをした。
俺は法に疎いので正確なところはよくわからないが、大人が未成年――それも高校生――と付き合うのはいろいろとまずいだろう。
「わかりました」
理子は大きく頷いた。
「そう、わかってくれた? もしも、理子が大人になって、それでもまだ俺のことを好きでいてくれたら、そのときは――」
「だったら、保護者の――亜美さんの許可をとればいいだけの話ですよね」
「……う……んん?」
俺は混乱し、ぽりぽりと頭をかいた。
確かに、保護者の許可が取れれば――そして、結婚を前提としたものであれば――未成年との交際もオーケーだったような気がするが。
亜美さんの許可をとる? そんなこと、考えてもみなかった。知り合いとはいえ、自分とそれほど年の差のない男が、姪と付き合うことを許可するのか?
だいぶ前に『理子と付き合うっていうのはどう?』と言っていたが、あれはちょっとしたジョークで、それが実現しそうになったらさすがの亜美さんも困惑し、反対するだろう。
「善は急げです。今すぐ私の家に行きましょう」
有無を言わさず、俺を引っ張っていく理子。
善は急げの使い方、間違ってないか――そう思いながら、理子のなすがままに彼女の自宅へと連れていかれた。
◇
「ただいま」
と、ドアを開けながら理子は言った。
「おかえりなさい――ってあれ? 和真くん?」
「あ、どうも」
俺はぺこりと頭を下げた。
「どうしたの、こんな時間に? 理子を送ってくれたの?」
「え? ええ、まあ、なんというか……その……」
俺は亜美さんから目を逸らして、助けを求めるように理子を見た。
理子はとりあえず中に入るように俺を促すと、ドアをしめて靴を脱いだ。それから、緊張からか顔をこわばらせて、
「少し、話したいことがあるんです」
「話したいこと?」
「はい」
理子は大きく頷いた。
その真剣な面持ちから何か察したのか、亜美さんはこの場で深く追求しようとはせず、
「……まあいいわ。和真くん、あがって」
と俺に優しく言うと、くるりと身を翻してリビングへと戻っていった。
理子の『話したいこと』が何なのか、亜美さんはわかっているのだろうか? 彼女は鈍感な人ではないだろうから、俺が夜に突然訪問してきたことなどから、すべてを理解している可能性だってあり得る。
理解していたとして――亜美さんはどんな回答をするのだろうか?
ダイニングの椅子に座ると、いつものように温かいお茶を出してくれた。俺の隣に理子が座り、向かいの席に亜美さんが座る。
亜美さんはお茶を一口すすると、
「それで? 『話したいこと』って一体何なのかしら?」
と理子に尋ねた。
「……まあ、なんとなく想像はつくけれど」
ぼそっと付け加えた。
「えっと、単刀直入に言うと……」
理子は目をいくらか泳がせた後、亜美さんを見据えて、
「和真さんとの交際を認めてください!」
回答はなかった。
亜美さんはお茶をがぶがぶ飲むと、腕を組んでため息をついた。
誰も口を開かなかったので、空間は凍り付いたかのように静かだった。正直、気まずいのだが、俺が言葉を発する場面ではないと思ったので、姿勢を正して黙っていた。
「つまり」
やがて、亜美さんはぽつりと言った。
「ついさっき、あなたは和真くんに告白した、と」
「……はい」
「それで、和真くんが私の許可をとってくれ、みたいなことを言った?」
「ええ、まあ……」と俺。
「理子は高校生だから、大人の和真くんと付き合うのなら、保護者の私の許可があったほうがいい、か……。うーん……」
困ったように、体を揺らしながら唸る。
「あなたが和真くんに好意を持っていることは、もちろんわかってたわ。あなたが誰を好きになり、付き合うかはあなたの自由。でもね、和真くんはあなたの一七個年上なのよ? そのこと、きちんと真剣に考えた?」
「はい」
「そのうえで――一七の年の差のことを考えたうえで、それでも和真くんと付き合いたい、と?」
亜美さんの質問に、理子はもじもじしながら、
「その……こんなこと言うの、とても恥ずかしいんですけど……愛に年の差は関係ないというか……」
ふふっ、と亜美さんは思わずといった感じで笑みを漏らす。
「愛に年の差は関係ない――まあ、確かにそうね」
どうしようかな、とでも言いたげに、亜美さんは天井を見上げる。
俺もサポートというかフォローというか、何かしら言ったほうがいいんじゃないか。でも、何を言えばいいんだろう……?
結局、俺が何かを言う前に、亜美さんは結論を出した。
「いいわ。あなたたち二人の交際を認めましょう」
「あ、ありがとうございますっ!」「ありがとうございます」
理子と俺は同時に頭を下げた。
しかし、話はこれで終わったわけではなかった。山場は越えたが、話はまだ続く。
「ただし、一つだけ条件があるわ。この条件をのめないようなら、交際は認めないわ」
「条件?」
と、俺は尋ねる。
ええ、と亜美さんは頷く。
「健全な交際を心掛けなさい。理子が高校生の間は手出しちゃ駄目よ、和真くん。そういうのは大学生になってから。高校の間は手を繋ぐくらい――いってもキスまでよ。わかった?」
「はい、わかりました」
たとえ亜美さんに言われなくても、高校生に手を出すつもりなんて毛頭なかった。なので、そのたった一つの条件も、まったく苦ではない。
「あ、それともう一つ……」
たった今思いついたのか、亜美さんは急いで付け加える。
「絶対に結婚しろ、とまでは言わないけれど、高校生と――理子と付き合う以上は、将来的に結婚するという選択肢を念頭に置いておいてね」
「わかりました」
「――以上! 話終わり!」
亜美さんは大きく両手を叩いて破顔すると、
「和真くん、今日は泊っていきなさい」
「え、いいんですか?」
「ただし、理子に手出しちゃ駄目よ。――私に手を出すのはオーケーだけど」
くすっと笑いながら冗談を口にすると、亜美さんはキッチンへと向かった。夕食を作ってくれるのだろう。
亜美さんの作った料理はうまい。姪の理子の作った料理がうまいのかは知らない。理子の手作り料理を俺はまだ食べたことがない。
いや、そういえば――。
俺はカバンから、先ほど理子にもらったチョコレートを取り出した。乱暴に開けるのは気が引けるので、ラッピングをゆっくりと丁寧に剥がしていった。ぱかっと箱を開けると、丸っぽい形の不揃いなチョコレートが六個入っていた。
理子は何も言わずに、ただにこにこと笑みを浮かべ、俺がチョコレートを食べる様子を観察していた。
「いただきまーす」
チョコレートを一個つまんで口の中に入れる。
もぐもぐと咀嚼した瞬間、口の中全体におぞましい苦味が広がる。
「おいしい、ですか?」
理子が上目遣いに尋ねてくる。
俺は、俺は――。
「ユニークな味だね」
適当にごまかした。
どうやら、亜美さんと違って、理子は料理が不得手のようだ。
二月一四日。
世間一般的には、バレンタインデーと呼ばれる日。しかし、俺と理子にとってはバレンタインデーというだけではなく、記念すべき『交際記念日』として記憶に刻まれた。
◇
こうして、晴れて(?)俺と理子は恋人関係となったわけなのだが、しかしだからといって、日常が劇的に変わるわけではない。『お出かけ』の名称が『デート』に変わったが、内容自体に変わりはないし、もちろんスキンシップが増えた――なんてこともない。
会社の同僚に「新しい彼女できた?」と問われても、素直に「できたよ」と答えることもできないし、理子も同様に友達に俺のことを伝えてないようだ。
仕方がない。後数年すれば――理子が大人に、最低でも大学生になれば――、堂々と「付き合ってます」と言うことができる。それまでの辛抱だ。
理子と付き合いだしてから、およそ一か月。今日も今日とてデートである。
デートの主導権――という表現で合っているだろうか――は、理子が握っている。デート先はほとんど毎回、理子が指定する。
「今日はどこに行く?」
「前々からずっと行きたかった場所が一つあるんです。よかったら、そこに行きませんか?」
「その、行きたかった場所って?」
「昔、私が住んでいた家です」
昔住んでいた家――それはつまり、理子が両親と暮らしていた家。由香と弘樹と理子の三人で……。それを見て、一体どうするのか……? いや、ただ単に見たいというだけなんだろう、きっと。
「一軒家? マンション? アパート?」
「一軒家です」
「住所は?」
俺が尋ねると、理子はつっかえることなく、すらすらと滑らかに答えた。なるほど、そう遠くはないな。目的地へは電車で向かおう。
「一緒に行ってくれますか?」
「もちろん」
俺と理子は手を繋いで電車に乗った。
手を繋ぐようになったのは最近のことである。昔付き合っていた女性とは交際一か月でもっと進展したので、学生時代の初々しさを思い出す。理子といると自分も高校生であるかのような気分になれる。それはきっと、すばらしいことだと思う。
おそらく、理子は一人で旧自宅に行くことがためらわれたので、俺に一緒に行くことを求めたのだ。物理的に行くことが難しい場所ではない。一人で行くには心理的なハードルが高かったのだろう。良い思い出ばかりというわけではないのだから。
最寄り駅に着くと、スマートフォンの地図アプリを見ながら目的地まで歩く。
「懐かしい……。あ、あそこのたい焼き屋さん、昔よく行ってたんですよ」
駅前商店街には、行きつけのお店がいくつかあったようだ。たい焼き屋でたい焼きを二つ買って食べながら歩く。
「あれ? あそこにあった定食屋さん、なくなっちゃったんですね……」
時が経てば、商店街の様相だっていくらか変わる。街も人みたいに日々変化していくものなんだな、なんて漠然と思った。
駅前商店街を抜けると、静かで落ち着いた住宅街が広がっている。
二〇分近く歩いただろうか。目的地――相馬一家がかつて住んでいた家に到着した。
だが――。
「マンション、ですね……」
そこには、建てられてからまださほど経ってないだろう綺麗なマンションがそびえ立っていた。理子の旧自宅はどこにもなかった。
「そうですよね……さすがにもう残ってないですよね……」
理子は心底がっかりしたように深くため息をついた。
「私の住んでいた家、ぼろかったですから」
周囲を見回してみる。他のマンションや一軒家も、新築のものが多い。他の古い家も同じように取り壊されてしまったのだろう。住宅街も肉体のように新陳代謝していくのだ。
「すみません、ついてきてもらったのに……」
「いや、気にしないで」
「……駅に戻りましょう」
駅への道中、理子はずっと黙っていたが、その間に気分をうまく転換させたようで、駅に着く頃にはいつもの彼女に戻っていた。
せっかくここまで来たのだから、どこかで遊んでいこう――そういうことになり、結局夜の八時頃までのんびり遊んでいた。
そろそろ帰ろうか、となったときに――理子のスマートフォンが震えた。
「亜美さんからです」
「そろそろ帰ってこい、みたいな感じ?」
「いえ…………え」
理子はスマートフォンの画面を見て絶句していた。
そのただ事ではない様子に、俺は横から画面をのぞき込む。そこには――。
『由香が帰ってきた! 理子、早く帰ってきて!』
◇
由香が帰ってきた……? どうして、今更? 一体、何が目的だ……?
大量の疑問符が頭を埋め尽くす。混乱しているのはもちろん俺だけではなく、理子もまた同様だった。彼女のほうが混乱度が高いようで、先ほどからずっとフリーズしている。脳がショートしてしまったのかもしれない。
考えても埒が明かないので、俺は理子を引っ張って電車に飛び乗った。
きっと、混乱しているのは亜美さんもだろう。今更、由香と会ったところで、俺の人生にはなんら変化はないだろう。しかし、理子は違うかもしれない。理子にとって由香は実の母親で、もしかしたら今後、彼女は伯母ではなく母親と暮らすことになるのかもしれない。選択するのは理子自身だ。
どれだけ頑張ろうと、電車の到着時刻は変わらない。『早く帰ってきて』と言われたものの、理子の自宅に着いたのは、一時間以上してからだった。
インターホンのボタンを押すと、すぐにドアが開いた。
「おかえり、理子。和真くんも」
「亜美さん、由香が帰ってきたっていうのは――」
「そう。詳しいことはまだ聞いてないから、早く二人とも中に入って」
亜美さんは両手で俺たちを引きずり込む。実の妹とはいえ、長い間顔を合わせてなかったから、一人だけで相手するのは気まずかったのかもしれない。
「早く早く!」
やたらと急かす。
廊下を三段跳びの選手みたいに駆け抜けていく亜美さんの後を、俺と理子もつられて早足でついていく。
ダイニングの椅子に、由香が俯き加減に座っていた。
裕福で幸福な生活を送ってなかっただろうことは、服装や表情などからよくわかる。彼女が由香であることは一目見ただけでわかったが、俺の記憶に残っている由香とはまるで違った。なんというか、不幸なオーラが全身からにじみ出ているのだ。
「お母さん……?」
理子の知っている由香の姿とも乖離していたようで、まるでよく似た人物に話しかけるかのようにおそるおそるといった様子で、なおかつ疑問形だった。
娘の声に、俯いていた由香が顔を上げる。
「理子、久しぶりね」
ぎこちない笑みを浮かべながら言った後、娘の隣に立っている男(朝倉和真)を見て、
「……えっ」
目を丸くさせて、絶句した。
その反応を見て、俺は確信した。俺が誰なのか、由香はわかっている。
「えっ、あっ……か、和真だよね……? どうして……?」
「……久しぶり」
「もしかして、私に会いに来てくれたの?」
「違う」
俺は首を振って否定した。
由香に会いに来た? そんなわけ、ないじゃないか。
「だったら――」
「いろいろあってね、理子と和真くんはお付き合いしてるのよ」
亜美さんが簡単に説明する。
俺と理子の関係性を知って、由香は軽いパニック状態に陥ったようで、
「は? え? 付き合ってる? 理子と和真が? どうして? ていうか、それ犯罪じゃないっ!」
「保護者の私が二人の交際を認めたんだから、別に犯罪ってわけじゃないでしょ」
「お姉ちゃん、どうして交際を認めたのよっ!?」
どん、とテーブルを叩いて声を荒げる由香を、亜美さんは一旦無視して、
「二人とも、突っ立ってないで座りなさい」
そして、自分は由香の隣に座る。
俺と理子は顔を見合わせて頷くと、向かいの席に並んで座った。瞬間、由香はもう一度同じ質問を姉にする。
「お姉ちゃん、どうして理子と和真の交際を認めたのよっ!? 和真は……その、私の元カレだし、それに一七も年の差があるのよ? おかしいでしょ!」
「私からしたら、娘を虐待して、挙句の果てに何も告げずに失踪するあんたのほうが、ずっとおかしいと思うけれどね」
ぐうの音も出ない正論に、由香は一瞬言葉を詰まらせる。
「あれは……違うのよ。弘樹が殺されて、私、精神的に不安定だったの。だから――」
「だからって、娘を虐待していい理由にはならないでしょ?」
「……」
「お母さん、私もう気にしてないから……」
理子が言葉をかけると、由香は嗚咽を漏らした。
「本当に……あのときは、ごめんなさい……」
後悔と反省をしているのなら、まだ救いようがある。これで開き直って逆切れでもしようものなら、さすがの俺もキレていたかもしれない。
「で、失踪してどこで何やってたのよ?」
亜美さんが問いかける――いや、問い詰める。
「それは……」
「言えないような犯罪まがいのことでもやってたの?」
「え、ち、違うよ! 彼氏と暮らしてたの」
「彼氏?」
当然のことながら、その『彼氏』とやらの存在は、亜美さんも俺も理子も知らない。弘樹はとっくの昔に亡くなっているのだから、由香に彼氏がいても別におかしくはないし、倫理的にまずいわけでもないのだが……。
「その彼氏は?」
「捕まった」
「……は? 捕まったって……逮捕されたって意味、よね?」
「うん、そう……」
「……罪状は?」
「詐欺、とか」
この言い方だと、他にもやらかしてるな。
彼氏が逮捕された、という話を聞いて、亜美さんはため息混じりに頭を抱えた。
「それでね、今日、こうしてお姉ちゃんのところにやってきたのは――」
由香は椅子から立ち上がると、フローリングの床に正座し頭を下げる。
「――お金、貸してください」
◇
「……金?」
亜美さんはうんざりした顔で問いかける。
肉親といえども、金銭の貸し借りは、その後大きな軋轢を生みかねない。俺の友人にも金銭問題でひと悶着あった奴が何人かいる。
金の切れ目が縁の切れ目、なんてことわざもあるくらいだし。
「そう、お金! 三〇〇万ほど貸して!」
「そんな大金、貸せるわけないでしょ」
亜美さんは突き放したような言い方をした。
三〇〇万円という額はそれなりの大金ではあるが、決して貸せない額ではない(俺は)。亜美さんの収入がいかほどかは知らないが、おそらく俺よりは稼いでいるに違いない。だから、彼女にとっても物理的には貸せない金額ってわけではないと思うが……。
しかし、心理的には貸せない――貸したくないに違いない。
由香に三〇〇万円貸す――実質的にはあげるようなものだ――くらいなら、その金を理子に使ってあげたい。それが人情(?)ってものだ。
「お願いっ!」
由香は諦めずに懇願する。
「借りた金は絶対に後で返すから!」
「私、軽々しく『絶対』って言葉を使う人、信用してないの」
やはり、亜美さんは突き放す。
姉に頼んでも駄目だ、と悟ったのか、今度は俺に抱きつくように取り付いた。
「和真っ!」
「悪いが俺も金は貸せない」
俺は容赦なく拒否した。
「大体、三〇〇万を何に使うんだ? あれか、捕まった彼氏の保釈金とかか?」
「ううん」由香は首を振った。「借金があるの……」
「働いて返せ」
俺も突き放したような言い方になってしまった。
「無理よ、働いて三〇〇万も返すなんて……」
「無理じゃない。節約して切り詰めて生活すれば、一〇年足らずで返せる金額だろ」
そう、無理難題ではない。三〇〇〇万円ならともかく、三〇〇万円なら決して返済不可能な金額ではない。
しかし、それに対し、由香は――。
「お腹に子がいるの」
と、言った。
突然の告白に、俺も理子も亜美さんも驚いた。
「その、捕まった彼氏の子なのか?」
「多分、そう」
「……いや、それでも、子供を産んでから、頑張って働けば――」
「嫌よ、そんな働くなんて」
本音がぽろりとこぼれ落ちる。
これには俺も亜美さんも苦笑せざるを得ない。
そして、黙って話を聞いていた理子は、母親に幻滅したのか死んだ目をしていた。なんだかんだで母に再会できて嬉しかったんだと思うが、その気持ちは既にしなびて消えてしまったようだ。同情を禁じえない。これなら、一生会わないほうが幻想を抱けて幸せだっただろう。
「ねえ、誰でもいいからお金貸してよ」由香は言った。「貸してくれないと、私これから生きていけないよ……」
亜美さんが「帰りなさい」と言おうと口を開きかけたが、その前に理子が勢いよく立ち上がった。がたん、と椅子が後ろに倒れる。
「……理子?」と由香。
パンッ、と鋭い音。
理子の手が、由香の頬を打ったのだ。
「な、何するのよ、母親に向かって――」
「あんたなんか母親じゃないっ!」
理子は怒鳴った。いつもとはまるで異なる口調。よほど激怒しているのだろう。
「自分で借りた金くらい、自分で働いて返せ!」
どん、と母親の胸を両手で突いた。
ぽろぽろ、と大粒の涙が瞳から流れている。
「あんたがどうなろうと私たちの知ったこっちゃない! 帰れ! もう二度と、私たちの前にあらわれるな!」
普段、ここまで声を荒げることがないのか、最後の方は声がかすれていた。
娘の拒絶に――絶縁宣言に、さすがの由香も動揺を隠せず、
「ごめん……ごめんね、理子……。お母さんのこと、許して……」
「……」
理子は返事をせず、ただ黙って首を振るだけだった。
もうこれ以上、由香と会話をしたくないのか。それとも、これ以上、母親に失望したくないのか――。
「……わかった。帰る」
由香はぽつりと言うと、玄関へと幽霊のような仕草で歩き出した。
その場に崩れ落ちた理子を、亜美さんはそっと抱きしめ、頭を優しく撫でて慰めてやる。理子は亜美さんの胸の中でわんわんと泣いた。
亜美さんが、理子の実の母親のように見える。由香は産みの親ではあるけれど、育ての親としては失格で――理子にとっては亜美さんが育ての親なのだろう。
俺は由香の後を追った。廊下に出た彼女に声をかける。
「由香」
「……和真」
俺は財布の中に入っていた札をつかみ取って、由香に押し付ける。
それは餞別――あるいは、少なすぎる手切れ金。
「これは餞別みたいなもんだ。三〇〇万には全然足りないが、受け取っといてくれ」
「……ありがと」
くしゃくしゃになった札を、由香はポケットの中に乱暴に突っ込む。
「由香、娘のことを思うなら、もう二度と理子の前に姿を現すな」
「……うん」
「約束だぞ」
「わかった。もう二度と、理子の前には現れない」
その言葉が、真実であることを祈ろう。
「和真、理子のこと幸せにしてあげてね」
「言われなくてもそのつもりだ」
どの口が言うんだよ、と俺は内心でため息をついた。本来なら、母親のお前が幸せな人生を送らせなければならないというのに。どこまでも自分本位な奴だ。
人の本質は変わらないもんなんだな、と苦笑する。最後に娘を想う言葉が出たのは、せめてもの救いではあるが。
「約束、絶対に破るなよ。じゃあな」
ドアを閉めようとした俺に、由香が「待って」と声をかける。
「もう二度と会わないだろうから、最後に……高校のときのこと、本当にごめんね」
ふん、と軽く笑って俺は言う。
「そんな昔のこと、今更謝られても遅すぎるわ」
そして、俺はドアを閉めた。
それが最後に見た由香の姿で――だから、その後、彼女がどうなったのかは知らない。子を産んで育てているのか、そもそも、子供ができたという話が嘘だったのか。捕まった彼氏とはどうなったのか――。
何も、知らない。
◇
亜美さんは引っ越そうか真剣に考えたようだが、一月経っても二月経っても、由香が現れる気配がなかったので、結局引っ越すことはなかった。
季節は春。
理子は高校二年生になり、俺は特に何も変わらなかった。
相変わらず俺と理子はデートを重ね、そして相変わらず俺たちはプラトニックな関係だった。それは、亜美さんとの約束だったし、俺としても性急に関係性を深める必要性は感じなかったからだ。でも、キスくらいはそろそろしてもいいんじゃないだろうか――。
そんなことを考えているうちに、季節は夏へと移行していた。
心の傷はすっかり癒えたようだったが(時間が解決してくれたのだと思う)、理子は母親の話を一切しようとはしなかった。俺もあえて由香の話をしようとはせず、ふとした瞬間に由香の名前を出さないように、細心の注意を払っていた。
六月二六日。
理子の誕生日がたまたま休日だったので、俺たちは事前に予約した高級なイタリアンレストランに行き、そこで誕生日プレゼントとして購入したネックレスを渡した。
「うわあ……綺麗」
理子は惚れ惚れとした顔で呟いた。
「ありがとうございます、和真さん」
「うん、どういたしまして」
「来年は――」
理子は広げた左手の甲を見つめながら、
「――指輪がいいな」
本気とも冗談ともつかない口調でそんなことを言った。
「指輪はまだ早いでしょ」
「ふふっ。そうですね」
おそらく冗談だったようで、くすくすと上品に笑った。
食事を終えると、夜の街を二人で歩いた。あてもなくふらふらと歩いていたつもりだったが、気がつくと理子と出会った公園にたどり着いていた。
「あ、ここ……」
「うん、俺たちが出会った公園だね」
俺は繋いだ理子の手を、先導するように引っ張った。
「寄っていこう」
「はい」
公園の中に入っていく。
思えば、あのとき理子が不良少年たちにナンパされてなかったら、俺が助けに入ることもなく、助けてなければ理子と会話することもなかっただろう。点と点が結びついて線になるように、いくつかの偶然的な要素が結びついて道になり、理子と付き合っている今この瞬間が存在する――。
理子との運命的な出会いは、数多の偶然によって作られたのだ。
――なんてことを一瞬でも考えてしまった俺は、意外とロマンティストなのかもしれない。今年で三四になる大の大人が恥ずかしい。
理子と知り合うきっかけになった、あの不良少年たちには感謝しなければならない。とはいえ、彼らと再会なんてしたくはないが。
幸い、公園に人気はなかった。涼しい風が緩やかに吹いている。
すべての始まりの地といえるベンチは、今もひっそりと佇んでいる。
そう、仕事帰りにここに座ってビールを飲んでいたら、たまたま一人の女子高生が視界に入ったんだ。それが――理子だった。
「座ろうか」
「はい」
ベンチに座ると、遠くに噴水が見えた。当然のことながらライトアップされてない、濁った汚い水が弱々しく噴き出している噴水だった。決して良いロケーションではないな。
「ねえ、理子。いつ頃結婚したい?」
俺は前々から気になっていた質問をした。
「え? そうですね……」
理子は噴水を見るともなく見つめながら考える。
「理想を言えば、今すぐにでも結婚したいですけど、それは無理でしょうから……」
そこで、俺のことをじっと見つめて、かわいらしく小首を傾げる。
「ですから、高校卒業と同時に――というのは駄目ですか?」
「いや、駄目じゃないけど……そんなに早く結婚しちゃっていいの?」
「だって、大学卒業してから結婚となると、あと六年近くも待たなきゃじゃないですか」
抗議するように、むっとした顔で理子は言った。
「確かに六年は長いなあ……うーむ……」
結婚する頃には、四〇歳がすぐ目前に迫っている。
だがしかし――今はお互いに愛しあっていても、二年後三年後はどうかわからない。俺が理子を嫌になるより、理子が俺みたいなおじさんを嫌になる可能性のほうがずっと高いと考えられる。
結婚してすぐに離婚すれば、三〇代の俺はともかくとして、一〇代の理子は周りから奇異の目で見られるかもしれない。
そう考えると、高校卒業と同時に結婚するのは、正直ためらわれる。
「ねえ、和真さん」
理子が上目遣いに、俺の顔を覗き込んでくる。
俺が何を考えているのか、理子は理解しているようだ。
「私、和真さんのこと大好きです。今も、そしてこれからもずっと」
理子の白くてか細い手が、俺の髪を撫で、頬で止まる。
「一七歳、年の差があっても、そんなの関係ありません。私は生涯、和真さんだけを愛し続けます。だから――」
理子の柔らかな唇が、俺の唇にそっと触れた。
「これは、その誓いのキスです」
ほんの少しだけ顔を遠ざけると、理子は俺に問いかける。
「和真さんも生涯、私だけを愛し続けると誓ってくれますか?」
「ああ。もちろん、誓うとも」
そして、俺は理子を抱きしめると、彼女にそっとキスをした。